【緑陽荘(りょくようそう)】
――誰もいない家のあるアパート――
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序 ――入居者たち
築四十年の木造アパート「緑陽荘」。
六世帯が並ぶ、二階建ての古びた建物だ。
家賃の安さに惹かれて、詩はここに越してきた。
駅から徒歩十五分、コンビニまで五分。
古いが、ひとり暮らしには十分だった。
隣室の老女・中根サヨは優しく、毎朝あいさつをくれる。
階下には大学生のカップル、隣の部屋には中年の男性会社員。
──みんな“普通の人たち”に見えた。
しかし、最初の違和感は三日目に訪れた。
夜十時。
ベランダで洗濯物を取り込んでいると、
隣の部屋から“テレビの音”が聞こえてきた。
ニュース番組のようなアナウンサーの声。
だが、詩の耳に届いたのは単調なノイズにしか聞こえなかった。
それなのに、アナウンサーの口調だけが妙にはっきりしている。
「……今夜も、よく帰ってこられましたね。」
手が止まった。
音がぴたりと消える。
隣室のベランダは暗く、人の気配はない。
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一
日が経つごとに、アパート全体が“静か”になっていった。
中根サヨの部屋の前を通ると、いつも聞こえていたラジオが止まっている。
階下のカップルの喧嘩もなくなった。
夜の廊下には、人の生活の音がまるでなかった。
それなのに、どの部屋のカーテンも閉じられず、
すべての部屋の照明だけが点いたままになっていた。
管理人に連絡しても、「確認しておきますね」とだけ言われたまま連絡はない。
翌朝、詩は出勤前にアパートを出ようとして立ち止まった。
玄関のドアに、貼り紙があった。
「この建物では、“おかえり”を言わないでください。」
管理会社の印もない。
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二
その夜、帰宅すると、アパート全体が真っ暗だった。
外灯まで消えている。
ドアを開けた瞬間、鼻を刺すような湿った空気。
部屋の中が誰かの吐息のように暖かい。
靴を脱いで一歩踏み込んだ瞬間、奥から女の声がした。
「おかえりなさい。」
あの声だ。
数日前に自室で聞いた“それ”と同じ。
だが、今回は違う。
玄関の外、
右隣の部屋からも、左隣の部屋からも、
同時に「おかえりなさい」と聞こえた。
まるで、全ての部屋に“誰か”がいて、
同時に詩を見ているようだった。
恐怖で足がすくむ。
ドアを閉めようとした瞬間、
部屋の奥から、足音がこちらへ向かってくる。
──トン、トン、トン。
早くも遅くもない、妙に均等なリズム。
光を点ける勇気もなく、詩は後ずさりした。
足音が止まった。
次の瞬間、耳元で囁きが落ちる。
「ねえ、入れ替わろう?」
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三
翌朝、詩は警察に行った。
事情を話したが、怪訝な顔をされただけだった。
「誰もいないアパートで声がした」と言っても、
信じてもらえるわけがない。
職場でも集中できない。
同僚の声が遠く、頭が霞がかかったようだった。
帰宅時、夕暮れの緑陽荘の前に立つ。
窓という窓に、人影が立っていた。
薄暗い部屋の奥で、動かずに。
全員が、詩の方を見ている。
鳥肌が立つ。
その中の一つ──中根サヨの部屋の窓が開いた。
白い髪が風に揺れ、彼女が笑って手を振った。
「おかえりなさい、大隈さん。」
その声に、反射的に詩は言ってしまった。
「……ただいま。」
瞬間、アパートの全ての照明が点いた。
暗闇が弾け、同時に、六部屋すべてから足音が鳴った。
天井、壁、床、同時に誰かが歩いている。
詩は耳を塞いだ。
だが、どんなに塞いでも声は脳内に直接響く。
「よく帰ってこられましたね。」
「これで、七人目です。」
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四
翌日、詩は荷物をまとめて出ようとした。
カーテンを開けると、
外の通りに見えるアパートの窓──どの部屋にも“自分”が立っていた。
七人の詩が、同じ顔でこちらを見ている。
その中のひとりが、口を動かした。
「いってらっしゃい。」
呼吸が止まる。
ドアを開けて逃げようとするが、ドアノブが動かない。
壁が軋み、天井から“足跡”が降ってくるような音がする。
視界が揺らぎ、音が溶け、空気がねじれる。
気づいたとき、詩は自室の中ではなかった。
外から見た「自分の部屋の窓の内側」に立っていた。
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終
翌週、緑陽荘は取り壊された。
老朽化のためだと報道されたが、
現場作業員の証言では、夜になると中から「おかえり」と声がしたという。
今、跡地には新しいマンションが建っている。
名前は緑陽ヒルズ。
その五階の角部屋には、夜になるといつも灯りがついている。
入居者はいないはずなのに。
近所の住民が通りかかると、
中の暗がりから、誰かが手を振るという。
「おかえりなさい。」
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【終】




