第三十七話 葛藤の夜
明かりも灯ってない、暗く静かな部屋に時計の秒針がカチカチと音を刻む。
短針、長針共に蛍光色が付与されているため、暗闇でも逢花は時間を知ることができた。
現時刻02時09分――
寝間着でもなければ部屋着でもない。これから戦いが控えてるわけでもないのに、逢花は今、自身の戦舞衣装変換したチャイナドレスを思わせる民族衣装に身を包んでいる。
「そろそろ良いかしら」
用意していた布製のリュックサックを背負い、自分以外は誰もいない自室を後にする。
逢花の部屋は二階にあり、隣には水葉の部屋がある。板張りの廊下を通って一階に下りるわけだが、その際、水葉の部屋の前を通る必要がある。それとは反対側の角を曲がって、家の端に位置する、元々は物置部屋に使っていた部屋が薙斗が使っている部屋だ。
自分の部屋を出たら、何事もなく真っ直ぐ下の階に下りる――
そのつもりだった。
意識したわけではなかったはずなのに、身体が自然と後ろを振り返ってしまった。
先は曲がり角になっているので、ここから見えるのは壁のみ。そんなことはこの家に住み込んで、もう七年にもなる逢花には見慣れたものなのにだ。
いつもなら気に留めるなんてことあるはずもないが、今日の逢花の心境は違っていた。
(ナギトさん……黙って行ったら怒るかしら……)
思えば、薙斗と知り合ったのは桜の咲き溢れる春の頃。今がまだ五月の中頃なので、出会ってまだ二ヶ月にも満たない。
なのに――……
なぜ、こんなにも自分の胸を締め付けるのだろうと逢花は思った。
(苦しい……)
まるで長年の友人を失うかのような気分に戸惑う。
数年間も一緒に同じ屋根の下で暮らしてきた水葉にこの気持ちを抱くのなら理解できる。
月之杜神社に留まる以前は、子供ながらに各地を転々としてきた。せっかく、その土地土地で親しい人が出来ても別れを繰り返してきた。
薙斗とのお別れも、そのうちの一つに過ぎなかったはずだ――……
けれど、今なら違うことがわかる。
何がいつもと違うのかまでは解らないが、間違いなく逢花の中で何か心境の変化があったのだ。
自分が思っていた以上に、薙斗が自分の心に踏み込んでいたという事実に、逢花は今更ながらに気が付くこととなった。
それでも逢花の心は――
(ごめんなさい…………)
薙斗との別れを選んだ。
会いたい。
最後に会って話をしたい――
自分の正直な気持ちとは裏腹に、今、抱いている想いを否定するかのように、揺らいだ心を整えようと頭を横に二度揺らす。
気持ちの整理を済ませ、後ろ髪を引かれる思いで向き直ると、今度は最大の難関……水葉の部屋の扉が視界に入った。
(水葉ちゃん……今まで友達でいてくれて、ありがとう。……あと、ごめんね…………)
薙斗の時と違って、ここだけは何事もなく平静で通り過ぎれるとは、逢花も最初から思ってはいない……覚悟もあった。
それでも思考と心はまったく異なるもので、意に反して足が扉の前から動こうとはしない。
子供の頃に水葉と出会い――
友達になり――
同じ屋根の下に住み、まるで姉妹のように共に育った。
水葉は一番の友達で――……
コンビニで買ってきた料理本を一緒に見ながら、どちらが美味しく料理を作れるか水葉と競ったことがあった。もちろん、言い出したのは水葉。でも、これが意外と面白くて、気が付いたら水葉よりも自分の方が熱くなっていたことを逢花は覚えている。これが切っ掛けで逢花は料理にハマっていった。
そういえば、コンビニを初めて知ったのもその時だ。
日本に来る前は、中国僻地の山脈で暮らしており、そこにはコンビニなんてものは無かった。電気すら通っていない社会から隔離された場所だったので、おおよそ店と呼べるようなものすらない。
要するに逢花は、田舎者中の田舎者だった。
そんな社会の仕組みに疎かった自分が、たった一人で海を渡り、日本に来たは良いものの自分が住んでいた世界との違いに大いに驚き、戸惑い、不安で胸が張り裂けそうな思いをしたことも、今では遠い昔のように感慨深く逢花は思う。
その頃、逢花はまだ九歳。
都会の喧騒に迷って困っているところを、自分とちょうど同じ歳ぐらいの少女が声をかけてくれて、安心できたことを覚えている。
その時の少女が水葉。
偶然通りかかった水葉が見かねて、街の中を案内してくれた。行く場所全てが逢花にとって新鮮で興味深くて……友達に飢えていた逢花には、同年代と一緒にいられることが凄く楽しくて嬉しかった。
長く独りだった逢花にとって、自分と同じぐらいの歳の女の子とこうして一緒に遊ぶことは、昔から夢見たものであり、渇望して止まなかったもの。その想いはひとしおだった。
「ふふ。初めて会った時から水葉ちゃん、もう気丈な性格してたなぁ。右も左もわからない私の手を引っ張って、いろんな所を見せてくれて……」
自分の知らない世界に触れることは、当時まだ子供だった逢花の目にはとても刺激的で魅惑的に映った。その日の出来事を一生忘れないだろうと思ったものだ。
何より嬉しかったのは、同世代と共に行動するのも初めてで……友達が初めて出来たこと。
――――初めての友達。
ふと、目の奥が熱くなっていくのを感じる。
次々とどうしようもないほどの切ない感情が込み上げてきて、胸を容赦なく締め付けてきた。
「……泣かないつもりだったのになぁ……。私ってダメですね……」
誰に見られるわけでもないのに、逢花は隠すように顔を伏せた。
(……覚悟が足りなかった?……ううん……。水葉ちゃんとの絆はそんな簡単に割り切れるものなんかじゃない……! ……それでも!! ……それでも私は…………)
――大好きな親友を裏切ろうとしている……
下唇を強く食い縛る。
切れた唇の端から一筋の血がスゥーっと流れた。それでも逢花は噛む力を緩めようとはしない。
ドアノブに手が伸びるが、既のところで思い止まった。
大恩ある音羽家を……親友を捨てて、今から黙って去ろうとする自分が、どんな表情をして会えば良いのか?
そう思うと、逢花は出した手を再び元の位置に静かに戻すしかなかった。
戻した手はグッと握り締められ、痛いほどに爪が皮膚に食い込む。しかし、当の逢花はそんな痛みなど微塵も感じてなどいない。
本当に痛いのは『心』の方。
肉体的苦痛よりも、精神的苦痛の方がずっとずっと辛いことだってある。
今がまさにその時だった――
中で眠る水葉を起こさないように、静かに扉の前から離れようと、一階へと続く階段に向かう。
壁に手摺りは備え付けられているが、それには手を触れずに一段一段踏みしめて下りる。
最後の段を下りきった時には、逢花の濡れた頬から涙の跡はすっかり消えていた。
瞳には先程までの憂いなど一切感じられない。
これ以上、何事にも動じないことを己に強く誓った、決意に満ちた鋭い眼光を瞳に灯していた。
玄関をなるべく音を立てないように出る。
夜の神社を灯す最低限の明かりは、石畳を挟む両端の石灯籠の灯りのみ。一定の距離を空けて石灯籠が綺麗に整列されている。
今宵も昨夜に続き、天気が悪い。
雨が降るほどではないが、いつも見れる星空が月と共に今は雲に隠れ輝きを潜めている。
石畳の上を神秘的な灯籠の灯りに照らされながら、ゆっくりと逢花は歩を進める。
大鳥居を抜けると、いつも通学の時には必ず通る、山を下りるための長い長い石造りの階段が姿を現した。
一歩下りる度にカツンと乾いた音が、静寂に包まれた夜の山に響く。
揺るがない気持ちの根を心の奥に植え付けた逢花。
そんな彼女が最初に目にした人物……
それは……
「こんな時間に一人でどこに行くんだ、逢花?」
最下段のすぐ手前にある、月之杜神社へと続く最初の鳥居の陰から人影が動いた。
「ナギトさん……」




