第2話 渇望
彼女の名は月形綾乃。会社の上司だ。会社での彼女は、どんな仕事も完璧にこなし、何が起きても表情一つ変えない。「鉄面の女」なんて異名がついて皆から恐れられている。そんな彼女が今血濡れた地面に足を踏み入れ、鋭い瞳でこちらを睨んでいる。
「……水谷君。こんなところで何をしているの?」
「……部長こそ、これは一体……」
言葉が喉でつまりかかってうまく声が出ない。彼女の足元に転がる男の首筋には、異様な傷跡。何かが刺さったような――いやまるで獣が噛みついたような。
「答えなさい。」
彼女の声が静かに響く。普段の冷たい声とはまるで違う。背筋が凍り付くような圧倒的な威圧感。鼓動は今すぐ逃げるべきだと警音を鳴らすように大音量でなっている。しかし俺の心はそれ以上の何かで震えていた。恐怖じゃない。これは、もっと深い――興奮だ。
「…これ、現実…なんですよね?」
無意識に言葉が出ていた。
「現実?」
彼女が眉を寄せる。その表情すら美しいと思う自分に気づき、さらに胸が高鳴る。しかし彼女と目が合った瞬間、興奮で押さえつけられていた恐怖が暴れだし、感情が支配される。
気づいたらその場から逃げ出していた。自分でも理由がわからず、とにかく自宅を目指して走っていた。それを見ていた彼女はまた眉を寄せる。
「魅了が効かないなんて…。」
そうつぶやくと、彼女もまたその場から立ち去った。まるで影に溶け込むように。
その晩、俺は眠ることは出来なかった。
恐怖と興奮が頭の中で入り混じり、感情が混沌としていた。苦しい。だが気づいてしまった。心の奥底の渇きが癒えていたこと。さらに求めていた。強烈な非日常を…。
俺の中の何かが音を立てて壊れはじめた。




