第二十話 三日月に想う
頭上に右側が欠けた三日月が浮かぶ夜のこと。
どこの誰のものかも知らない高層ビルの屋上に来てから既に何時間経っただろう? 幸い屋上には明かりが備え付けられているので照明に苦労することはない。
これまでの事態を黙って静観するしかなかった私服姿に茶髪の眼鏡を掛けた高校生男子……倉敷雅は、林の中の一部にそこだけ木々の少ない拓けた場所のある一点をライフルのスコープ越しに視線を集めては、時折、側に置いたままのノートパソコンのキーを叩く作業を繰り返すという地味なことを続けていた。
変化のない時間の流れは普段より遅く感じる。焦る気持ちが心を急かしている時は尚更だ。
そんな倉敷雅にようやく時間が慌ただしく動き始める。
スコープに映し出されていたのは、自分と同じ学校に通う高校の先輩が入って行った異界の門。本来、真っ暗でこんな遠く離れた場所から見えるはずもないのだが、スコープには暗視センサーが取り付けられているのでなんら問題はない。
今、そこに変化が訪れた。
門の中から人影が一つ……二人分の影が一つに重なって現れる。
「ナギ先輩に逢花先輩……」
逢花に肩を借りながら歩く薙斗たちの姿だった。
「ナギ先輩は怪我してるみたいだけど……」
薙斗の怪我の具合が門の中でいかに激しい戦いがあったかを物語っているようで、今までなるべく考えまいと内に隠してきた不安な感情が一気に高まり始めた。先に門の中に入って行った珠々香と音羽水葉はどうなったのか? タガが外れたように倉敷雅の中で不安な気持ちがどんどん強くなっていく。
額にはいつの間にかねっとりとした汗が浮かび上がり、心臓が脈打つ鼓動を聞き取れるほどに茶髪の少年は居ても立ってもいられない気分に覆われる。
「…………珠々香……!」
名前を呼ばれたからではないだろうが、すぐに薙斗と逢花の後に続いて新しい人影が現れた。
――音羽水葉だ。
「珠々香は……!?」
倉敷雅の頭の中に一番起きて欲しくなかった最悪の事態が頭を過ぎった。だが、すぐにそれが杞憂であったことを知る。一瞬、音羽水葉一人だけに見えたのだが、よく見るとそうではない。彼女の背中に抱っこされる形で眠っているようだ。
「はあ~…………心配させないでよ」
誰に言う訳でもなかったが、珠々香の無事を知ると急に今までの胸を締め付けていた不安な気持ちがす~っと晴れていく思いだった。
「その様子ですと、無事に終わったようですわね、倉敷君」
人に聞かせる意図などまったくなかった自分の呟きに、不意に返ってきたのは聞き覚えのある女性の声。突然のことに驚く倉敷は声で誰なのかなんとなく察するに至っていたが、それでも声のした方を振り向いた。
「先輩、人が悪いなぁ。……いつからそこに?」
「今さっき来たところですよ。ちょうどタイミングが良かったようですわね」
「ふ~ん…………ま、いいけどさ」
女性はちょうど照明の届かない場所に立っているので、倉敷のところからは姿がよく見えない。それでも見知った声だったので構えることを倉敷は止めた。なぜなら彼女も自分と同じ同業者だからだ。
「倉敷君の思惑通りになりましたね。けど、倉敷君が最初から彼らと一緒に行動した方が良くありませんでしたか? ……まぁ、姿を隠したい気持ちもわからなくはありませんけど」
「……実際そうなんだけどね~」
彼女の言う通り、自分が最初から表立って薙斗たちに協力していれば、こんな何もないところで一人で彼らの行動を見張るなんて真似しなくても良かったわけで。異界の門を見つける時だって、いちいち『魔女術探査』アプリを薙斗に送るなんて手間も必要なかった。
魔女術探査アプリは元々はマジョカルに任命された者が任務と同時にもらったスマホに備え付けられている隠し機能で普段はその機能は表には出現していないのである。ただ、新米マジョカルはそのことを大抵は知られておらず、任務の中で必要になったら上官が隠し機能を解除し教えていくというスタイルを組織は取り続けている。
そのため上官と敵対した薙斗が知らなくても仕方がなかったのだが、それを遠隔操作でロックを解除するのはなかなか面倒くさかったのである。
「これで二件の魔女事件を解決したわけですか…………どうですか? 噂のルーキーの様子は」
「ん~……まだまだ危なっかしいところはあるけど……それなりに良いんじゃない? 本人はもう辞めた気でいるけど、マジョカルらしからぬって感じかな?」
「ふふ。倉敷君がそんな風に人を褒めるなんて珍しいですわ」
「な……今ので褒めてるうちに含めるなんて……普段僕のことどう見てたのさ……」
「マジョカル諜報部の方々で素直な方とはあまりお目にかかったことがありませんでしたから……倉敷君も含めてですわ」
可笑しそうにくすくす笑う女性。
この人は時折、こうやって突然サラリと毒を吐く。
『マジョカル諜報部神名島管轄取締役』……それが倉敷雅のマジョカルにおける肩書き――つまり、倉敷雅は瑞原薙斗が所属していた組織の者である。
瑞原薙斗が組織に反したという情報は既にマジョカル本部から通達されていたので知っている。それ以前に、薙斗とレンが一悶着起こしていた現場も新緑の魔女と戦っていた逢花の姿も、倉敷は実は離れたところからバレないように監視していたので本部からの情報以上のことを知っているつもりだった。それが諜報部である倉敷の任務なのだから。
ただし、倉敷は任務である諜報活動を行いはしたが、報告まではしていない。
誰が自分に代わって本部に報告したのか極めて遺憾だった。
なぜなら、この島の諜報活動における最高責任者は自分なのである。それを差し置いて倉敷の知らないところで報告した者がいるということだ。最高責任者と言ってもこんな辺境の島の諜報に派遣されたのは自分一人だけではあるが。
ちなみに薙斗の上官だったレンが本部に戻って報告したというわけでもないらしい。レンは戦いに敗れた後、本部には戻らず、誰にも何も言わずに行方不明になっているらしかった。この島から出たのは確かなようだが。
倉敷からすれば、なんとも気に食わない話だった。
「それより先輩、何か僕に用があって来たんじゃないの?」
「……いいえ。倉敷君と珠々香ちゃんのことが心配だったから様子を見に来ただけですわ。彼らのおかげで杞憂に終わったみたいで何よりです」
「そうだね~」
彼女に背中を向けた状態で、頭の横に手を上げ「もう用はないでしょ」とでも言うかのように軽く振り続ける倉敷。そんな失礼な倉敷の態度に別段気を悪くする様子もなく女性は口を再び開いた。
「これで倉敷君は『妹』を助けてくれた彼らに大きな『借り』ができたことになりますわね?」
チャラけた態度を取っていた倉敷の手がピタリと静止した。
「……先輩、相変わらず抜け目ないね……いったいどこまで知ってたのさ?」
後ろを見ようと態勢を変えて、ジト目で見る倉敷。この人がいったいどこまで今回の一件を把握していたのか、興味が湧いた。あるいは一週間前の新緑の魔女の件まで知っているのではないかと疑念すら湧く。もしかしたら、この抜け目ない女性が全ての黒幕なんではと冗談めかして思うほどに。
「う~ん、そうですわね……。倉敷君が今回の一件に動きたくても動けなかった理由なら推測していましたけど」
「……その推測、聞かせてもらっても良い?」
「ええ。……まず一番の理由は倉敷君の力だけでは凶鴉の魔女を倒すことができなかったのが大きいと思います。そのために今この島にいるマジョカル……瑞原薙斗さんの助力を得ることを倉敷君は考えました。……ですが、彼はマジョカルに離反行為をしてしまった」
その通りだった。
凶鴉の魔女のことを調べれば調べるほど、自分との力の差を知ってしまった倉敷は、この島に派遣されたというマジョカルの手を借りようと思っていた。けれど、頼みの綱だったレンは人格に問題があり危険だと判断。残りの一人、瑞原薙斗は魔女認定されていた音羽水葉を守りレンに手を出したことでマジョカルから目を付けられてしまった。
そうなると、マジョカルに所属する倉敷には表立って瑞原薙斗と協力して魔女と戦うという選択肢を失ってしまったのだ。
薙斗のように自分もマジョカルを抜けることも考えなくはなかった。しかし、そうすると魔女を退けることができたとしても、今後自分もマジョカルに狙われてしまう。最悪、珠々香までマジョカルの手が及ぶとも限らない。この最悪の事態だけは何よりも優先して避けたかった。
「表立って協力を頼むことができなくなった倉敷君は、マジョカルに知られることのないように裏方に回って瑞原さんを今回の一件に関わるように誘導することにしました。もちろん瑞原さんたちにも知られないように情報を流すという方法で」
そのために瑞原薙斗という人物の本質を見極めようと学校へ登校中のところ近付いた。
「大体こんなものでしょうか?…………全ては妹の……珠々香ちゃんを助けるためだったのでしょう?」
「…………ちぇ。全部お見通しかぁ……なんか悔しいなぁ……。で、先輩はどうするのさ? マジョカルに報告して恩でも売っとく?」
「いえ、何も。私は今まで通り、静かにこの神名の島を見守るだけですよ」
「ふ~ん……」
「あ、そうでしたわ」
わざとらしく両手を叩き何かを思い出した仕草を見せる女性。
「どうやら本部の動きが最近活発になっているようです。調べてみたところ、近々『執行部』がこの島に来るかもしれないとか」
その情報は倉敷には初耳だった。
マジョカルからもしこの島に派遣されるならば、まずこの島の管理者である自分に連絡がいくはずである。それが無いということは、ただ連絡が遅れているのか、彼女の情報力が優秀すぎるのか……あるいは隠しておかなければならない理由があったか……である。前者二つならば特に問題ない。けれど後者であるならば…………
マジョカル執行部とは、簡単に言うと組織内における治安執行を第一とした者たちである。同組織内で有害とされた者を処罰する権限を持ち、専ら戦闘力の高い人物中心に構成されている。裏では暗殺家業も生業にしているという噂もあり、出来れば知り合いたくないと倉敷は常々思っていた。
「狙いはナギ先輩? それとも……」
組織の命令に反した薙斗が狙われるのは遅かれ早かれ、わかっていたこと。だが倉敷が気にしてるのはそこではない。
「……珠々香ちゃんが魔女認定されたかもしれないってことですか? それならば問題ないと思いますが…………魔女になったかどうかは、あの灰色の世界から戻ってきた人たちにしかわかりませんし」
倉敷が気にしてると思われたことを予想し、見事に的中させた女性の口調が倉敷を気遣ってか優しく柔らかなものになった気がする。そんな彼女の厚意を無下にするつもりはなかったのだが、倉敷は頭に血が上るような気分だった。
何気なく眼鏡を外し、下ろしていた髪を片手で上に掻き上げる。
「もしも珠々香を狙うようなことがあったら誰であろうと『俺』が止める!」
自分の口調が変わったことに倉敷は気付いてなどいない。無意識にこうしていることを女性は付き合いの長さから知っていたのでこれと言って驚くこともなかった。どうも眼鏡を外し、あの髪を掻き上げる動作を行うことでスイッチが変わるらしい。
「ふふ。倉敷君は今のままの方がカッコいいと思いますよ?」
最初は何を言ってるのかわからなかった倉敷だが、すぐに自分が必要以上に熱くなってしまっていたことに気付く。女性にカッコいいと言われたことよりも、我を失っていたことへの恥ずかしさが込み上げてきた。照れ隠しのように慌てて眼鏡を掛け直す。
「ま、まぁ『僕』も揉め事はあまり好きじゃないから、せいぜい気を付けることにするよ」
「はい。……それでは、私はこのへんで」
そう言うとすぐに女性の気配がこの場から消えた。高層ビルの屋上に唯一存在している階下へ通じる扉を開閉することもなく、この場に姿を現し、そして静かに去っていく……残っていたのは魔力の残滓のみ。
(いったい、どんな能力してるんだか……)
夜空に今も浮かんでいる三日月の光に吸い込まれるように視線を移す。
普段は弱音なんか吐く性格ではないし、それを外に漏らすなんて以ての外だったが、今晩は倉敷からいつもの平静さを奪っていたらしい。
「……週明けの学校、ナギ先輩たちにどんな顔して会ったら良いのかなぁ…………」