プロローグ 願い
夜のカーテンが空を覆ってから数多の星が輝いて見える。
満天の星空を見てると今起きている悲劇が実は夢なのではないかと、そんな気がして、今年五歳になってばかりの瑞原薙斗は異国の地で夜空に神々しく輝き浮かぶ『天使』を眺めていた。
異国の地ということもあり、普段よりも一層夜空が綺麗に思えたが、実際その通りだろう。都会暮らしを続けていて、ここまで鮮明な星々の群れをまだ五歳の歳幼い少年は見たことがなかった。
幾人もの往来で踏み固められただけの土剥き出しの舗装されていない道から外れた、雑草が生い茂る上で少年は仰向けになって寝転がっている。
先ほどまで痛みがあった手足は今では感覚がなく、その痛みを感じることができなくなったのが今の少年にとっては唯一の救いではあるのだが、首より下の感覚を失っているために身体を動かそうと思ってもそうはならず、まるでそこに自分の身体が存在していないような不思議な気分だった。
唯一動かせそうな首を横に動かすと、まだ幼い少年の瞳には道で空に向かって燃え盛る車の光景が映る。
子供ながら薙斗は両親が無事ではないことを感じ、数分前までのなんてこともないと思われていた時間が、実は幸せな時間だったと知るのに時間はそう必要なかった。
痛覚を失っていても、どうやら目から涙は流れるようだ。
家族旅行でチベットに観光に行き、三日目の今日。
日中は観光地をいろいろ回っていたが、思いのほか日が沈むのが早かったために急遽宿泊先へ向かうためにバスに乗ったのだが、そのバスが運悪く事故を起こしてしまったのだ。
「父ちゃ……母ちゃ……ん」
燃える車からは少し離れた場所にいるとはいえ、ここまで熱気が頬を掠め、喉から水分を奪うため声を出すのも辛い。
瞼が重くなってきた。
身体がこれまでに感じたこともない疲労感のようなものに覆われている。
まだ十も生きていないのだから当然ではあるが、薙斗は今まで『死』というものを意識したことはなかったが、これがそうなのかと子供ながらに感じ始めていた。
なんとなく首を正面に戻す。
すると、真っ暗な夜の空を星の輝きだけを明りにして、空からこちらに向かって人が降りてくるのが見えた。
大人の女の人みたいだ。
長い髪が空中で自身よりも星空に向かって、まるで大海原のように広がっている。
「天使……さま……?」
まるで少女のようにクリっとしている目には青みがかった澄んだ瞳があり、口元は優しく引き結ばれている。
目・鼻・口、それぞれのパーツが互いにこれ以上ないベストな位置にあると思われ、薙斗は子供ながらに、その整った顔立ちとこの非現実的な光景を美しいと感じた。
幼い薙斗にはその光景がまるで御伽話で聞いた神様からの使い『天使』に見え、自分を迎えに来たのだと思った。
もちろん本物の天使などではなく、背中に翼もない。
それなのに薙斗の瞳には、その女性の姿がとても神々しいものに見えていた。
天使様が迎えに来てくれたなら、もう安心だ。
父ちゃんも母ちゃんも一緒に天国に行くんだ。
安心したら、瞼が自然と閉じられていき、誘われる眠気に薙斗は素直に身を任せることにした。