幕間 巫女が悪魔へ変わる時
四時限目の体育の授業でのこと。
男女合同で二ラインある五十メートル走のタイムを、体操着に身を包んだ俺たち二年C組の生徒は名前順に体育女教師に計られている最中である。スタートラインには陸上部の女子がスタートの合図を行うため待機していた。最初は男子の番で、女子はそれが終わるまで自由時間だ。男子の走りっぷりを眺めているやつもいれば、真面目にストレッチをしてるのもいたり、離れた場所で友達同士でただ喋っているだけだったりと、それぞれ待ち時間の使い方は違う。
春の終わり頃でこれから暑くなっていく時期ということもあり、半袖短パンでいる者もいれば、下だけジャージを履いている者がほとんどだ。上下ともにジャージ派はごく少数。
俺の出番は名前の都合上、後ろの方なので今は順番待ち。逢花と水葉以外の友達を俺はまだ作れていないので二人と適当に時間を潰している。ちなみに俺たち三人は半袖短パン派である。
周りの……主に男子からの妬みを多いに含んだ視線が俺を刺すが敢えて気付かないフリをした。
「ナギって、学校初めてってことは体育の授業も当然初めてなのよね?」
「そうだな。組織で身体強化の訓練は毎日のようにあったけど、似たようなものなんじゃないの?」
「あのねぇ……」
何か呆れたような顔で俺を見始めた水葉に対し、逢花がこちらも何か嬉々として人差し指を立てながら俺に顔を近付けてきた。
「ナギトさん、知っていますか? 体育では私たち本気で走ったり跳んだりしちゃいけないんですよ!」
「え、そうなのか!?」
「はい! 私も初めて学校へ来た時はそうとは知らずに全力でやったら、すごく目立ってしまって……その後、すっごい怖い目に遭いました」
怖い目って、その割には逢花の目が嬉しそうなのはなんでだ?
「あんたたちねぇ……」
呆れ半分、苛立ち半分といった、なんとも微妙な面持ちを隠す様子もない水葉。
とりあえず逢花の顔が俺の顔と近いので、ちと離れないと……って思った矢先――
「あ……」
急に足がもつれたのか、俺の身体が前のめりに傾く。そのすぐ先には水葉がいて……
「え? きゃっ……!」
ドサッ。
次に瞼を上げた時には、白い生地を盛り上げているクッションのように柔らかい双丘に顔を埋めてしまっている自分に気付いた。そして左手は二つあるうちの片方の丘の頂きに手が添えられていて…………俺はこれから起こるであろう、すぐ先の未来に恐怖してしまい、思わず丘に触れたままの左手に力を込めてしまうという失態をさらに重ねてしまった。
「あっ……!」
「……えと、これは事故でして…………」
「~~~~~~~~」
涙目でこちらを睨む水葉さん。右手が大きく振りかぶり――
「いつまで、そうしてるのよ!!」
振り上げられた掌は、俺の顔を白球に見立てたのかのようにフルスイングされた――――
「ま、まぁナギトさんも気を付けてくださいね」
「あ、ああ……」
水葉の迫力に押し黙らされた感じで終わった俺たち。逢花がさっき言ってた怖い目っていうのが謎のまま終わったが、俺にとっては今の水葉の機嫌の方が恐ろしい……
先ほどの事故の原因はいつの間にか片方の靴紐が切れてしまっていたのが原因だった。思えば、この島に来てからずっとこの靴を使っていたので、魔女との戦いが続き靴にダメージが蓄積されていたのかもしれない。そういう理由から、かなり渋々だが水葉からお許しが出たので、俺の命は今もこうして無事繋ぎ止められている。
「とにかくナギも目立たないようにしなさいよ? 私はともかく、あんたたちが全力でやったらおかしな記録出ちゃうだろうし」
「一般社会に溶け込む時の加減ぐらいはさすがに心得てるよ。それにこの靴だしさ」
さっきのことは事故ですよアピールを念入りに含めて答える俺に、まだ不機嫌なのか訝しそうに「ほんとかしら?」と付け加える水葉。どちらに対する疑問かは、これ以上この話題に触れるのは危険そうなので問わないことにした。
「あ、ナギトさん。そろそろ出番みたいですよ」
逢花の言う通り、今から走る組が終われば、次はいよいよ俺の出番らしい。
二人に挨拶を軽く済ませて、俺は待機してる男子の方へと戻って行った。
ちょうど二人の走者がゴールしたみたいで先生からタイムを知らされている。一人は7秒31。もう一人は8秒07らしい。先に走った人たちのタイムから同学年の平均タイムは7秒3ぐらいだと、スタート地点にやって来た俺にスターターピストルを持つ陸上部の女子が親切に教えてくれた。
それぐらいのタイムなら、普通に走れば靴紐の切れたこの靴でも十分に上位に入るだろう。
そう思っているところで、急に女子側から黄色い声援が沸き起こった。もちろんと言うのも嫌だが、残念ながら俺へのものではない。俺の隣で走ることになる男子へのものだった。
女子陸上部の子に聞いた話では、陸上部のエースとのことだ。イケメン&爽やかを売りにしてるらしいがかなりの女たらしとのことで、どうやら俺に親切にしてくれているこの女子からの受けは良くないみたいである。それとは反面、他の女子からの声援は多い。
人の趣味なんて様々だしなぁと他人事のように考えていると、学園内で俺の数少ない友達二名が様子を見に来たのが視界に入った。
「ナギトさん、頑張って!」
「ナギ、ほどほどに頑張りなさい!」
二人とも、陸上部のエースではなく俺を応援してくれるようだ。それはありがたいのだが、二人は気付いていないみたいだけどその度に俺は男性陣から僻みの含んだ罵声を浴びせられるのですが……。それに対して逢花と水葉の応援も熱くなるので、またそこで男性陣の負のオーラが増し、女子は女子でスタートが近づくにつれ陸上部エースへの声援が大きくなっていき、だんだんと俺の関係ないところで場がヒートアップしていった。
「勘弁してくれ……」
これ以上、目立つのも嫌だし適当に後ろを付いて走ろうと憂鬱な気分でスタートラインに立つ俺に、噂のエースがこう言う。
「俺と一緒に走ることになるだなんて不幸だったね。ま、せいぜい俺を引き立たせてくれよ」
……だ、そうだ。
女子陸上部の子がこの男を好まないのがわかる気がしてきた。
「ナギ! そんな奴ぶっ倒しなさい!」
なんで今から走る俺よりも水葉の方が熱くなってるんだよ……。これは負けたらなんか言われるなぁ……
隣でスターターピストルを持つ女子に俺は確認するべく首を向けた。
「陸上部のエースってことは学園で一番速いってことなのかな?」
「そうですね。性格はアレですけど、短距離での速さは間違いなく学園一ですよ」
俺の問いに答えてくれた陸上部の子に礼を言い、そろそろ意識を五十メートル先のゴールへ向けて頭を切り替えることにする。
どうせ、この靴じゃ走りにくくて大したタイムは出ないだろうし、それならほどほどに頑張ってみるかな?
「よーい!」
スターターピストルを持つ手が空へ向けて上がる。
そして……
パァンッ!!
(ほんのちょっぴり版【閃瞬】!)
短くも大きな音が響く。すぐに火薬の匂いが辺りを掠め始める。音に反応して、二人の走者が一斉に駆け始める……はずだった。
「よっと」
まだ五歩も走っていないだろう陸上部エースの遙か先……ゴール地点に足を踏み入れた俺。いつからそうなったのか、先ほどまでの喧騒が嘘のように今は静寂に包まれている。
「タイムは……2秒33…………」
「あれ……?……」
後ろを振り返ると、スタートの合図が鳴るまでは隣にいたはずのエースが、まだ半分にも到達していない。
そしてタイムを計っていた教師がとても信じられないと軽く放心してる模様。それもそうだ。世界記録保持者でも五十メートル走のタイムは5秒後半。世界記録を大きく更新してしまっていたのだ。
いけ好かない陸上部エースの鼻を明かすことにムキになって、俺は自分の能力の特性をすっかり失念してしまっていた。脚力を強化すれば、自然と一歩一歩の幅は大きくなる。そうなれば靴紐の切れている足で地面を蹴る機会はぐっと減る。しかも、たかだか五十メートルの距離だ。影響は最小限に抑えられる。
「…………ナギトさん……いくら私が初めての時でもそこまでは……」
「やりそうな気がしたわ……」
恐る恐る俺の唯一の味方の姿を確認すると、案の定二人のうち一人は呆気に取られている。俺にとってはもう一人が問題で、顔を下に向けて肩をわなわな震わせていた。顔を再び上げた時が俺の最期だろうと、俺は幼いシスターが朝のお祈りで胸の前で十字する仕草を真似て見せた。
アーメン……と。
そしてついに水葉が獲物を狙った怒りの視線を標的を射ようと顔を上げだした。
「ナァ~ギィ……だから加減しなさいって……言ったでしょうが!」
どこから取り出したのかハリセンを手に持つ水葉に問答無用で頭を叩かれてしまう。……意外と痛い。
「しかも、能力まで使うだなんて……あなたって人は…………」
「ちょっと、待った! 俺の言い分も……」
「聞く価値無し!」
バチンッ!
より一層大きな音が静かになった運動場に響き渡った。
「ね、ナギトさん、怖い目に遭ったでしょ?」
昔のことを思い出しているのか、複雑そうな顔で苦笑しながら逢花が俺に声を掛ける。つまり逢花も今の俺と同じことをかつてして、目の前の巫女を悪魔に変えさせたということか……。
この後、俺たちは先生や周りを説得し、俺の記録は先生がタイムを押すタイミングを間違えていただけだろうということで、世界記録を大きく上回っていた俺の記録は幻に終わった。
けれども、水葉の怒りは収まることを知らずに学校から帰った後も延々と水葉の説教は続くのだった。
今回のことで唯一良かったことがあった。タイムは間違いということで片付いたが、周りの男子を小馬鹿にしていた陸上部エースに圧勝したという事実までは幻にはなっていなかったのだ。男子からの人気がない陸上部エースの鼻っ柱を完膚なきまでに折った俺に対して、クラスメイトの男子の俺への評価がおかげで幾分マシになった。今でも学園の人気者二人と一緒にいると妬みの視線を感じるのは変わらずだが、それでも以前ほど肩身の狭い思いをしなくてすむようになったのだった。