第二十六話 灰色の世界の魔女 前篇
今回、多少ですがグロテスクなシーンがあるので、そういったのが苦手な人は読むのを控えるか、読み飛ばした方が良いかもしれません。
「ここは何です!? 急に周りの様子が変化して……いえ、これは色だけが変わったのですか!? これではまるで灰色の世界みたいではないですか……まさか、ここは学校ですよ……!?」
分校舎三階のさっきまで教室『だった』場所が、レン・オルティブが言うように、突如として教室内をモノクロの世界が覆いつくしていた。床も天井も壁も……机も黒板も、透明なはずの窓硝子でさえ白か黒の二色のみで統一されている。
常に非日常を生き抜いてきた、魔女狩りを始めて月日も長いレンだが、こんな異常と遭遇したのは初めてのことだった。
この世界には今二人いる。
緑髪で、糸のように目が細い長身の男レン・オルティブと…………先程まで確かに只の人間だった、腰の辺りまで長く伸ばした黒髪を持つ音羽水葉『だった』者……今では髪を淡く赤みがかった桜色に、瞳を花菖蒲のような赤の混じった紫色に変えた魔女が。
「また、あなたなの? ……田園でも私が眠っている時に、ちょっかい出していたわよね……そんなに若い女の子を嬲るのがお好きなのかしら?」
「……私の記憶と随分見た目の印象が違う気がしますが」
「そう……なら、これなら思い出してもらえるのかしら?」
解き放った魔女の魔力が、自身の桜色の髪を下から吹き上がらせる。
それだけでは済まず、魔女が発する圧力はレンにまで届く。
肌を刺すような、痺れにも似た筋肉の硬直が緑髪の青年を襲った。
感じる魔力は紛れもなく、レンが以前に感じた『新緑の魔女』のものだ。一度はこの魔力によって死にかけたことがあるレンにとって、間違えるはずがなかった。
見た目通りの年齢ではないはずの、目の前にいる少女……つい先程までこの世から消えたと思い込んでいた新緑の魔女だと気付いたレンは、当時殺されかけた時に覚えてしまった『恐怖』までも記憶から呼び起こされた。
青年の引きつる顔に、満足気な笑顔を魔女が作る。
「因果応報というものよ」
言う通り、さっき水葉がレンに対して、かつての恐怖を思い出したことへの趣旨返しとなった。
「あなた、前は私のことをいろいろ調べ回っていたくせに知らなかったの? ……この教室はね、かつて私が力を取り戻す為に、生徒たちに黒魔術をさせていた場所……私の領域への入り口なのよ。ここ限定だけど、私の世界を現実にまで及ぼすことなんて造作もないわ」
「……なるほど。その髪の変化は、魔女としての本来の力を取り戻した現れですか……。ですが考えてみれば、それほど恐れるものではないのかもしれませんね……。あなたの力は植物を操ることに特化したものだったはず……いくら本来の魔力が使えようと宝の持ち腐れなのでは? なにせ灰色の世界とは、魔女が創り出した偽りの世界!! 現実とは似て非なるもの!! いくら植物を作り出そうと、所詮偽物ではあなたの本来の力には遠く及ばないはずですよ!!!」
優位に立てたかと思ったレンの心に余裕が生まれようとした矢先、魔女の姿を見た途端に大きく心が揺さぶられた。再び穏やかという言葉から縁遠いものに染まっていく……。魔女の表情が何も苦に感じていないような笑みを浮かべたままだからだ。
「……よく喋る男……そんなに私が怖いのかしら? だったら試してみれば良いでしょう?」
「…………そうさせてもらいましょう!!!」
動じた様子も見せない魔女に対し、明らかに焦りが見えるレンの身体が、桜色の髪の少女に向かって大鎌の刃が弧を描いた。
正面を見据えたまま、新緑の魔女は後ろに一足飛びすることで回避行動を試みる。難なく躱すことはできたが、それで終わる訳がなく、追撃を開始する緑髪の青年。
一方で、左腕を前に突き出し大きく横に払うことで、魔女が振るった何も存在していなかったところから、幾本もの植物の蔦が飛び出てきた。迫るレンを阻もうとする。植物と言っても、もちろん、自然界に存在しない、灰色の世界ならではの色合いだが。
大鎌武器『ハルパー』を縦横無尽に振り払うことで、魔女の喚び出した蔦の嵐を斬り刻みながらも前進する男の表情が邪悪に歪んだ。あまりにも容易く凌ぐことができた魔女の攻撃があまりにも弱々しかったからだ。
飛び散る緑や茶色い樹液が身体に降りかかるのを気にも止めずに、魔女を追い詰めていく。
「ほぉら! 私の言った通りじゃないですか!! 何ですか、その貧弱な攻撃は!! 本物の植物なら本来生命が宿っています。ですが、あなたのそれは所詮は偽物……生命無き植物に力など生まれる訳がないのです!!!」
後ろに飛び退きつつも、蔦を尚も喚び出しマジョカルの青年に襲わせる魔女だが、大した苦労も見せずにこちらに向かってくる対象者。徐々に二人の距離は縮まりつつあった。
「この世界を現世にまで浸透させたのは失敗しましたね!! 現実世界で本物の植物を操っていたなら私に勝ち目など無かったというのに!!!」
「あら。本当にそう思う?」
強気な少女の態度とは裏腹に、壁を背にし、ついに逃げ道を阻まれた魔女となった少女。二人の距離が手を伸ばせば届くまでに。
「チェックメイトです。強がるのはもう御止しなさい。……私はグラヴェルさんと違って、女性を辱める趣味はありませんが、恐怖でジタバタ見苦しい様を見るのが大好きでしてね。そのように堂々とされると興冷めなのですよ」
「イヤよ。私が怖がる理由なんてないもの」
状況がわかっていないのか、刃を正面に突きつけられても一切動じることもなく、淡々と魔女が応える。それどころか、綺麗に整った少女の顔は、より一層の笑みを作ろうと口角をさらに釣り上げた。
「……あぁ、本当に残念です…………なら、今すぐ死になさい」
魔女の……水葉の腹部がバッサリ斬られた制服の隙間から鮮血を迸らせた。斬られた腹部を起点に赤い液体が服に染みていき、流れ落ちる血液は、白い床に鮮明に色を付けていく。その流れに乗って、在るべき場所に無ければならないはずの腸が、斬り口からはみ出し落ちた。
「くく。人格はともかく、若い女性の腸はやはり薄いピンク色をしてて美しい……」
恍惚とした表情で見続けるレン。
やがて満足し、今度は内臓物に直に触りたいという、異常と言える己の欲求に付き従おうと手を伸ばした。
「ほんとにどうしようもない奴ね。こんな凶悪な異常者相手でも本当に殺したらいけないって言うのかしら」
腹を開いた少女から悲鳴どころか、痛がった、苦しいといった感情が含まれた様子のない、ごく自然な声が――。
己の置かれた状況の異様さに気付き、レンは自分の世界から我に返らされてしまう。
掻っ捌かれた腹部からは、今も大量の血が流れており、足元に血溜まりを作っているほどだ。内臓だって飛び出ている。それほどの深手を負いながら悲鳴一つ上げずに、ましてや常人なら痛みでショック死しても可怪しくない。
なのに、少女の身体を持った魔女は事も無げに言い放ったのだった。
「手加減するように言われてたんだけど……私ね、マジョカルって大嫌いなの。それはもう、とっても。……だから、やり過ぎちゃったらごめんなさいね」
恐る恐る魔女の顔を覗く――
そこには、本当に深手を負っているのかと疑いたくなるほど、今も変わらず笑みを浮かべたまま……違うのは、赤紫の瞳がより深く赤みが増していたぐらい……最初はそう思ったレンだったが、見た目少女の一切変わらない余裕に満ちた表情には、獲物を刈り取る前に見せる猛獣のような危うさが秘められていることに気付いた……いや、気付いてしまった。
目の前の少女は本当に生きているんだろうか? 実は既に死んでいて、死人になって自分の前に立ち阻んでいるのではないか……そう考えてしまうほどに、彼の頭はどうしようもないほど動転していた。
言い知れない恐怖に足が竦んでしまうほどの、自身の精神状態もわからないほどに。