出戻り
「女神様。現時点で、制限時間はどれくらい残ってる?」
俺は、名簿を凝視しながらそう尋ねた。数時間経過したフル暗記にはまだ程遠い。1人目の岩倉の事でさえ、少しすればすぐに忘れてしまいそうだ。
「君、殺されないってことが分かってから急にタメ口になったね。……僕の気が変わるとか思わなかった?」
「……今更敬語に戻すのは恥ずかしい」
1回タメ口を利いてしまったら、それを突き通すしかない。
「あっそう。……残り時間はあと9日と22時間15分23秒。異世界に戻ったら、こうやって時間を教えることは出来ないんだから、なるべく早めに殺した方がいいかもね」
「念押ししなくても、十分わかってるって」
「そう? あはは〜」
それにしても、人の顔と名前の暗記がこれ程難しいとは思わなかった。関わろうとしなかった、知ろうとしなかった人間は、俺にとっては他人と同じ。まったくの赤の他人31名の顔と名前を一致させる事が、これ程大変だとは。クラスメートを声だけで判断していた俺には、知る由もない事だった。
よくよく考えてみれば、担任でさえ、何日もかけてようやく覚える事が出来るレベルの話なんだよな。暗記作業に全集中している訳ではないにしても、暇を見つけては生徒の顔と名前を覚えているに決まってる。それも仕事の1部なのだから。
……2時間名簿とにらめっこしていると、気が狂いそうになるな。感覚的には、俺を蔑み、陥れた奴らとずっと目が合っている訳で。暗記を終えたら、俺はこいつらを全員殺す訳で。よく分からない感情が次々と湧き出てくる。こんな事を考えている余裕は無いってのに。
「あ〜、疲れた……」
「このペースじゃ、後何日も掛かりそうだね」
女神はニヤリとした顔で俺を見た。この人の目的が未だによく分からない。けれど、そんな事はどうでもいい。そんな事を考えるのに時間を割く訳にはいかない。少し目を休めたら、直ぐにまた暗記に取り掛かろう。
「……はい、残り8日と23時間59分59秒になったよ。1日終わっちゃったね? 調子はどう───」
「静かにしてくれ。気が散る」
「……神に向かって、その口の聞き方は無いんじゃないかな」
女神は、ムスッとした顔をした。
俺はこの24時間で、ある事実に気が付いた。この空間にいる間、睡魔や空腹が一切無く、便意や尿意も催さない。集中力が続く限り、いつまででも暗記に時間を割ける。
「予定変更だ。2日で暗記、1日で能力を使いこなす。それを3日間ぶっ通しでやる」
「……ちょっと無茶だと思うよ。身体は無事でも、気の方が滅入っちゃうよ」
「いや、今のは決意表明だ。止めて欲しくて言った訳じゃない」
賭けは半ば強引に受けさせられたが、その後を成り行きに任せるような生半可な気持ちで取り組んではいない。願いを1つ叶えてもらう。その為には、何だってこなせそうだ。
───それから、また1日が過ぎ、計2日が過ぎ去った。残りは後8日。俺は、何とか名簿を見ずとも、全員の名前と顔を一致させられるレベルにまで達する事が出来た。途中ゲシュタルト崩壊を起こしたりと、色々なアクシデントは起こったが、無事に事が済んで良かった。
「はぁ……ふぅ」
俺は、大の字で寝転がった。あんな大口を叩いておいて、情けないとは思いつつも、女神の言う通り、心が限界だった。
「お疲れ様。凄いね、良く2日で全員分覚えられたもんだ」
「48時間、目一杯暗記をし続けたんだ。むしろ遅いくらいじゃないか?」
「いや、並大抵の精神力じゃ、投げ出してしまうようなことだと思うよ。頑張ったね」
そう言うと、女神は俺の頭を撫でた。たったそれだけで、俺の疲れきった心がリフレッシュされた。
「あ〜あ。何だかんだ凄い協力しちゃった」
「……ありがとう……ゴザイマス」
「え? 何て?」
「いや……何でもない。直ぐに次に取り掛からなきゃ」
俺は、気恥ずかしくなり、女神に背を向けた。
「能力か……どっちも初めて使うな」
俺はまず、扱いが簡単なキルカウンターから使用してみた。キルカウンターと唱えると、目の前には黄色に太文字で『0/31』と表示された。皆を殺すに連れて、これが増えていく訳だ。
よし、じゃあ2つ目の力を試してみるか。
「オクトパス」
腕をタコに変えようという意識しながら、そう唱えてみると、本当に腕がタコの足に変わった。それは、そこはかとなくグロテスクで、とてつもない嫌悪感と違和感に苛まれ、気分が悪くなった。
「僕の真似をしたの? 初めてなんだから、もっとかっこいいものにしなよ。熊の腕とか、虎の牙とかさ」
俺の様子から察したのか、女神はアドバイスをくれた。確かに言う通りだと思った。
「ベアー!」
俺は、すぐさま気持ちの悪い腕を取り替えたく、そう唱えた。
すると、腕は黒い毛に覆われ、人の腕では有り得ない太さのものに変わった。これが熊の腕か。何でも薙ぎ払えそうだ。確かに、これに襲われたら人間なんて一溜りもないな。
「……ヒューマン」
ただ、自分以外の腕は、違和感が凄く、直ぐに元に戻してしまった。感覚を確かめるように、何度か腕を振るい、手を握りしめてみた。
「残り7日〜。3日間、あっという間だったね」
俺は、1日中能力を特訓し、ある程度使いこなせるように成長した。
「色々と世話になりました」
俺は改めて、何だかんだいって協力的な女神に、礼を言う事にした。本来は頭を垂れ、涙を流しながら感謝を述べるのが適切だが、神の正体を知ってしまった以上、そんな事をするのは難しかった。
「良いって。結果で示してよ」
「分かった。準備万端だ。いつでも異世界に飛ばしてくれ」
「了解。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
女神との最後のやり取りを交わし、俺は再びあの異世界へと降り立った。