第七話 清めの少女
春の終わりが近付きつつある今日の朝。
昨夜、山中にいた時は気にならなかったが、まだ朝早い時間ということもあり、同じ山中だというのに気温が低く、山の様子もずいぶん違って見える。
昨夜の一件から、四時間ほど経過しただろうか。
辺りはすっかり明るくなり、昨日は暗くてほとんどわからなかった山の景色も、今ならはっきりと、その鮮やかさを知ることができる。
眠そうな目を擦りながら、前方の遠くを双眼鏡から覗く、俺こと瑞原薙斗がそこにいた。
今から一時間前。
まだまだ寝ていたい俺の耳に電話音が届いた。
別れ際に言っていたとおりレンが電話をかけてきたのだが迷惑な話で、あれから三時間しか経っていなかった。
俺は恨めしい気持ちを抑えることに努めながら電話に出た。
電話内容は当然、今日の活動について。
昨日に続き、俺は音羽水葉の監視。
陽が明ければ一般客が参拝に来るだろうから迂闊なことはできないはずで、二人で行くより一人の方が相手を刺激しないという理由で、俺一人で月之杜神社に行くことになった。
それでも敵の本拠地に一人で向かう以上はもちろん無理なことはしない。そのあたりはレンも言っていたが遠くから監視をするだけで良いとのことだ。相手が何かアクションを起こした時は無理に戦おうとせず逃げてきなさいと言ってくれたので、ヤバくなったら遠慮なく撤退できる。
レンはその間に別の調査を進めると言っていた。
双眼鏡の先には何十段もある長い石作りの階段が見える。
そこから下を見ると階段の最上段と最下段の中央より何段か上が平面となっており、この平面の石畳の地面を上下共に何十段にもなる石の階段がそれぞれの地面に向かって伸びている。全体で見れば百段は優に超えるだろう。
この石作りの階段を上から中央付近の平面部に向かって下りて行く人物を俺は双眼鏡越しに目で追っていた。
髪は長く、結っているにも関わらず腰を少し超える長さの黒髪が階段を下りる度に軽く跳ね上がる。
丈が足首ほどある真っ白な着物を着ており、その下にも白い襦袢を着ているようだ。
彼女の名前は音羽水葉。
昨日、俺が本来は監視するはずだった少女。
俺が間違って追ってしまった少女とどうやら同じ高校らしい。
レンの情報では、この階段を上った先にある月之杜神社の娘で、今年十七になるとのこと。
父と姉の三人家族らしく、現在、父親は仕事で家を出ており、姉の方は都内の学校に通うため単身で都会暮らしをしているらしかった。
つまり現時点で月之杜神社を取り仕切るのは彼女……音羽水葉ということになる。
昨夜、レンと共に俺が襲われた山中……そこは月之杜神社が管轄している山で、その山の奥に神社が存在する。
鳥居の付近でヘルハウンドが現れたことを考えると、神社が無関係とは考えにくい。
「今のところ彼女が魔女という可能性が高いか……」
誰に聞かせるわけでもなくボソリと俺は呟いた。
レンが彼女を魔女と疑い、俺に監視させるのは、どうやら的外れというわけではなさそうだ。
ただし、証拠があるわけでもない。
昨日今日のこの監視はそのための情報集めのためのものであるのだ。
何気なくスマホを覗き込む。
画面には昨日、電車内でレンから送られてきた写真とメールが映っている。
今、俺が監視している巫女と写真に映っている少女……今度こそ間違いはないなと確認し、そこで昨日の銀髪の少女のことを思い出した。
「そういえば、昨日は何も思わなかったけど、な~んか見覚えがあるんだよなぁ……」
どこかで会ったことあったっけ? と記憶を探るが、あれほど見事な銀髪の知人を思い返すまでもなくいない。
いや…………一人だけいたな。
幼少の頃、交通事故に遭い瀕死だった俺を救ってくれた『天使』
彼女を目の前にして、すぐに記憶を失ったから本当のところは彼女が俺を助けてくれたのかどうかはわからないのだが、なぜか俺は初対面だった彼女が救ってくれたに違いないという確信のようなものを持っていた。
けれど昨日の少女は『天使』ではない。
事故に遭う前は人の顔を認識できていたので天使の顔は覚えている。
天使も若く美しい女性だったがさすがに女子高生ぐらいの年齢というふうには見えなかった。大人の落ち着いた雰囲気を纏った女性というのが初見の印象だ。
昨日、電車内で会った女子高生の顔はわからないが、確かに彼女も美しい銀髪だったが別人だ。どことなく雰囲気は似てたかもしれないが。
そういえば……昨日、あんなことがあったんだっけ…………
「……柔らかかったな」
ポツリと漏らしながら、無意識に自分の掌を開いては閉じて、開いては閉じてを見ながら繰り返す。
昨日の電車内で倒れそうになった彼女を支えた時にうっかり彼女の胸を鷲掴みしてしまったことを思い出し、柔らかかった感触まで思い出してしまった。
急に顔が熱くなる。
あれは不可抗力だし……。
熱してしまった頭を冷えさせようと他のことに意識を集中するべく、再びスマホの画面に視線を戻す。
ん? これって…………
『お前は誰を追っているんだ?』
レンから送られてきた一文。写真を除けば、本当に一文しかないが。
いつもと言葉遣いが違うような。まぁ、実際の口調とメールで話す時で口調が違う人もいることはいるし、オンラインゲームなんかでもロールプレイによって話し方が現実の自分と違う人は割りかし存在する。
……気にするほどでもないか。
視線を双眼鏡のレンズ越しに映る音羽水葉に移す。
(ん~……でも、なぁ……)
巫女と魔女が=だとは俺の中ではどうしても結び付けれないのだ。というか、抵抗さえある。
なぜなら、巫女とは神に仕える女性である。
神楽を舞ったり、祈祷を行ったり、神職補助を行う女性として古くから存在する職。
特定のメディア……ゲームであったりアニメでも取り扱われていることも多く、初詣や観光で神社へ行けば見かけることもあるだろう。
最近では朱印集めが人気が出てきており、その際に巫女の方と接することすらある。
それほど、現代においてよく知られている存在だ。
神社の娘で、両親の留守を預かるとなると、音羽水葉はまさに本物の巫女に違いない。
それはつまり、マジョカルが魔女を退治する対象としては大きくかけ離れているからだ。
マジョカルが魔女を退治する理由は、平和に暮らす人々を惑わし、苦しめ、災いをもたらすからであり、一般の人々の平和を影ながら守るのがマジョカルの使命だと俺は組織から教育され、俺自身もそのように思っている。
(……はっきりしない以上、続けるしかないか)
答えの出ない思考から一旦離れることにし、双眼鏡から見える視界に意識を集中することにする。
階段中心付近の平面部に辿り着いた真っ白な衣を纏った少女。
そのまま下へと続く階段に向かうものだと思っていたのだが、少女は右へ回ると、木々が立ち並ぶ以外は何も無さそうな道なき道へと歩いて行った。
少女の向かう方向は、俺のこの位置からだとちょうど反対になるので、彼女を見失わないように俺も移動しないといけない。
彼女に気付かれない一定の距離を保ったまま、俺は急いで追うことにした。
階段中心付近の平面部に着き、少女が歩いて行った方を覗いて見るが、細かな枝や草々が視界を遮り先の様子がよく見えない。
彼女の姿も視界に捉えることはことはできなかった。
(くそ! こんな山の中に何があるんだ?……)
俺の中で不安な感情が生まれ始めていた。
彼女が魔女だとすれば、これから何かが起きるかもしれない。
何か重要なことを見逃してしまうのでは? という『もしかしたら』が俺の気持ちを大いに逸らせ、その足を走らせてしまう。
木々の間を避けながら走り続けると、ふと耳に水の流れる音が聞こえてくる。
水の音が近付くにつれ、激しく打ち合うような音が聞こえる。おそらく滝が近くにあるのだろう。
少女を見失い手がかりもなかった俺は、何を考えるまでもなく自然と滝の音を目指して駆け出した。
この時、自分が『重大なミス』をしてしまったことに気付いていなかった。
後になってから気付くことになるのだが、今の俺には知る由も無い。
滝の音がはっきりと聞き取れる頃には、周囲の開けた陽の光が届いた景色が見え始めた。そちらに向かい、ようやく木々から抜け出し、陽の光をいっぱいに感じ取る。
さっきまで木陰の中を走り回っていた俺には、実際には時間にして十数分しか経っていないにも関わらず、何十分も走り回っていたような錯覚を感じ、久々に受ける太陽の光の眩しさに目を閉ざしてしまった。
それもほんの数秒のことで、次第に明るさに慣れていき、少しずつ瞼を開けていく。
最初に目に映ったのは土の地面。
ところどころ雑草が生えているのが見える。
そこから少し奥を見ようと視線を動かすと何の変哲もない大きな岩が見えた。
岩の大きさを確認しようとさらに視線を動かすと岩の上に赤い布の上に白い布が綺麗に折り畳まれて置かれているのを発見。
なんだろう? と思いつつも半目だけ開けた状態で正面を向くと、肌色の何かが瞳に映り、俺の頭の中にはさらに疑問符が増えたのだが、明るさに完全に慣れれば、それは一瞬で解決した。
理解と同時に寒気を感じ出す。
つまりは、岩の上に置いている白と赤の布は巫女の服であり、正面の肌色はこの巫女服の持ち主であろう。
さらに言うと、この巫女服はさっきまで俺が追っていた少女の可能性が高い。
なぜなら巫女は早朝、穢れを祓うために水浴びをすることがあると聞いたことがあるからだ。
何よりも、正面に濡れた長い黒髪の、一糸纏わずに太腿の付け根付近まで水に浸かる少女の背中が見えるのだ。
水浴び中の少女が後ろから気配を感じたらしく、ゆっくりとしたぎこちない動きで気配のする方を振り向いてしまった。
俺と少女の視線が合わさる。
「え、え~と……」
「―――――!!」
「……はじめ……まして……?」
動揺していたとはいえ、我ながら随分間抜けな言葉だなと思った。
「き……」
「き?」
「きゃあぁぁぁっ!」
「わっ、ご、ごめん! わざとじゃないんだ! 覗くつもりじゃ……」
「のぞ……!!」
少女が急に全身水に浸かり、その身を隠そうとする……と思ったが、水中に隠れた右手が拳大の石を掴んで姿を現した。
(おいおい、まさかそれを……)
「早く、あっちへ行けっ――――!!!!!!」
「ま、待った!…………」
ガチンッ!!
言うや否や、右手に捕まれていた岩は直線状になって見事、俺の頭に命中するのであった。
(や……やっぱり……)
こうして俺の意識は暗闇へと落ちていった。