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短編怪奇談  作者: 森の漢
11/12

【見送る人】

◇ 序


 朝の空気は冷たく澄んでいた。

 通勤前の坂道を下る。

 カラスの声、遠くの車のエンジン、まだ湿ったアスファルトの匂い。


 横断歩道の手前で信号が赤に変わる。

 その瞬間、詩は気づいた。


 向こう側に──男が立っている。


 黒いスーツ、黒いマスク、きちんとした姿勢。

 通勤途中の人々が通り過ぎても、彼だけが動かない。


 その目線が、こちらに向いている気がした。


 信号が青に変わり、人の波が動く。

 詩も歩き出した。

 だが、男は立ち尽くしたまま動かず、

 まるで、通り過ぎる全員を“見送っている”ようだった。


 その顔を、ほんの一瞬だけ見た気がした。

 マスクの下、わずかに笑ったように。



 翌朝も、同じ場所に男はいた。

 その次の日も。


 同じ時刻、同じ立ち姿、同じ方向を見ている。

 偶然とは思えない。

 それでも、男が誰かに話しかける様子は一度もなかった。


 詩は無視しようとした。

 けれど、会社に着いても、会議の途中でも、

 あの黒いマスクが頭から離れなかった。


 夜、寝る前。

 窓の外を見下ろすと、通りの向こうで何かが動いた。


 街灯の下。

 スーツの男が、こちらを見上げていた。


 詩は息を詰めた。

 男が、ゆっくりと手を上げ──

 手の甲をこちらに向けて、左右に振った。


 その“逆手の手振り”が、妙に不吉に見えた。

 まるで、“見送っている”かのように。



◇ 中


 四日目の夜。

 寝静まった部屋で、天井から音がした。


 トン……トン……トン。


 ネズミかと思った。

 だが、リズムが“歩くよう”に規則正しい。


 脚立を持ち出し、天井の点検口を開けた。

 懐中電灯を差し込む。

 光が届く範囲の先、

 梁の影の中で──黒いスーツの袖が動いた。


 照らした瞬間、それは奥へと滑るように逃げた。

 詩が身を引いたと同時に、

 バンッ! 内側から点検口が閉じた。


 息が荒くなる。

 胸が締めつけられるように痛い。

 ドアチェーンをかけ、全ての明かりを点けた。


 静寂。

 時計の音すら聞こえない。

 それが、余計に怖かった。



 翌朝。

 ポストに封筒が入っていた。

 中には銀色の紙。

 角度を変えると、浮かび上がるように文字が現れる。


 > 『まだ、中にいます。』


 背筋が凍った。

 昨夜、天井裏にいた“それ”は、

 まだこの部屋にいるというのか。


 詩は一日中、何かに監視されている感覚から逃れられなかった。

 オフィスの喧噪も、同僚の声も、

 すべてが遠くで響いているように聞こえる。



 夜。

 眠る前に、ふと思い出したようにカメラを設置した。

 玄関、寝室、リビング。

 翌日、映像を確認する。


 寝室の録画が、午前3時13分で途切れていた。

 ノイズの中に、ぼやけた影。


 黒いスーツ、マスク。

 ベッドのすぐ横に立っている。


 男は、カメラの方を向き、ゆっくりと手を振った。


 次の瞬間、映像が途切れた。

 データは削除され、ファイル名だけが残っていた。


 > “handover.mp4”


 ハンドオーバー──引き継ぎ。



 翌夜、

 寝室の隅から声がした。


 > 「……交代の時間だよ。」


 詩は跳ね起きた。

 声は、確かに“あの男”のものだった。


 暗闇の中、空気が波打つように揺れる。

 廊下のドアが、静かに開いた。


 そこにいた。

 黒いスーツの男。

 目だけが、闇の奥で光っている。


 彼はゆっくりと手を上げ──

 逆手で手を振った。



◇ 終


 詩は逃げた。

 玄関を開け、夜の街に飛び出す。


 冷たい空気が肺を焼く。

 足音が後ろから追ってくる。


 振り向く。

 誰もいない。

 だが、街灯に照らされたアスファルトの上に、

 黒い足跡が続いている。


 坂道を駆け下り、

 横断歩道の手前で立ち止まった。


 信号の向こうに、自分自身が立っていた。


 スーツ、マスク、姿勢、すべて同じ。

 その“もう一人の詩”が手を上げて、

 ゆっくりと手を振る。


 声を上げようとしても、喉が動かない。

呼吸が、掠れていく。

 視界が白く滲む。


 指先が透け、

 世界が反転するように闇へ沈んだ。



 朝。

 通勤ラッシュの横断歩道。


 スーツの男が一人、信号の向こうに立っている。

 黒いマスク。姿勢は完璧。

 人々の流れの中で、

 彼だけが動かない。


 信号が青になると、

 男は腕を上げ、ゆっくりと手を振った。


 通りすがりの女性が足を止める。


 > 「あれ……昨日も、同じ人がいたような……」


 風が吹く。

 マスクがわずかにずれる。


 その下の口元が、静かに笑った。


 ──大隈 詩。


 今日も、彼は誰かを見送っている。



【終】

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