別離の悲哀
私は元来不出来な人間であった。
それは学力という面ではない。
私には人間性が欠如していた。
幼いころ、母親が泣きながらに言った「世界は正論だけでできているわけではない」という言葉は、論理性しか取り柄のない私にとって、私自身がこの世界から迫害されているような印象を受けた。
私は同時に今、こう思っている。
私は暗がりの公園のベンチに腰掛けこう思っている。
もし、神がいて、これが物語であるのならば、私は主人公を苦しめる悪党であろうと。
当然、今の私には悪党のような不道徳なことなどできそうになかった。
だが、私はこの感覚を知っている。
これは、私が道徳的であるからというわけではなく、寧ろ卑怯だから不道徳なことをしないのだ。
だが、私はこの冷徹な性格と、幾分か人に好かれる顔をしていることとで、現在まで生きながらえてきた。
本当に、生きながらえてきただけである。
数年前の話をすると、私には彼女がいた。
数年前と濁したのは、その彼女という存在がただ単なる友人、あるいは他人になったのが今さっきのことであり、或いは私はそれを気恥ずかしく思ってるからかもしれないからだ。
だが、問題はその気恥ずかしさだけでは過ぎなかった。
私は、先ほどの出来事によって、私自身が今まで生きながらえてきただけだと知ってしまったのだ。
彼女は別れ際にこう言った。
「あなたはたぶん私とは違う人間のようね」
私は彼女と私が同じ目線であると思っていた。
私は、私の痛みが彼女にもわかるような痛みであると思っていた。
だが、それは違ったようだ。
私にとって彼女は理想的な人だった。
それは、私がアプリオリに理想的な女性像を持っていたのではなく、長い間社会で生きていることによって醸成されたコモンセンスな女性像、それの最たる近似値が彼女であったのだ。
だが、私は彼女を認めていた。
彼女であれば私の隣を歩いてくれるのではないかと、ひそかに思っていた。
だから、私にとって、彼女が「あなたより好きな人ができたの」と言ったことは思わぬことであった。
何故なら、先ほども述べたように、彼女は私と同じ目線であると思っていたからだ。
私は先ほど、彼女を認めていたと言った。
だが、それだと言葉足らずであろう。
私は彼女を愛していたのだ。
この愛というのは情欲の次元ではなく、理性の次元である。
これは、例えば敬虔なクリスチャンがイエスに向けるような、当然のものでありながら私自身を安心させる、理性の働きの一部である。
私は彼女が私と同じような愛を私に向けていると思っていた。
だが、それは違ったようだ。
どこで間違ったのだろうか。
私は彼女との出会いから今日までを思い出す。
それは、全て網羅していないが、我々の間に会った重要ごとは鮮明である。
だが、今思い返してみても、私は一貫して私であった。
ということは――
私はその前に缶コーヒーが冷えるのを嫌がり、残りを飲んだ。
ということは私が幼少期から成長していなかったということか。
私はどうやら長い間私を生きながらえさせた社会の目論見から外れて真人間には成長しなかったようだ。
私は特別な人間などではない。
私はただ単にこの社会で生きながらえてきた人間なのだ。
缶を捨てる。
空を見上げる。
溜息が出る。
涙はまだ出そうになかった。