さよなら愛してた
母に連れられて入ってきた菊池さんが、ぐるりと部屋を見渡してから、床一面に描いた陣の中央に立つ。
あの日と同じ、グレーのスーツ姿。
既視感と思慕と、王子への嫌悪感で、カルアの金色の目から一粒涙が落ちた。
音もなく白衣に染み込み、誰にも気づかれないまま溶ける。
ただ、こちらをじっと見つめる焦げ茶の瞳にだけは、見抜かれた確信があった。
騎士の一人が、陛下の指示により王子の指に剣の刃をわずかに当て、一雫の血を地に垂らす。
ぶわっと、空気が襲いかかるように膨張し、魔術陣が光を纏った。魔術陣が力を持つ。
淡く柔らかい光の中心で、菊池さんは静かに佇み、平淡な目のままカルアを見ている。
カルアも、震えを隠してぐっと顔を上げた。最後くらい、笑っていよう。菊池さんが思い出すカルアは、笑顔の方がいい。
『……カルアさん』
それなりの距離があって、光の圧に阻まれているはずなのに、その声は確かに届いた。
瞬いて見れば、どこか挑戦的な目と出会う。こんなに強く主張する彼の表情は、初めて見る。
ほんの少し首を傾げて、焦げ茶の優しい、でも揺るぎない強さを帯びた瞳がカルアを見据える。
はく、と唇が動いた。
待って。違う。さよなら。だけど。でも。あのね。
トン、と軽く背中に触れた、二つの手。
振り返らなくてもわかる。カルアを育て上げた手と、世話焼きの相棒の手だ。
菊池さんの目が、呼んでいる。
カルアを。カルアだけを。愛しさを込めて。確かに。
「母さん、イオ、行ってきます」
返事がわりに背中を押されて、カルアは駆け出した。
大きくて角張った手が伸ばされるのと、カルアが手を伸ばしたのは、ほぼ同時。
どちらも手繰り寄せるように、力いっぱい握りしめる。
背中に、咆哮のごとく怒鳴り名を呼ぶ声がしたけれど、カルアは決して振り向かなかった。
地響きのような衝撃と、自分をしっかりと抱きとめる身体に掴まって、ぎゅっと目を閉じる。
目を閉じているから、菊池さんが顎を上げて不敵に笑い、王子を見ていることなんて気づかない。
ただ、嵐のような光の中心で、大好きな人に縋った。
「カルアさん。カルアさん、大丈夫?」
髪を撫でる手の感覚に、カルアがゆっくりと瞼を開けると、柔らかい笑みの菊池さんの顔。
ほっと息をつき、辺りを見渡す。上も下も左右もない、すべてが真白の空間に、二人は立っていた。
足が何かを踏みしめている感触もせず、掴んだ菊池さんの身体だけが実在していて、ひどく摩訶不思議な空間。
「……ここは?」
「時空の狭間的な……? なんだろうね。でも、行き先は決められそうだ」
カルアにはよくわからないが、菊池さんは何かを確信しているようで、うんうんと頷いている。
研究者たるもの、未知の事象への好奇心がある。思わずあちこちに視線を移すカルアに、菊池さんが笑った。
「興味あるだろうけど、離れないでね。カルアさん」
「離れません」
だって、呼んでくれたから。菊池さんが。カルアだけを。
「カルアさん。元の場所にも、今なら戻れるだろうけど……」
「菊池さんと行きます」
彼の言葉を遮って、カルアは食い気味に断言した。
元の場所? 恐ろしくて戻りたくない。絶対に。
母とイオラには、ちゃんと行ってきますをしたし、了承ももらった。
残してきたものなど、カルアには何もない。
「はは。迷いないなあ。僕もね、一緒がいいな」
「はい」
そういえば、いつの間にか当たり前のように日本語を使っている。まるで、生まれて以来これが当然だったかのように。
「じゃあ、カルアさん」
高い背を屈めた菊池さんの額が、カルアのそれにコツンと当たる。
「あなたの心ごと、僕にください」
どうしてこの人は、カルアの一番欲しい言葉をくれるのだろう。
大切に、大切に抱えてあたためていたかのように、そうっと柔らかく。
頬に流れたのは、前世と今世のカルアへの弔いだった。




