第十八話 暴力に抗うは意思の力 前篇
「兄様! 兄様!」
「? なんだいエイル?」
来月、六歳の誕生日を迎えるエイルフィールは、兄のシヴィルドに伴われて、最寄りの街まで買い物に出ていた。
今年は早雪となった、空から落ちる細雪が身体に触れる度に、温もりで溶け込んでいく様を眺めながらも先へ進む。
名目上は買い物だが、今日、兄が自分を街に連れてきた本当の理由をエイルフィールは知っている。
兄は一ヶ月後の妹の誕生日に備えて、プレゼントの下見に来ていたのだ。
もちろん、エイルフィールには内緒だったらしいのだが、街に来てからの兄のそわそわした態度が妹に知られる切っ掛けになるとはシヴィルドも思っていなかっただろう。……とは言ったものの、実は兄の普段との態度の変わり様は微々なもので、両親でもおそらく気付くまい。それでも察知できたことがエイルフィールには凄く誇らしかった。
(兄様のことなら何でもわかるんだから!)
――当時のエイルフィールの口癖だ。
「あそこの屋台から、とっても甘い香りがします。……それに不思議です、兄様! 果物をあんなに香ばしく焼いた生地で包み込むなんて!」
目をキラキラさせながら、いつにも増して早口で言う妹の愛らしさに、シヴィルドは苦笑する。よっぽど気になるのだろう。上半身を前に出して、兄の言葉を今か今かと待ち侘びているのが窺える。
「それはね、クレープって言うんだよ」
「……クレープ?」
「……う~ん……と……ちょっと待っててね、エイル」
そう言うと、兄は屋台の方へ小走りで向かった。
――そして三分後。
「お待たせ、エイル。はい、これ」
兄が妹に差し出したのは、今さっき買ってばかりの出来たてのクレープ。生地の頂きから苺とバナナ、それに生クリームが覗いている。
「わあぁ!」
大事そうに両手で包み込むように兄からクレープを受け取るエイルフィール。
「暖かぁい!」
あれほど興味津々だったにも関わらず、受け取ったクレープをすぐに口にまで運ばない妹に、兄は首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「えへへ。こうやって兄様の優しさを感じてたの」
無垢な妹の言葉に不意を突かれて、シヴィルドは思わず赤面してしまう。
「気持ちはありがたいけど、早く食べないとせっかくのクレープが冷めちゃうよ? 暖かいうちに食べる方が美味しいんだ」
「むぅ~……それじゃあ……。いただきま~す!」
元気良く大きな口を開けてクレープにかぶりつく。
「!! 美味し~い!」
(私はこの時、兄様から頂いた温もりがとても嬉しかった――)
ヴェルナーゼ家は代々、聖王庁に所属する名門の出で、魔女狩りを積極的に行ってきた系譜である。そのため魔女から恐れられ、その魔女に恐れられている存在ということから、一般の人に手を出すつもりなどさらさらないのに一般人にまで恐れられていた。その扱いは誰しもが腫れ物に触るかのような……。
(そんな風に扱われることも、そんな風に扱わせる家も、そんな風に扱う人々も、私は凄く嫌だった……何より一番嫌なのは…………両親という存在――)
名門、名声……それらへの執着を一際持っている両親は、兄妹が物心着いた頃から二人の教育にとても厳しく当たっていた。騎士道を重んじ、恥ずべき行いをすれば容赦なく顔を打たれた。けれど、エイルフィールにとって、それは苦ではない。道徳的に自分が悪いことをすれば、怒られるのが筋だし、間違ったことをすれば、それを悔い改める機会が生まれるからだ。
だが、両親のやり方でどうしても許せないことがある。
いつしか教育が過剰になってきた……剣技の稽古で一日のノルマを達成できなければ、父から容赦なく木剣で殴られ、試合で負ければ、自分を負かした相手に勝つまで屋敷に入れてもらえないことだってあった。勉学においても厳しい教育は続く。解けない問題があれば、母から罵詈雑言を浴びせられることなんて当たり前。テストで学年一位を取ったとしても、答案が満点でなければ、それも許されない。食事制限までされる始末。毎日を罵声の中で、両親の掌の上でエイルフィールもシヴィルドも過ごしてきたのだ。
そんな地獄のような日々から解放されたのが、大好きな兄が自分を街に連れ出してくれた、昨日の楽しい一時だったことをエイルフィールは生涯忘れないだろう。
なのに……忘れられない記憶は、その日、楽しいものばかりでは済まされなかった――
兄妹が家に戻り、夕食の時間が訪れる……両親の兄妹への過剰なまでの関与は普段の日常生活にまで及ぶ。食事の栄養管理、きっちり定められた入浴時間、決まった睡眠時間……それらを破れば、まだ幼い兄妹には抗いようのない暴力を見舞われる……。最早この家に二人の休まる場所などなかった。
(だというのに、私はあの日……夕食を決められた時間内に全部食べきることができなかった……)
理由は簡単なこと。
昼過ぎに食べたクレープが食欲を既に満たしていたから。まだ幼かった少女にとってはクレープ1つといえど、けっこうなボリュームであった。子供の頃であれば、そうして四苦八苦するなんてことは誰にでも経験があるもの……
それでも両親にとって規則は絶対であり、子は親に従うのが当然と言わんばかりに当たり前のように今日も暴力を振るう。
ただ一つ、いつもと違うことがあった。
いつもエイルフィールが親から暴力を振るわれそうになった時、決まって兄のシヴィルドが庇ってくれていた。
今回だってそうだ。
唯一違うことは、兄がいくら庇おうとも容赦なく妹への殴打を絶対に止めない両親が、今日に限って標的を変えたことだ。
「どうして……!?」
エイルフィールを街に連れ出したのは自分で、妹にクレープを与えたのも自分……つまり悪いのは自分なので、自分が妹の代わりに罰を受ける……というのがシヴィルドの言い分。
(違う!! 悪いのは私!! 屋敷にいると息が詰まる……そんな私を見かねた兄様が気分転換に街に連れて行ってくれたの!! 悪いのは私!! 初めて見る食べ物に私が物欲しそうな目をしてしまったから、兄様が優しくしてくれただけなの!!)
言えなかった――
自分の代わりに両親に殴られ続ける兄の姿を見て、すぐに助けないと、と思う自分がいるのに身体が……指先が……唇が動かない。
――――怖かった。
日々の暴力で身体に染み付いた身が震える恐怖……恐れる心が身体を支配してしまったのだ。全ての理不尽や暴力にエイルフィールの心が打ち負かされた瞬間だった――
(この時の私はいったいどれだけ情けない顔をしていたのかしら……?)
すぐにでもここから逃げ去りたい……けれど、自分のために犠牲になってしまっている兄を助けたい……なのに、身体が恐怖でピクリとも動かない……そんな考えが堂々巡りを繰り返す。
(情けない、情けない、情けない……情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない情けない――!!!!)
「エイル、大丈夫だから」
「!!」
気が付くとシヴィルドがエイルフィールを見ていた。
視線が絡み合う。
「あれ?」
気付いたのは視線だけじゃない……頬の上をスッと流れ落ちる液体の存在もだ。
一度意識をしてしまえば、それまで……もう自分でも感情を抑えきれない……。
視界が歪む――
涙が次から次へと雫となって溢れ落ちた。
(兄様を傷つける者は許せない――父も母も絶対に…………許さない!! ……それに……何より私自身も――――)
この時、エイルフィールの中で、経験したこともない初めての感情……憎悪、恨みといった歪みが心を支配し纏い始めた。本人の意識を一心にしてしまうほどに……負の感情に身に任すことも厭わないと――




