第十九話 暴力に抗うは意思の力 後篇
あれから無慈悲な両親の暴力が収まるまで、エイルフィールは一瞬たりとも目を逸らすことを拒み、最後まで瞳に宿る黒い炎を燃やし続けた。
深更に暗く静けた屋敷の中、いつも稽古用に使う木剣とは違う、本物の刃の付いた剣を手にし廊下を歩く、幼い少女にはなんとも似つかわしくない姿があった。窓から入ってくる月光が、暗い廊下の中でエイルフィールの姿をやんわりと浮かび上がらせている。
人の寝静まった屋敷の中を、一定の間隔をもって足音が響く。
(兄様は今頃、怪我で動けずベッドで休んでいる……。やるなら今だわ……)
遠慮のない両親の暴力に意識を失ったシヴィルドは、住み込みで掛かり付けの医者の指示のもと、すぐに部屋に運ばれ治療を受けた。裂傷は酷いものの、幸い骨に異常はなく、見た目ほど大事には至ってなかったらしい。それでも絶対安静だと医者から聞いている。
(絶対に知られる訳にはいかない……兄様にだけは絶対に……もし知られたら、兄様に嫌われちゃう……だから絶対に知られないように…………上手にやらないと)
「兄様を傷つけた、あいつらを私は決して許しはしない……」
歩を止め、手に握る柄の感触を確かめるかのように、エイルフィールは強く力を込めた。
目の前には両親の部屋へと繋がる扉が。
(中に入れば、きっと父も母も眠っているはず……。兄様に自分たちが犯したことを気にも止めずにのうのうと……)
考えるだけで、憎しみがさらに強くエイルフィールの心を満たしていく。この頃には既にいかにして両親を殺すか……そのことしか考えられなくなっていた。
静かな廊下に音が響かぬよう、中にいる忌むべき存在を起こさぬよう、努めて音がしないように扉を開ける。同時に冷蔵庫の扉を開けたような冷たい空気が流れてくる。
(どうして部屋の中がこんなに寒いのかしら……?)
部屋の中は明かりが灯っておらず真っ暗だったが、ここまで月光のみに頼って廊下を歩いてきたエイルフィールにとって、不自由するほどの暗闇ではない。すぐに目が順応するだろうと思い、躊躇うことなく忍び足で部屋へ入り、寝室へと向かうのだが……
(!? ……風が……吹いて? どうして……?)
吹きつける凍てつく寒さを伴った風がエイルフィールの顔を叩く。肌を掠めていく風の強さから、窓が開いたままなのは確かめるまでもない。しかし、この時期の夜は氷点下に軽く達することは、この地域に住む者なら子供でも知っていることであり、窓を開けたまま寝るなどあろうはずがなかった。もし、実現しようものなら朝方には凍死した状態で発見されるだろう。
部屋の中は既に身が震えるような寒気に覆われている。
普段からはありえない状況に、自分でもわからないが言いようのない不安を覚え始めるエイルフィール。その予感は当たっていた。
「ひっ……!!」
暗闇に完全に慣れた瞳が最初に映しだしたのは……ベッドの上に仰向けで寝ている母に跨って、胸に剣を突き刺した、背格好からして男の姿。部屋に明かりが灯されてないため、相手の顔までははっきりとわからない。
(盗賊!? それとも暗殺者!? ……ううん、そんなのどっちでも良い……だって……)
ピクリとも動かない母を見るに、既に命を絶たれたのだろう。
実の母の命が奪われたというのに、エイルフィールの胸の中に悲しいという感情が沸き起こってこない。その代わりに別の感情が……
(――だって、私の代わりに殺してくれたのだから――――)
「……このガキ、笑ってやがるのか」
父も母もどこか遠くの方へ行ってしまえばいいとずっと思っていた。自分の手ではなく、まったくもって予想外の第三者の手によって実現したことに、エイルフィールは顔が自然とほころんでしまう。心の底から来る喜びを抑えることが出来ないほどに。
「父様は……? 母様と一緒にいたはず……」
本来、注意して意識を向けなければならない襲撃者の存在を忘れてしまったかのように、エイルフィールは部屋の中をゆっくりと見回した。
そしてすぐに父の成れの果てを見つけることとなる。
部屋の壁にもたれかかって倒れている父がいた。確認する必要もなく、父も母と共にこの世にはもういない。なぜなら首から上が無くなっていたからだ。
――嬉しかった。
この状況で湧き上がる感情としては、まだ幼いとはいえ、人として間違っているのだろう。逆に言うと、まだ齢六の少女を歪ませるほどに追い込んでいたと言えた。
少女は自分を傷つけ、大切な兄を容赦なく傷つける両親が憎くて憎くて仕方がなかった。
エイルフィールが手にしている剣だって、今夜両親に引導を渡すためだ。寝ているところでなら、まだ幼い自分でも可能だと思ったからここまで来たのだ。今はその剣を両親を殺すためではなく、自分を守るために使わなければならない。
母に突き刺していた剣を抜いた襲撃者が、ベッドから降りて少女と向かい合う。
今度は自分が殺されるかもしれないという緊迫した状況でも、エイルフィールは次から次へと波のように押し寄せる歓喜の衝動に抗うことが出来ないでいた。……というよりも、抑えようと意識することすら少女は放棄していたのだ。
「自分の親が殺されて、そんなに嬉しいのか? ……壊れてやがる……せめて楽に…………」
剣を振り上げる襲撃者の姿が少女の目に止まる。その間も少女の顔は笑顔を絶やさない。
(あれ? ……身体が動かない? どうして……!? 戦わなきゃ……じゃないと私も殺される!!)
思考とは裏腹に、まるで全身が痺れに苛まれたかのようにエイルフィールの身体は、自分の意思を肉体に伝えようとしない。初めての体験にどうして良いかわからない。すぐ目の前には今にも自分に剣を下ろそうとしていて、こうして考えている時間も惜しいというのに。
少女は気付いていないのだ――
狂喜に飲まれ、恐怖を恐怖に感じなくなってしまっていた自分の精神状態に。
剣が振り下ろされる瞬間、少女の横を一陣の風が通り過ぎた。
少女の肩口に落ちるはずの刃が、すぐ真横の床にめり込む。
いったい何があったのだろうとエイルフィールは、襲撃者の顔を見ようと頭を上げる。そこには喉元を剣で突き破られ絶命した男の姿が。襲撃者を貫通した剣から赤い液体が滴り落ちている。少し遅れて襲撃者の身体が足から崩れるように倒れた。
「よく頑張ったね、エイル」
倒れた襲撃者の向こうから、自分を親しげにエイルと呼ぶ優しい声が聞こえてきた。
狂喜に落ちた少女の瞳孔が大きく広がる。
途端、涙が溢れてきた。その流れ落ちる雫は安心安堵から生まれたもの。エイルフィールがこの世で最も信じ慕う者が目に入ったから。
「兄様ぁ……」
笑顔に似合わず、兄シヴィルドのその手にはいつもの稽古で使う木剣とは違う真剣を持ち、血を滴らせている。
兄のその姿を見た瞬間、エイルフィールの表情から先程までの安心しきったものから、後悔のものへと瞬く間に変化した。そして涙が流れる意味も――
「私のせいで…………私のせいで兄様の手が……汚れてしまって……!!」
(私はなんて馬鹿なの……私を守るために、相手は無法者とはいえ兄様が人を殺めてしまった……)
もちろん、兄も自分も今まで人を殺したことなんてないとエイルフィールは認識している。
(もしも、私が両親を殺そうと思わなければ……もしも、私がここに来なければ、襲撃者とも会わなかったわけで……そうなれば兄様が私を守って、その手を血で汚すこともなかった……)
どうしようもない後悔の念に押し潰されそうになる幼い少女の身体を、心ごと包み込むようにシヴィルドは優しく自分の方へ抱き寄せた。
「良いんだよ、エイル。……もう、良いんだ。だから、その手に持っている物を離そうか」
「兄様……」
この部屋に来るまでに離さず持ってきた剣の存在を、兄に言われるまですっかり忘れていたエイルフィールは、強く握りしめたままの剣から五本の指を解き放した。
金属が床に跳ねる音が響く。
「ごめんなさい、兄様ぁ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
いつまでも泣き止まない妹の頭を、繊細な割れ物を大事に扱うようにシヴィルドは優しく撫で続ける。これ以上、傷が付かないようにと念を込めながら。そして、それを感じ取ったエイルフィールの表情が、時間をかけて兄の望むものへと変わっていった。
(この後、私は自分の心に誓うことになる――)
(兄様を如何なる悪意からもこの身を持って守ろうと。兄様の手をこれ以上、汚させてはならない。そのためには私は強くならなければならない。誰よりも強く……兄様よりも強く。何より敬愛する兄様のために――)




