悩み多き、乙女の心(卅と一夜の短篇第13回)
「ん〜、どっちにしようかなあ〜」
杏は悩んでいた。
ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキの中から、欲しいものを選ぶ。いちごのショートケーキ、ベイクドチーズケーキ、ブルーベリーのムース、カシスのジュレ。
きらきらと輝く甘い宝石を前にして、悩まないわけがない。特に甘いものに目がない杏には、この中からひとつだけを選ぶのはかなりの難題だ。
それでもどうにか候補をふたつに絞り、そこでまた悩んでいるわけである。
「ベリーのタルトにしようか、ザッハトルテにしようか……う〜ん、悩むなあ」
見た目で選ぶならば、色とりどりのベリーをたっぷり乗せたタルトに軍配が上がる。甘酸っぱいベリーとその下に敷かれたカスタードの相性は抜群だろうし、サクサクのタルト生地も魅力的だ。
けれども、ザッハトルテも捨てがたい。濃厚なチョコレートに包まれた茶色い生地はきめ細やかで、しっとりほろほろと口の中で解けるだろう。生地とチョコレートコーティングの間に挟まれた杏ジャムの甘酸っぱさを思うだけで、唾液が溢れてくる。
いやしかし、この店のタルトはバターを贅沢に使っており、その食感の良さはぜひ味わってほしいと、有名グルメサイトにも書かれていた。涼一郎から突然、今度の休みに遠出しよう、と言われたときにしっかりと調べてきたのだ。
悩みに悩んだお店選びは、この店は洋菓屋なのに日本茶もある変わった店なんだな、という涼一郎の言葉で終わり。そこからは、電車でちょっと遠出しなければならない店だから悔いのないように一番おいしいケーキを食べよう、でもチョコレート系も好きなんだけど、と注文するケーキに頭を悩ませ、涼一郎のチョコケーキは持ち帰りにしたら? というひとことでタルトに心を決めてきた。
だが、いざショーケースのポップを見ると、店内飲食に限りザッハトルテにはゆるく泡だてられた生クリームが添えられるという。なんと卑怯なことか、と杏は憤る。こんな情報はグルメサイトには書かれていなかった。
しっとり甘いチョコレートケーキに甘くないクリームを乗せたときに生まれる繊細な味。おいしくないわけがない。
「悩むんなら、両方食べればいいだろ」
悶々と悩む杏に、ぽんと投げかけられた名案。
「それだ! 涼ちゃん天才!」
すぐさま食いついた杏は、しかし一瞬ののちに再び眉間にしわをこさえる。
「いや、でもふたつも食べたら太っちゃうし。お昼にクリームパスタ食べちゃったから、確実にカロリーオーバーだし。でも、せっかくきたんだからどっちも食べたいけど……」
「このタルトと、チョコレートのやつ。それからプリンをイートインで。飲み物は、これとこれで」
ケーキをひとつにすべきか、ふたつ食べてしまうか悩みだした杏を放置して、涼こと涼一郎は注文を済ませてしまう。
ベリーのタルトとザッハトルテ、それから自分用のプリンアラモード。セットのドリンクはケーキを決める前にさんざん悩んで、煎茶を選んでいた。せっかく珍しい店に来たのだからと、日本茶を飲みたい、と先に決めていたのだ。涼一郎が選んだのは、杏が二択で諦めたほうじ茶だ。
「ほら、座るぞ」
さっさと注文を終えた涼一郎に促され、杏は店内の喫茶スペースへと進む。そして、お好きなお席におかけください、と言われて足を止める。
窓際の席はカウンタータイプで、ガラスの向こうに見えるのは店の庭だろうか。ところどころに花が植えられた、緑いっぱいの気持ちのいい景色が広がっている。明るい陽射しに包まれて外を眺めながら食べるケーキは、きっと美味しいだろう。
窓辺の反対側、奥まった場所にある席は個室ではないものの、周囲を背の高い観葉植物に囲まれていて、半個室のようになっている。日光が届かない場所のため、たよりないオレンジ色の照明がぼんやりと照る、雰囲気のある一画となっていた。ひとくちひとくち味わって食べるには、うってつけの場所だ。
イートインスペースの中央に並ぶソファも、気持ちが良さそうだ。低いテーブルを囲うように置かれたソファはひとりがけの割に大きく、柔らかそうだ。体を預ければ柔らかく沈み込み、包み込むように受け止めてくれるだろう。心も体もリラックスして、ゆったりとした時間を過ごすことができるだろう。
どこに座ろうか、どこも捨てがたい、と悩む杏の横をすり抜けたのは、涼一郎だった。
「こっち。今日はここに座るぞ」
疑問符はない。決定事項として告げられた言葉に、杏は驚いた。
涼一郎はいつだって、時間の許す限り優柔不断な杏に付き合ってくれた。幼稚園に付けていくリボンの色に悩んだときも、互いの両親と一緒にランドセルを買いに行ったときも、中学校でさまざまな部活に目移りしたときも、高校受験で志望校の欄を埋められなかったときだって、横からあれこれと口を出しながら、杏が自分で決めるのを待っていてくれた。
その涼一郎が、杏に確認も取らずにすたすたと歩く。先を行く涼一郎の背中が離れていくのに気がついて、杏は慌てて薄暗い奥まった席に向かった。
濃い茶色のテーブルはどっしりとしており、同じ色の木に飾り彫りをした椅子が置かれている。椅子の座面と背もたれには暗い赤色をした手触りの良さそうな布が貼られている。
ほどよい弾力の椅子に座ると、とてもしっくりと馴染む。肘掛けに彫られた流れるようなラインは滑らかで、いつまででも撫でていたくなる。
「この椅子素敵だね。アンティークって感じで可愛いうえに、座り心地もとっても気持ちい〜」
上機嫌で椅子やテーブルに目をやる杏は、先ほどの驚きなど忘れてにこにこと笑っている。
しかし、話しかけられた涼一郎は、ああ、と生返事を返す。壁を見たり、周りを囲う緑を見たりと、杏に視線もくれない。
どうしたのだろう、と心配になった杏が声をかけようとしたとき、店員がやってきてケーキとお茶を並べてくれた。
「わあ〜。ケーキの横に湯のみが並ぶって、なんだか新鮮だねえ。お皿も和風だし、フォークも木で出来てて、いい感じだね〜」
店員が下がってすぐ、杏は目の前の素敵な光景に見入って歓喜の声を上げる。しかし、返事がないことに気がついて顔を上げた。
「涼ちゃん、どうしたの? トイレ行きたい?」
俯く涼一郎に声をかけるけれど、動かない。
「具合、悪くなっちゃった?」
「……いや、そんなんじゃない。大丈夫」
心配した杏が腰を上げかけたとき、ようやく涼一郎が返事をした。
杏はそのことに少しだけほっとして、椅子に座りなおし、ならばどうしたのだろう、と涼一郎の様子を伺う。
「……あのさ。お前、このあいだのやつに返事、したの」
顔をあげないまま言われた言葉に、杏は首を傾げた。
このあいだ、返事、と考えて、杏はああ、と思い至る。
「あの、三組の中田くんのこと?」
応えながら、中田に言われた言葉を思い出して杏は頬を染めた。それを見た涼一郎が膝の上で拳を握ったのに気がつかず、杏は続ける。
「ええとね、それがね。せっかく好きだ、って言ってくれたのにわたし、別に中田くんのこと好きってわけじゃないんだよね」
赤くした頬に手をあててもじもじしながら言う杏は、目の前で涼一郎がほっと肩の力を抜いたのにも気がつかない。
「でも、告白されるのなんて初めてだし、いま好きじゃないからって断るのも悪いかなあ、と思って」
杏の言葉に、涼一郎が再び固まった。
「ちょっと考えさせて、って言って、返事は保留にしてもらってるんだ」
「……なに、ぐだぐだ考えてんだよ」
えへへ、と照れたように笑う杏に、涼一郎は深く俯いたまま絞り出すような声で言う。
幼馴染のこれまで聞いたことのない声に、杏は驚いた。
「んなもん、悩むようなもんじゃねえだろ。嫌いじゃねえからって付き合うのかよ。初めて告白されたからって、そんなんで付き合うのかよ」
低い、怒りさえこもったその言葉を、杏は声も出せずに聞いていた。
涼一郎は強く拳を握りしめると、俯いていた顔を勢いよくあげて杏を見る。
「だったら、俺のほうがもっと早くに告白してんだろ! 嫌いだったらこんなにずっと一緒にいないだろ。だから、お前は俺と付き合うべきなんだよ!」
怒鳴るわけではない、けれど強い調子で言う涼一郎の瞳の真っ直ぐさに、杏は見惚れていた。
いつも隣にいるちょっとだるそうな幼なじみが、いつになく格好良く見えていた。
そして、ぼうっと涼一郎を見つめているうちに、言われた言葉が遅れて頭に届き、顔を真っ赤に染める。一瞬のうちに身体中が燃えるように熱くなり、パニックに陥った杏は椅子をがたがたと鳴らして後退する。
「え、え? なにそれ。どうゆうこと? 告白って、涼ちゃんいつそんなことしたの!?」
「……小学校に入学したとき。言っただろ、大好きだ、ずっと一緒にいよう、って」
忘れてんのかよ、とむっすりした顔で目線を逸らし、ぼそぼそと言う涼一郎は耳まで赤い。
それを聞いて、杏は舞い散る桜の下でかつて聞いたその言葉を思い出した。幼さゆえに友だちへの好きだと思っていた、その言葉。そんなに昔から涼一郎が自分を異性として好きだと思っていたと知って、そのことが嬉しくて、杏の体温はさらに上がる。
茹で上がってしまいそうなほどの熱さの中で、涼一郎のことが好きだ、という気持ちが収まりきらないほど胸に湧いてきて、杏は言葉も出ない。
そんな杏をちらりと見て、涼一郎が顔を赤くしたままぼそりと言う。
「十分考える時間はあっただろ。返事、あのときからずっと待ってんだからな。いい加減、聞かせろよ」
そっぽを向きながらもちらちらと目線を向けてくる涼一郎に、杏の胸は熱いものでいっぱいになった。
いつもいつも悩んで決められないけれど、ずっとずっと待っていてくれる涼一郎に甘えてきたけれど、今だけは悩まない。杏が言うべき答えは、気がつかないだけでもうずっと昔から心の中にあった。
「わたしも大好きです! これからも、ずーっとずっと、付き合ってください!!」
激甘にできた、と自分では思っております。