プロローグ 聖教十二師団
来る者に絵本の中に迷い込んだような錯覚を覚えさせるであろう白亜の教会に、石造りで出来た民家が四十~五十世帯建ち並ぶ小さな隠れ里。どの家からも谷を眺められ、近くには栗林が広がっている。その飲み込まれるような美しい風景を一望できる山群に、里にある教会とはまるで大きさが違う同じ白亜の建物が建っていた。
ここはスイス東部にそびえ立つ針峰ブルガリアの奥地。
里の者も近寄らない……正確には『普通の者には近寄れない』場所に建てられた大聖堂に、魔術的装具の効力により人避けされた、この地の影響を物ともせずに足を運ぶ者がいた。
緑髪の短髪で齢三十近い長身痩躯な男は、久々に歩く白い石畳の床を物音一つ立てずに静かに進む。中は侵入者避けに迷路のような構造になっており、何度か壁を曲がることを繰り返し、男はようやく目的の場所へ辿り着いた。
ここへ来るまでに三回ほど見張りがいた通路があったが、それらは気付かれることなく制圧することに成功。命は奪ってはいない。ただ眠ってもらっただけだ。時間が経てば目も覚ますだろう。殺してしまえば手っ取り早かったのだが、それではこれから行う交渉に支障を来してしまう。そのため、今だけは我慢しようと緑髪の男は思った。もっとも、これから会おうと思っている人物は組織内でもかなりの堅物で知られているので、ひっそりと潜んで行動を起こした時点で良しとしないだろうが。
今、目の前にある、この扉の先にはマジョカル執行部隊であり、魔女狩り実働部隊の一つ……聖教十二師団の団長と副団長が会議をしているという情報を前もって男は入手済みだ。
緑髪の男よりも遥かに格上の存在であるうえに、所属が違う余所の団長&副団長クラスと直接話す機会など、本来ならば早々あるものではない。いつの間にか掌に汗が滲み出ていたことに男は気付いた。
(私としたことが緊張しているとでもいうのですか…………ふふ、面白い)
ドアノブに手をかけ、男はそっと扉を開いた。
「お兄様、今日も御髪整えて差し上げますわ」
「ああ、いつもすまないね」
中性的な顔立ちをした、金髪で女性のように髪の長い、まだ二十代と思われる男は自分を兄と呼ぶ女性に好きなように髪を梳かせている。一方で兄の長く美しい髪を丁寧に櫛で整えてあげる女性の髪もまた美しく、兄より長い腰まで伸ばした金髪を携えていた。年齢は兄とそう大差ないように見えるだろう。
「一応、私たちは今会議中ということになっているから、こんなことしてる場合じゃないんだけどね」
「良いじゃありませんか、お兄様。会議といっても今日は定例会議で集まったというだけで、特に大事な話があるわけではないのでしょう?」
「まぁ、そうなんだけど……私もエイルも立場があるのだから」
「わかってますわ。ですから、こうやって二人きりの時にしか……!?」
兄にエイルと呼ばれた妹は、ここでようやく兄が危惧していた本当の理由を感じ取った。普段からいつもこういうことをしていたらしく、てっきりいつもの兄の照れ隠しから生まれた苦言かと思ってしまったようだが、どうやら今回はそうではないらしい。
「いつまでそうしてるつもりですの? すぐに出てこないというのであれば……」
気配を追うこともなく、部屋全体に声が通るよう口にする。追わないのではない。追う必要がないのだ。なぜなら、この部屋に無言で侵入した無作法者の位置は既に把握済みなのだから。
「……失礼しました。さすがはその若さで聖十二の副団長を務めるだけありますね……エイルフィール・エル・ヴェルナーゼ様。それに聖十二団長シヴィルド・エル・ヴェルナーゼ様。この度はとっておきの報告を携えて参りましたので、団長様のお耳にと思いまして」
「ほう……」
部屋の隅から背の高い緑髪の青年が姿を現す。
「お前は確か聖八の五位……レン・オルティブ! ……三週間ほど前に神名島へ任務に出向いたと聞いていましたが、まだ任務完了の報告は受けていませんよ? それなのにどうしてここにいるのですか?」
「これはこれは。私のような者の任務まで把握されてるとは、さすがは仕事熱心で知られる執行部も兼ねられている副団長様」
「……皮肉ですか? そんなことは良いですから早く私の質問に答えな――!」
「エイル、落ち着きなさい」
「お兄様! 私はいつだって落ち着いています!」
妹が言うほど落ち着いていないのが見え見えなので、兄のシヴィルドは肩を竦めて困った顔を人目をはばからず見せる。その仲の良い兄妹の様子を目の前で見せられ、どうしたものかと一瞬思考が停止してしまっていたレンだが、我に返らせたのも原因の片割れであるシヴィルドの声だった。
「レン殿、報告というのはどのようなものなんだい?」
妹のエイルフィールと違って物腰穏やかに見えるが、レンの目には目の前の自分より年下にして聖教十二師団の団長にまで上り詰めた男がただ穏やかなだけじゃないことを重々承知していた。気品も兼ね備える男は、それでいて堂々としており一師団を統べるだけの度量もある。そして団長として誰もが羨む強さを何より持っていた。この若さで、しかも執行部だというのに誰もが従うのはそういうことがあってのことだ。
(こちらの方が先輩だというのに……まったく、どうしてこうも差があるのですかね)
黒い感情がレンの中に沸き起こる。けれど、それを周りに悟らせるほど経験が浅いわけではない。平静を装う術をレンは熟知している。
「ご存知の通り、三週間前に私は魔女狩りの任務を受け神名島に向かいました。諜報部の報告どおり魔女がいたのですが……なんと、そこには二人の魔女が手を取り合い住んでいたのです」
「ふむ。一つの地区に魔女が複数いるというのは珍しいけど、一緒に暮らすというのはそれに輪をかけて珍しいね」
「けれどお兄様、極稀ですが魔女が徒党を組むことは過去にもありました。特別珍しいというほどでは?」
レンの報告を受けた兄の言葉を不思議がる妹のエイルフィール。その疑問に答えるべく、再びシヴィルドは口を開き優しい声を妹に発する。
「それがそうでもないんだよ、エイル。魔女は己の研究成果や魔法を他人に知られることを極端に嫌う。知られる内容によっては、魔女としての優位性を失いかねないからね。だから、魔女が他の魔女と一つ屋根の下で共に生活するなんて、普通はまずありえないんだよ」
「……確か神名島で魔女の嫌疑をかけられていた者はグレーだったはずです、お兄様。魔女がグレーの者を魔女として認識してなかっただけということは?」
「恐れながらエイルフィール様。任務を受けた際は確かにグレーだったのですが、調査の結果、黒だと判明しました。魔女名は『新緑』……私を物ともせずに倒してくれましたよ」
レンの調査結果を聞き少し考え込むシヴィルドに、軽い驚きを覚えるエイルフィール。
それもそのはずで、レンは魔女ランクで言うところのC+ランク相当の実力がある。魔女によって実力は様々だが、大抵はCランク以下ばかりで、Bランク以上となると一気に数が減る。Aランクにでもなれば一人で軍隊を相手にできるほどの力を持つ。緑髪の青年の言う通りであれば、彼を苦にせず倒したというのであれば、グレーと思われていた魔女は間違いなくBランク以上と思うべきことだった。
「それで……レン殿を退けたという『新緑の魔女』と共に暮らす魔女というのはどれほどのものなのでしょう?」
落ち着いた感じで尋ねるシヴィルド。
「…………私の見た目では『新緑の魔女』と同程度かと」
それは嘘だった。
実際に戦ったわけではないが、レンを圧倒した新緑の魔女と戦う『剣撃の巫女』の姿は、離れた場所から見ていただけだったにも関わらず今でもレンの脳裏に強く刻まれている。新緑の魔女の力を持ってしても、まったく歯が立たない強さと華麗さを併せ持った少女。どう間違ったってBランクの器なんかではなかった。
……おそらく彼女はSランクだとレンは想定していた。もっとも、レンにとってSランクともなると見たこともない、古文書や絵物語に出てくるような現実味のない存在なので、実際にはレンの実力程度では計り知れないのだが。
Sランク魔女……国家を揺るがすほどの強大な力と存在感を持った超が付くほどの希少な存在である。全世界の歴史を紐解いても確認されている数はたかが知れている。
マジョカルにとって、そんな危険な存在をレンがなぜ正しい情報で伝えないのかというのには『理由』があった。それに新緑の魔女が『本当は既にこの世から消え去った』という事実も……。
「それほどの魔女が共にしているというのですか? 新緑の魔女にしても最低でもBランクというだけで、下手をしたらAランク以上という可能性もあります……これは由々しきことですわよ、お兄様!」
妹の言葉に、無言で両目を閉じ再考しだす兄の姿に、さらに悪い知らせで畳み掛けようとするかのようにレンが口を開く。
「それと私と一緒に神名島に赴いた新人の瑞原薙斗がマジョカルを離反し、魔女と行動を共にしています」
「なんですって!!」
テーブルの表面を勢い良く両手の掌で叩くエイルフィール。その瞳には先ほどの驚きよりもさらに強い感情の起伏が見て取れる。
人に災いをもたらす魔女を討伐するのが役目の対魔女組織マジョカル。そのため組織は長年に渡って、優秀そうな者を集めて、それこそ幼い子供の時から魔女と戦える戦士にするために力を与え育てている。それこそ魔女狩りが行われてから何百年も続く。
ところがこれはどういうことだ?
魔女と戦い命を賭したならともかく……いや、逃げ出したのなら良くはないがまだ納得はできる。エイルフィールたち聖十二の者は執行部の役目も兼ねており、組織内の治安維持を第一とし、組織に有害な者を排除する権限を持つ。その役目ゆえ敵前逃亡した者に罰を与えることもあり、そういった者たちをエイルフィールはこれまで何人も見てきた。戦士として育てられたといっても、彼ら彼女らも人間なのである。自分より強い者と出くわせば心の弱い者であれば恐れもするし逃げ出したくもなろう。執行部として罰を与えはするが、人間にとって本能とでも言うべきその感情を責める気には到底なれなかった。
けれど、緑髪の自分より歳が上の青年はこう言った――
離反した――と。
魔女と行動を共にしていると。
育ててもらった恩を忘れ、挙句の果てに討伐対象の魔女の仲間になるなど恥知らずも甚だしい。魔女に与するということはマジョカルと戦うということだ。マジョカルにいたのなら、それがわからないはずがない。
エイルフィールの瞳に怒りの色が宿り始めた。
「一つわからないことがあります……なぜ、この話を情報統括管理部である聖十一に持っていかずに、執行部である我々の元に来たのです?」
閉じていた両目を見開き、シヴィルドはレンを見据えた。その眼光は先ほどまでの妹を労る兄が見せるような優しいものではなく、猛者揃いの聖教第十二師団兼執行部を束ねる団長だということを思い起こさせるに十分な迫力を存分に表に出した。
自分よりも若いはずなのに、そう感じさせない目に見えないオーラがまるで見えるかのような錯覚に陷るレンの背中には冷たい汗が流れていた。これ以上呑まれてはいけないと自身の気を奮い立たせようとしているのが見る者が悟るほど動揺を隠しきれていない。表情を表に出さないレンにとってはとても珍しいことで、本人はまだ気付いていないがそれは既に呑み込まれたからこそ起こった変調だった。
しかし、ここでレンは怖気づくわけにはいかなかった。
こんなところで引き下がるようなら、シヴィルドの言うように情報収集や諜報を組織から全体的に任されている聖教十一師団に最初から報告すれば良いだけの話だ。
だが、そうしない理由……いや『計画』がレンにはある。
(ここからが私の腕の見せ所……というやつですかね。面白くなってきました……ええ、実に面白い……)
無意識にレンの口角が釣り上がる。
今から始まる前哨戦から生まれるであろう緊張感を思うとレンはたまらなく満たされる気分を覚えた。だが、それはあくまで通過点に過ぎない。
これから日本で起こるであろう本当の戦いが待っているのだから。
この数日後、舞台は日本本土から海を隔てた孤島、神名島へと移るのだった――――