【隣の部屋の足音】
― The Sound Next Door ―
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第一章 ──静かなマンション
大隈詩は、
駅から徒歩七分の賃貸マンションに引っ越して三ヶ月が経つ。
築十五年。少し古いが、間取りは広く静か。
近隣トラブルもなく、理想的な環境だった。
仕事は在宅のデザイナー。
一日のほとんどを部屋で過ごすが、
隣室の生活音すらほとんど聞こえない。
──聞こえなかった、その日までは。
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第二章 ──トン、トン、トン
夜の十一時を過ぎたころ。
パソコンのモニターを閉じた瞬間、壁の向こうから音がした。
トン、トン、トン……
小さく、一定の間隔で続く。
木の棒か何かで床を叩いているような、乾いた音。
気にはなったが、最初は子どものイタズラだと思った。
あるいはDIYかもしれない。
だが、次の夜も──同じ時間に鳴った。
トン、トン、トン。
それが続くたび、詩の胸の奥に
“何かが合図しているような感覚”が生まれていった。
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第三章 ──誰もいない
週末、管理会社に連絡した。
「あの……隣の部屋から音がするんです。夜になると。」
担当者は少し困ったように言った。
「お隣ですか? えっと……今、空室ですよ。」
詩は固まった。
「え、でも……ずっと音がしてます。毎晩です。」
「鍵は貸し出していませんし、
退去後は立ち入り禁止です。間違いないですよ。」
電話を切ったあと、
壁の向こうからトン、トン、トンが聞こえた。
まるで「嘘じゃない」と訴えるように。
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第四章 ──調べる
詩は我慢できなくなり、
次の夜、懐中電灯を持って隣室の前に立った。
ドアノブを握る。
鍵は掛かっていた。
だが、ドアの隙間からかすかに風が漏れている。
音も──聞こえた。
トン、トン、トン。
耳を当てる。
内側から、微かに息づかいのような音が混じる。
“何かが動いている”音。
管理人を呼ぶべきだと思ったが、
なぜかその瞬間、ドアの下の郵便受けがカタッと動いた。
反射的に覗き込む。
暗闇の奥から、白い指が一本、すっと伸びた。
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第五章 ──封筒
気づくと、手元に一枚の封筒があった。
茶色い古びた紙。
名前が書かれている。
「大隈 詩 様」
開けると、便箋が一枚。
> 『ここに、誰かいます。
> 出してあげてください。
> 夜十一時、三回叩いたら──開けてください。』
その夜。
時計の針が十一時を指す。
壁の向こうで、音がした。
トン、トン、トン。
心臓が跳ねた。
手が勝手に、ドアの鍵を掴んでいた。
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第六章 ──開ける
鍵を回す。
重い音とともに、ドアがゆっくり開いた。
中は真っ暗。
照明のスイッチを探して壁を触る。
その瞬間、足元に“何か柔らかいもの”が触れた。
懐中電灯を向ける。
──壁一面に、手形がびっしりと付いていた。
子どもの手、大人の手、爪の剥がれた手。
そして、奥の床に一人の女が座っていた。
髪が長く、背を向けている。
詩は声を掛けようとしたが、
女の肩が小刻みに震えた。
ゆっくりとこちらを向く。
その顔には──目がなかった。
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第七章 ──十一時の壁
「返して……」
女の唇がそう動いた。
耳を塞ぎたくなるほどの、乾いた声。
「ここにいると、取られるの。
声を。名前を。
……あなたも、もうすぐ。」
女の周りの空気が歪んだ。
壁が波打ち、
“何か”が中から押し出されてくる。
詩は後ずさりしながらドアへ走った。
だが、ドアの外にも──音がした。
トン、トン、トン。
同じリズム。
同じ高さ。
それが、外と内、両方から聞こえていた。
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第八章 ──消える
次の朝、管理会社の職員が巡回に来た。
隣室のドアは開いていた。
中には誰もいなかった。
壁には、古い貼り紙が残っていた。
> 『この部屋は立入禁止。
> 夜十一時、壁を叩く音がしても、絶対に応じないこと。』
その日の夕方、
詩の部屋の前に新しい封筒が落ちていた。
> 『ありがとうございました。
> これで外に出られました。
> 次は、あなたの番です。』
封筒の中には──
彼の玄関の鍵が入っていた。
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終章 ──トン、トン、トン
夜。
時計の針が十一時を指す。
詩の部屋は静まり返っている。
デスクの上には、古い封筒。
手は震えている。
壁の向こうから、音がした。
トン、トン、トン。
その音がやんだ瞬間、
反対側──詩の背後の壁からも、同じ音が返ってきた。
トン、トン、トン。
どちらが“隣”なのか、もうわからない。
詩はゆっくりと笑った。
> 「……ああ、やっと、出られるんだな。」
──音が、三つ鳴った。
壁が、内側から開いた。
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【終】
『隣の部屋の足音 ― The Sound Next Door ―』




