【見送る人】
◇ 序
朝の空気は冷たく澄んでいた。
通勤前の坂道を下る。
カラスの声、遠くの車のエンジン、まだ湿ったアスファルトの匂い。
横断歩道の手前で信号が赤に変わる。
その瞬間、詩は気づいた。
向こう側に──男が立っている。
黒いスーツ、黒いマスク、きちんとした姿勢。
通勤途中の人々が通り過ぎても、彼だけが動かない。
その目線が、こちらに向いている気がした。
信号が青に変わり、人の波が動く。
詩も歩き出した。
だが、男は立ち尽くしたまま動かず、
まるで、通り過ぎる全員を“見送っている”ようだった。
その顔を、ほんの一瞬だけ見た気がした。
マスクの下、わずかに笑ったように。
⸻
翌朝も、同じ場所に男はいた。
その次の日も。
同じ時刻、同じ立ち姿、同じ方向を見ている。
偶然とは思えない。
それでも、男が誰かに話しかける様子は一度もなかった。
詩は無視しようとした。
けれど、会社に着いても、会議の途中でも、
あの黒いマスクが頭から離れなかった。
夜、寝る前。
窓の外を見下ろすと、通りの向こうで何かが動いた。
街灯の下。
スーツの男が、こちらを見上げていた。
詩は息を詰めた。
男が、ゆっくりと手を上げ──
手の甲をこちらに向けて、左右に振った。
その“逆手の手振り”が、妙に不吉に見えた。
まるで、“見送っている”かのように。
⸻
◇ 中
四日目の夜。
寝静まった部屋で、天井から音がした。
トン……トン……トン。
ネズミかと思った。
だが、リズムが“歩くよう”に規則正しい。
脚立を持ち出し、天井の点検口を開けた。
懐中電灯を差し込む。
光が届く範囲の先、
梁の影の中で──黒いスーツの袖が動いた。
照らした瞬間、それは奥へと滑るように逃げた。
詩が身を引いたと同時に、
バンッ! 内側から点検口が閉じた。
息が荒くなる。
胸が締めつけられるように痛い。
ドアチェーンをかけ、全ての明かりを点けた。
静寂。
時計の音すら聞こえない。
それが、余計に怖かった。
⸻
翌朝。
ポストに封筒が入っていた。
中には銀色の紙。
角度を変えると、浮かび上がるように文字が現れる。
> 『まだ、中にいます。』
背筋が凍った。
昨夜、天井裏にいた“それ”は、
まだこの部屋にいるというのか。
詩は一日中、何かに監視されている感覚から逃れられなかった。
オフィスの喧噪も、同僚の声も、
すべてが遠くで響いているように聞こえる。
⸻
夜。
眠る前に、ふと思い出したようにカメラを設置した。
玄関、寝室、リビング。
翌日、映像を確認する。
寝室の録画が、午前3時13分で途切れていた。
ノイズの中に、ぼやけた影。
黒いスーツ、マスク。
ベッドのすぐ横に立っている。
男は、カメラの方を向き、ゆっくりと手を振った。
次の瞬間、映像が途切れた。
データは削除され、ファイル名だけが残っていた。
> “handover.mp4”
ハンドオーバー──引き継ぎ。
⸻
翌夜、
寝室の隅から声がした。
> 「……交代の時間だよ。」
詩は跳ね起きた。
声は、確かに“あの男”のものだった。
暗闇の中、空気が波打つように揺れる。
廊下のドアが、静かに開いた。
そこにいた。
黒いスーツの男。
目だけが、闇の奥で光っている。
彼はゆっくりと手を上げ──
逆手で手を振った。
⸻
◇ 終
詩は逃げた。
玄関を開け、夜の街に飛び出す。
冷たい空気が肺を焼く。
足音が後ろから追ってくる。
振り向く。
誰もいない。
だが、街灯に照らされたアスファルトの上に、
黒い足跡が続いている。
坂道を駆け下り、
横断歩道の手前で立ち止まった。
信号の向こうに、自分自身が立っていた。
スーツ、マスク、姿勢、すべて同じ。
その“もう一人の詩”が手を上げて、
ゆっくりと手を振る。
声を上げようとしても、喉が動かない。
呼吸が、掠れていく。
視界が白く滲む。
指先が透け、
世界が反転するように闇へ沈んだ。
⸻
朝。
通勤ラッシュの横断歩道。
スーツの男が一人、信号の向こうに立っている。
黒いマスク。姿勢は完璧。
人々の流れの中で、
彼だけが動かない。
信号が青になると、
男は腕を上げ、ゆっくりと手を振った。
通りすがりの女性が足を止める。
> 「あれ……昨日も、同じ人がいたような……」
風が吹く。
マスクがわずかにずれる。
その下の口元が、静かに笑った。
──大隈 詩。
今日も、彼は誰かを見送っている。
⸻
【終】




