第三十話 ゲート密着?移動方法
どうして、こんな状況になってしまったんだろう?
「ん……あまり動かないでくださいな。わたくしから離れると門から抜けれなくなりますわよ」
「すいません……」
今、俺の顔のすぐ前にはウェーブのかかった淡藤色の髪がある。何か花のような甘い香りを身近で感じられる距離。これが紅栗先輩の匂いなんだと意識すると、頭が逆上せたみたいにクラクラする。
決して嫌という訳ではない。むしろ両腕から感じる温もりの心地よさも相まって、とても安心出来る匂いだと思う。
「? どうかされましたか?」
俺は大慌てで、何でもないと頭を振った。
もし、今、思っていることを口にしようものなら、きっと軽蔑の視線を頂けるだろう。それどころか、紅栗先輩が作り出した、この一切が闇に包まれた異空間の中に振り落とされるかもしれない。
今、俺たちは紅栗先輩を先頭に、俺が後ろから先輩の腰に手を回す形で、宇宙を漂う漂流者のように身体を浮かせて進んでいる。
先輩が持つ錫杖の先端から発せられている光を頼りに、完全な闇の中でも、先輩はもちろん、周りの光景も見ることができた。
光源の届かない先は、ただただ暗くて何もない。
気温は外の世界より幾分低いだろうか。過ごしやすい気温だと言える。気温だけを思えばだが。
どこまでも真っ暗で何もなく、地平線もない、こんな空間に一人居続ければ、心が病んでしまうこと間違いない。
灰色の世界以外の異空間に入るのはこれが初めて――
同じ異空間でもここまで印象が変わるものかと、正直俺は驚きを隠せないでいた。
魔力感知を彼女と共有するために、俺は今、学園のアイドル相手に役得なことをしているわけだが、俺の先程からの邪な思考までも先輩に流れ込んでいないかと内心ヒヤヒヤしていた。
先輩の表情がこちらから見えないというのが、より俺の心配を煽る。
「やはり、何かありましたか? 先程から集中できていないようですが……? 思考の乱れを感じますわ」
先輩の女子としての部分に完全に気を取られていた俺は、意識外から声を突然かけられ、心臓が飛び出てしまうんじゃなかってほど驚いた。
それが俺に不幸な事故を招き寄せようとは……
体温を感じるほど側に美少女がいて、年頃の男子が何も思うなというのが無理という話である。そんな俺の邪念に気付かれたかもしれないと、慌ててしまったのが失敗だった。
先輩の腰に回していた手をつい解いてしまうと、身体が後ろに引っ張られるように流されてしまいそうになる。
このままじゃ不味いと、俺の本能が無意識に悟ったのか、咄嗟に先輩にしがみつくために手を伸ばし――
「きゃっっ!!!」
俺に続いて、先輩も驚きの声を上げた。
遠慮がちな膨らみのある、柔らかい何かが、俺の掌に鷲掴みにされて収まっている。
「これって……」
以前も同じような感触を体感したことがある。
その時はもっと柔らかくて掌に収まりきらなかったわけだが……俺の記憶が正しければ、この後、俺の身に不幸が舞い降りて……
まるでギギギギという擬音が似合いそうな、それはもう、ゆっくりと、小刻みに紅栗先輩がこちらに振り向いた。その顔は、俺の予想が的中していたことを一発で分からせる、不自然なほどの満面の笑顔だった。
「え~と……これは不可抗力というやつでして……」
「そうですか。その割には先程から魔力感知に集中できていなかったように思えますが……まさか、その時から邪なことを考えてらしたので?」
「め、滅相もない……」
――考えていましたとも!!
健全な男子ならば、この状況下で無心でいる方がいろいろ問題があると思われるが、当然、反論など許される雰囲気ではない。
蛇に睨まれた蛙のように、俺は先輩から疑わしげな視線をじっと向けられてしまう。
「……分かりましたから、そろそろ離してもらいたいのですが。でないと、わたくし、笑顔を維持するのもそろそろ限界を迎えそうですわ」
言われて、未だに彼女の胸を鷲掴みにしたままの自分の手の存在に気が付いた。慌てて手を離す。
「……あ! ごめん!!」
本当なら、このまま身体ごと離れたいところだったが、それを実行しようものなら、先輩曰く、俺はこの闇の中に取り残されてしまう。なので、空いた手を元あった腰の位置に戻すに留めた。まさか、それすらも、もうダメだと言われれば、俺にはもう打つ手なしだったのだが……彼女の顔を確認したところ、幸い、そうならずに済んだらしい。
「えと……俺が言うのもなんですが、先輩、先へ行きましょうか」
「いいえ。……それはもう結構ですわ」
辺り一面、闇の中だというのに、先輩は進むことを止めた。
それともここが魔力感知で突き止めた場所なのだろうか?
俺にはもっと先の方で魔力を感じる気がするのだが、如何せん、この空間の中では俺の感知能力は当てにならない。なにせ、ここは移動距離を短縮するために先輩が作り出した空間だ。俺が思っているとおりの距離ではないかもしれない。
例えば、俺が実際に5キロ先で感じる魔力も、距離を短縮された空間の中では1キロにも満たないのかもしれない。それが分かるのはこの空間への道を作り、空間能力に長けた先輩だけだ。
「まさか、さっきのことを怒って、ここに俺を捨てていく気とか……?」
「ん~……面白い発想ですが……残念、間違いですわ」
「残念って……じゃあ、まさかここが?」
彼女が再び、俺を見ようと首だけ振り向けた。今度はさっきのような怖さを感じない。
「はい。準備は良いですか? 行きますよ!」
先輩の言葉に、無言で了承の意を首を縦に振ることで俺は示した。
俺の意思を汲み取った先輩が門を開こうと、先端が光ったままの錫杖を片手で頭上に持ち上げる。
門が開けば、十中八九、戦闘になるだろう。
予想通りなら、昨夜、月之杜神社にやって来た執行部の中にいた誰かだと俺は睨んでいる。その中でも逢花と戦った副団長のエイルフィールと、俺と戦ったダルバ兄弟は負傷しているため、まだ半日も経っていないのに無理して攻め込んでくるとは思えない。なら、残りは『あの男』しかいない。
もし本当にあの男なら、尊厳に満ち溢れた金髪の少女騎士とも、敵ながらどこか憎むことができない筋肉兄弟とも違う……人を殺すことを何とも思わない愉悦で戦うタイプの人間……そんな奴を許すこともできないし、見逃すことも俺にはできない。
昂っていく気持ちを胸に秘め、俺は戦いの覚悟を決めた。
視線を前面に向ける。
ところが、俺の意識とは裏腹に、さっきまでの身体が浮く感じが突然失われた。まるで落とし穴に落ちてしまったような、足元に重力を感じたのだ。
見ると、足元に門となる楕円形の穴が出来ていた。
不意を突かれ、大いに驚く俺の耳に、信じられない声が届く。
「ふふ。さっき胸を揉まれた仕返しですわ」