表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

そして、光が差した

作者: 久遠 睦

第一部 完璧な人生、脆い基盤


第一章 頂点


東京、丸の内。ガラス張りの高層ビルが空を切り取る街。その一角にあるIT企業「ネクサスソリューションズ」の会議室で、田中あすか(27)は淀みなく言葉を紡いでいた。スクリーンに映し出される洗練されたスライドと同期するように、彼女の声がクライアントの心を掴んでいく。自信に満ちた表情、的確な言葉選び、時折見せる鋭い眼差し。彼女は、この会社の若きエースだった。

「…以上のソリューション導入により、貴社の業務効率は現状比で30%以上の改善が見込まれます。これは単なるシステム更新ではありません。未来への投資です」

プレゼンテーションが終わると、一瞬の静寂の後、クライアントから大きな拍手が湧き起こった。あすかは満足げに微笑み、深く一礼した。彼女の仕事は、顧客が抱える課題をヒアリングし、それを解決するための複雑なITシステムを提案する「ソリューション営業」だ 。高いコミュニケーション能力と問題解決能力が求められるこの仕事で、彼女は常にトップの成績を収めていた。

その成功は、彼女のライフスタイルにも反映されていた。東京の20代女性の平均年収を大きく上回る給与 で、独身女性に人気の街、中目黒のデザイナーズマンションに一人で暮らしている 。仕事もプライベートも、すべてが順調。このままいけば、自分の人生はどこまでも輝かしいものになるだろうと信じて疑わなかった。

会議後、プロジェクトメンバーの一人である若手エンジニアが、少し不安そうな顔であすかに近づいてきた。 「田中さん、先ほどの提案内容ですが、データ連携部分の仕様に少し懸念がありまして。些細なことかもしれませんが…」 あすかは彼の言葉を遮るように、軽く手を振った。 「大丈夫、大丈夫。あそこは後でいくらでも調整できるから。それより、今日の成功を祝いに行きましょう」 彼女の自信は、いつしか傲慢さに変わりつつあった。20代のキャリア観において「成長できる環境」を重視する挑戦志向の彼女は 、細部への配慮を軽視するようになっていたのだ。

チームでの祝杯を優先し、意気揚々とオフィスを出たあすかは、スマートフォンの画面を見て眉をひそめた。恋人の健司からの不在着信が何件も入っている。そして、短いメッセージ。「話がある」。 またか、と心の中でため息をつく。最近、仕事の忙しさを理由にデートをキャンセルすることが続いていた。苛立ちを覚えながら、彼女は「後でかけ直す」とだけ返信し、夜の街へと消えていった。この小さな選択が、完璧だったはずの日常に亀裂を入れる最初の槌音だとは、まだ知る由もなかった。


第二章 二重の断裂


その週末、あすかと健司は、いつもの賑やかな店ではなく、静かな個室のある和食店で向かい合っていた。健司の表情は硬く、あすかは居心地の悪さを感じていた。

「あすか、別れよう」

健司の言葉は、何の脈絡もなく、しかし決定的な響きを持っていた。 「…どうして?急に」 「急じゃないさ。ずっと考えてた。俺は、君のカレンダーに書き込まれて、何度も消される予定の一つじゃないんだ。パートナーが欲しいんだよ」

健司の不満は、あすかが仕事に没頭するあまり、二人の時間がないがしろにされていることだった。20代の恋愛が結婚を意識するものであることが多い中で 、あすかのキャリアへの異常なまでの集中は、健司に二人の未来が見えないと感じさせていた。彼女が自分の時間や行動が制限されることを嫌うように、彼もまた、関係性における責任と安らぎのバランスが取れないことに疲弊していたのだ 。

「仕事が大事なのはわかる。でも、俺たちの時間も大事にしてほしかった」 あすかは反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。彼の瞳には、もう自分への期待の色はなかった。完璧なはずだったプライベートが、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。

週明けの朝、失恋の痛みで重い頭を抱えながら出社したあすかを、さらに追い打ちをかける出来事が待っていた。デスクに着くやいなや、上司から内線電話が鳴った。 「田中、至急会議室に来てくれ」

ガラス張りの会議室には、重苦しい空気が漂っていた。上司の口から語られたのは、悪夢のような報告だった。あすかが「些細なこと」と一蹴したデータ連携部分の仕様が原因で、先日のクライアントのシステムに大規模な障害が発生したというのだ。データの移行中に深刻な破損が起こり、業務が完全にストップしているらしい 。

「大丈夫だと言ったな、君は」 上司の低い声が、あすかの鼓膜を突き刺す。血の気が引き、指先が冷たくなっていくのを感じた。仕事とプライベート、信じていた二つの柱が、同時に砕け散った。


第三章 崩壊


緊急対策会議は、あすかにとって公開処刑の場となった。障害の原因究明レポートが配られ、問題の起点が、彼女が若手エンジニアの警告を無視したことにあると明確に示されていた。リスク管理とコミュニケーションの欠如 、それはプロジェクトマネジメントにおける致命的な失敗だった 。

数日前まで彼女の成功を称賛していた同僚たちは、今は目を合わせようともしない。冷たい視線とひそひそ話が、彼女の背中に突き刺さる。 「本件の責任は、プロジェクトリーダーである私にある。だが、直接の原因を作った田中君には、このプロジェクトから外れてもらう」

上司の非情な宣告が下された。彼女はもはやチームのエースではなく、チームにとっての負債だった。社会的な孤立。それは、失恋の痛みとはまた違う、魂を削られるような屈辱だった。自分の居場所が、音を立てて消えていく。輝かしいはずだった未来は、一瞬にして暗闇に閉ざされた。


第二部 長い沈黙


第四章 静寂の半年


中目黒の部屋は、かつてのスタイリッシュな面影を失い、物が散乱していた。あすかの心象風景そのものだった。会社は休職し、半年が過ぎようとしていた。友人や家族からの電話にも出ず、ただ時間だけが過ぎていく。SNSを開けば、きらきらとした友人たちの日常が目に飛び込んできて、そのたびに胸が苦しくなった。かつて自分の遊び場だった東京の街が、今は自分を拒絶する巨大な迷宮のように感じられた。

キャリアと恋人。自己肯定感のすべてをそこに置いていたあすかは、両方を失い、自分が何者なのかわからなくなっていた。後悔、羞恥、絶望。負の感情が渦巻き、彼女を部屋の隅に縛り付けていた。これは、多くの挫折をテーマにした物語が描く、主人公がどん底に落ちる過程そのものだった 。キャリアに対する不安が現実のものとなり 、彼女は完全に打ちのめされていた。


第五章 一筋の光


ある日の夕暮れ、散らかった部屋の片隅で、あすかは一冊の古いノートを見つけた。入社当時に使っていたもので、そこには拙い文字で、仕事への真摯な目標や学びがびっしりと書き込まれていた。

『クライアントの課題に、誰よりも真剣に向き合う』 『チームの成功のために、自分にできることを全力でやる』

謙虚で、ひたむきだった頃の自分の言葉。それを読んでいるうちに、あすかの頬を熱い涙が伝った。いつから自分は変わってしまったのだろう。傲慢で、人の意見に耳を貸さず、仕事も、大切な人も、ないがしろにしてきた。

健司が悪いわけでも、会社が悪いわけでもない。すべては、自分自身の未熟さが招いた結果だった。この失敗は不運などではなく、自分の人格の欠陥が生んだ必然だったのだ。物語の登場人物が傲慢さゆえに破滅し、そこから学びを得るように 、彼女はようやく自己と向き合うことができた。その涙は、自己憐憫ではなく、心からの悔恨の涙だった。この気づきこそが、彼女の「再生」への第一歩となった 。


第三部 再起


第六章 小さなことの尊さ


長い休職期間を終え、あすかはオフィスに戻った。同僚たちの視線はぎこちなく、腫れ物に触るような空気が流れていた。彼女はもう花形のプロジェクトチームにはいなかった。総務的な部署サポート業務が、新たな仕事だった。

しかし、あすかは絶望しなかった。むしろ、その状況を受け入れた。誰もが嫌がる雑用を、彼女は率先して引き受けた。煩雑な共有サーバーのフォルダを徹夜で整理し、誰にでもわかるようにマニュアルを作成した。会議室のプロジェクターが常に完璧に動作するように、毎日点検を欠かさなかった。膨大な量のコンプライアンス書類のチェックも、黙々とこなした。

それは彼女にとっての贖罪であり、自己の再構築の過程だった。派手な成果を追い求めるのではなく、チームを根底から支える仕事の尊さを、彼女は一つ一つ学び直していた。個人の「成長」ではなく、チーム全体の「安定」と良好な「人間関係」に貢献すること 。その静かで実直な働きぶりを、周囲の同僚たちも、少しずつ認め始めていた。


第七章 同僚


そんなあすかの変化を、静かに見つめている人物がいた。鈴木海斗かいと。彼女より少し年上の、穏やかで思慮深いシニアエンジニアだった。彼は社内でも技術力と人望で一目置かれる存在だった。

ある夜、あすかが一人残業を終えて帰ろうとすると、海斗が声をかけてきた。 「田中さん、よかったら一杯どうかな」 オフィスの近くの、気取らない居酒屋。最初は当たり障りのない会話が続いたが、やがて海斗がぽつりと言った。

「前の田中さんも、すごかったよね。本当にスターみたいだった。でも…正直に言うと、俺は今の田中さんの方が好きだな。なんていうか…人間らしいし、優しい感じがする」

それは、あすかがこの半年間で初めて受け取った、肯定の言葉だった。それも、自分が尊敬する人物からの。彼の言葉は、お世辞や同情ではなかった。彼女の苦しい道のりと、その末に生まれた内面的な成長を、正しく評価してくれる、真摯な眼差しがあった。職場での関係が、より個人的なつながりへと変わる瞬間だった 。海斗は、あすかの過去の成功ではなく、彼女の「成長」そのものに惹かれていたのだ。その事実は、あすかの凍りついた心を、ゆっくりと溶かし始めた 。


第八章 セカンドチャンス


数週間後、海斗は社運を賭けた新規プロジェクトのリーダーに任命された。懐疑的な大口クライアントに対し、最新のAI分析プラットフォームを導入するという、技術的にも交渉的にも極めて難易度の高い案件だった。彼は、緻密さとコミュニケーション能力、そして何より逆境に強い精神力を持つチームメンバーを必要としていた。

海斗は上司に直談判し、あすかをプロジェクトコーディネーターとしてチームに加えるよう正式に要請した。 「彼女の今の働きぶりを見ていれば、わかります。今の彼女なら、このプロジェクトに必要です」

それは海斗にとって、自らの評価を賭けた大きなリスクだった。そしてあすかにとっては、恐怖と興奮が入り混じった、真のセカンドチャンスだった。かつてのように孤高のスターとしてではなく、チームを支える一員として、自分を証明する機会。彼女は、静かに、しかし固い決意を持ってそのオファーを受け入れた。プロジェクトチームの結成と役割分担は、新たな物語の始まりを告げていた 。


第四部 生涯最高のプロジェクト


第九章 絆を紡ぐ


プロジェクトは案の定、困難の連続だった。クライアントの要求は厳しく、技術的なトラブルが次々と発生し、スケジュールは常に遅延の危機に瀕していた。深夜までの残業、ホワイトボードを埋め尽くすブレインストーミング。チームは疲弊の色を濃くしていった。

そんな中で、あすかと海斗の関係は確固たるものになっていった。海斗は冷静なリーダーシップでチームを導き、あすかはチームの潤滑油となった。彼女はエンジニアたちの意見に真摯に耳を傾け、議事録を誰よりも丁寧に作成し、問題が大きくなる前にその兆候を察知した。

チームが最大の壁にぶつかった夜、オフィスに残ったのは二人だけだった。あすかは、海斗を支えるためにそこにいた。情報を整理し、解決策の選択肢を共に検討し、彼の心を励ました。深夜に二人ですするカップラーメン、小さな成功を分かち合う笑顔。厳しい仕事環境の中で育まれた相互の尊敬と信頼は、いつしか友情を超え、特別な感情へと変わっていった。それは、困難を共に乗り越えることで生まれる、支え合うカップルの姿そのものだった 。


第十章 祝杯


彼らの努力は、実を結んだ。最終プレゼンテーションは完璧に進み、懐疑的だったクライアントは、満面の笑みでプロジェクトの成功を称賛した。チームの勝利を祝う打ち上げは、東京の夜景が一望できる恵比寿のレストランで開かれた。

会場は歓喜に包まれていた。だが、あすかの心を満たしていたのは、過去の成功とは比べ物にならないほど、深く、温かい達成感だった。これは自分一人の勝利ではない。チーム全員で勝ち取ったものだ。彼女は、同僚たちと笑い合う海斗の姿に目をやった。感謝、尊敬、そして愛しさ。自分の仕事上の再生も、人間としての成長も、すべてが彼と結びついていることに、あすかは気づいていた。プロジェクトの「終結」は 、彼女の新たな人生の始まりを告げていた。


第十一章 答えは


打ち上げの喧騒から離れ、あすかは海斗を静かなテラスに誘った。パーティーのざわめきが遠のき、眼下には宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。告白にふさわしい、ロマンチックでプライベートな空間だった 。

「海斗さん…急に、ごめんなさい。でも、どうしても伝えたくて」 あすかの声は少し震えていたが、その瞳はまっすぐに海斗を見つめていた。

「この一年…私はすべてを失いました。仕事も、自信も…自分自身も。もう終わりだと思ってた。でも、海斗さんがセカンドチャンスをくれた。誰も、私自身でさえ信じてくれなかった時に、海斗さんだけは私の中に何かを見てくれた。あなたと一緒に働いて、あなたに支えられて…仕事で成功できただけじゃない。自分が、ちゃんと尊敬できる人間に、なれた気がするんです。あなたが、私を成長させてくれた。そして、いつの間にか…あなたへの感謝と尊敬が、違う気持ちに変わっていました。あなたのことが、好きです」

それは、彼女の魂の旅路を凝縮したような、真摯な告白だった 。

海斗は黙って聞いていた。その表情からは、何も読み取れない。あすかの心臓が大きく脈打つ、長い沈黙。 やがて、彼の口元に、ゆっくりと優しい笑みが広がった。彼は手を伸ばし、そっとあすかの頬に触れた。

「あすか」

初めて名前で呼ばれ、彼女は息をのんだ。

「話してくれて、ありがとう。…前に言ったよね。今の君の方が好きだって。あれは、本当だよ。でも、それだけじゃなかった。君が、どん底から必死に這い上がろうとする姿を、謙虚さと強さで自分自身を立て直していく姿を見て…俺は、ただ感心するだけじゃなかった。俺も、君に恋をしてたんだ。君が歩んできた、その一歩一歩のすべてに」

彼はそう言うと、あすかを優しく引き寄せ、その唇を重ねた。 それは、彼女の再生の物語が、最高の形で報われた瞬間だった。失ったものより、はるかに大きく、温かい光が、今、彼女の未来を照らし始めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ