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短編怪奇談  作者: 森の漢
8/12

【隣の部屋の足音】

― The Sound Next Door ―



第一章 ──静かなマンション


 大隈詩おおすみうたやは、

 駅から徒歩七分の賃貸マンションに引っ越して三ヶ月が経つ。


 築十五年。少し古いが、間取りは広く静か。

 近隣トラブルもなく、理想的な環境だった。


 仕事は在宅のデザイナー。

 一日のほとんどを部屋で過ごすが、

 隣室の生活音すらほとんど聞こえない。


 ──聞こえなかった、その日までは。



第二章 ──トン、トン、トン


 夜の十一時を過ぎたころ。

 パソコンのモニターを閉じた瞬間、壁の向こうから音がした。


 トン、トン、トン……


 小さく、一定の間隔で続く。

 木の棒か何かで床を叩いているような、乾いた音。


 気にはなったが、最初は子どものイタズラだと思った。

 あるいはDIYかもしれない。


 だが、次の夜も──同じ時間に鳴った。

 トン、トン、トン。


 それが続くたび、詩の胸の奥に

 “何かが合図しているような感覚”が生まれていった。



第三章 ──誰もいない


 週末、管理会社に連絡した。


 「あの……隣の部屋から音がするんです。夜になると。」


 担当者は少し困ったように言った。

 「お隣ですか? えっと……今、空室ですよ。」


 詩は固まった。


 「え、でも……ずっと音がしてます。毎晩です。」


 「鍵は貸し出していませんし、

  退去後は立ち入り禁止です。間違いないですよ。」


 電話を切ったあと、

 壁の向こうからトン、トン、トンが聞こえた。


 まるで「嘘じゃない」と訴えるように。



第四章 ──調べる


 詩は我慢できなくなり、

 次の夜、懐中電灯を持って隣室の前に立った。


 ドアノブを握る。

 鍵は掛かっていた。


 だが、ドアの隙間からかすかに風が漏れている。

 音も──聞こえた。


 トン、トン、トン。


 耳を当てる。


 内側から、微かに息づかいのような音が混じる。

 “何かが動いている”音。


 管理人を呼ぶべきだと思ったが、

 なぜかその瞬間、ドアの下の郵便受けがカタッと動いた。


 反射的に覗き込む。


 暗闇の奥から、白い指が一本、すっと伸びた。



第五章 ──封筒


 気づくと、手元に一枚の封筒があった。

 茶色い古びた紙。

 名前が書かれている。


 「大隈 詩 様」


 開けると、便箋が一枚。


 > 『ここに、誰かいます。

 >  出してあげてください。

 >  夜十一時、三回叩いたら──開けてください。』


 その夜。

 時計の針が十一時を指す。


 壁の向こうで、音がした。


 トン、トン、トン。


 心臓が跳ねた。

 手が勝手に、ドアの鍵を掴んでいた。



第六章 ──開ける


 鍵を回す。

 重い音とともに、ドアがゆっくり開いた。


 中は真っ暗。

 照明のスイッチを探して壁を触る。


 その瞬間、足元に“何か柔らかいもの”が触れた。


 懐中電灯を向ける。


 ──壁一面に、手形がびっしりと付いていた。

 子どもの手、大人の手、爪の剥がれた手。


 そして、奥の床に一人の女が座っていた。


 髪が長く、背を向けている。


 詩は声を掛けようとしたが、

 女の肩が小刻みに震えた。


 ゆっくりとこちらを向く。


 その顔には──目がなかった。



第七章 ──十一時の壁


 「返して……」


 女の唇がそう動いた。

 耳を塞ぎたくなるほどの、乾いた声。


 「ここにいると、取られるの。

  声を。名前を。

  ……あなたも、もうすぐ。」


 女の周りの空気が歪んだ。

 壁が波打ち、

 “何か”が中から押し出されてくる。


 詩は後ずさりしながらドアへ走った。

 だが、ドアの外にも──音がした。


 トン、トン、トン。


 同じリズム。

 同じ高さ。


 それが、外と内、両方から聞こえていた。



第八章 ──消える


 次の朝、管理会社の職員が巡回に来た。

 隣室のドアは開いていた。


 中には誰もいなかった。

 壁には、古い貼り紙が残っていた。


 > 『この部屋は立入禁止。

 >  夜十一時、壁を叩く音がしても、絶対に応じないこと。』


 その日の夕方、

 詩の部屋の前に新しい封筒が落ちていた。


 > 『ありがとうございました。

 >  これで外に出られました。

 >  次は、あなたの番です。』


 封筒の中には──

 彼の玄関の鍵が入っていた。



終章 ──トン、トン、トン


 夜。


 時計の針が十一時を指す。


 詩の部屋は静まり返っている。

 デスクの上には、古い封筒。

 手は震えている。


 壁の向こうから、音がした。


 トン、トン、トン。


 その音がやんだ瞬間、

 反対側──詩の背後の壁からも、同じ音が返ってきた。


 トン、トン、トン。


 どちらが“隣”なのか、もうわからない。


 詩はゆっくりと笑った。


 > 「……ああ、やっと、出られるんだな。」


 ──音が、三つ鳴った。


 壁が、内側から開いた。



【終】


『隣の部屋の足音 ― The Sound Next Door ―』


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