落ちた、落ちた
プロローグ
昼すぎから降りだした雪は、日が沈みかける頃にはヴィゴが想像していたよりも屋根の上に積もっていた。
雪かきは重労働である。腰にもずいぶんと負担がかかる。
「こういうのは若いもんの仕事っしょ」と年上の部下から強引に送り出される形で、彼は傾斜のほとんどない屋根の上に立ち、薄明の中でせっせと木製のシャベルを振るっていた。
吐く息の白さがまだはっきりとわかる。ヴィゴの分と、少し離れた場所でシャベルと格闘しているもう一人の分と。
ヴィゴは少しだけ手を止めた。目を凝らすまでもなく、北の彼方に神樹シュグルンドのそびえ立つ様がはっきりと見える。さながら山のような偉容だ。
だが彼は国の象徴そのものである神樹を憎んでいた。できることならば、一片たりとも残さず灰にしてやりたいとまで思う。
そんな個人的心情による小休止の間にも、フードを目深にかぶった小柄な相方は忙しなく動き続けている。
新入りの団員が甲斐甲斐しく働いている傍らで、模範となるべき団長が怠けていたのでは格好がつかない。
気を取り直し、シャベルを握る両手に力をこめた。
「とうっ」
掛け声とともにひときわ大きな雪の塊を地上へ豪快に放り捨て、ささやかな充足感を得た直後だった。
誰も歩いていなかったはずの外から「あぶなっ」と女の声がしたのだ。
続けて彼女は屋根の上のヴィゴへと呼びかけてきた。
「団長ぉ、落ちたっスよ」
「悪い悪い。濡れたか?」
「いや、雪じゃねっス。あっちが落ちたんスよ」
わずかに四人だけいる部下の一人、キルスティである。
彼女の言う「落ちた」の意味を即座に理解したヴィゴは、再び手を止めてしまった。残念ながら雪かきはここまでだ。
「了解した。すぐに行く」
ついでに釘も刺しておく。
「あとキルスティ、わかっているだろうがおれと交代だからな、ちゃんとこっちに上がってこいよ」
「ええ……。雪かきやると腰にくるんで勘弁してほしいんスけど。言っておきますけど、うちは団長よりもほんの少しだけお姉さんなんスからね。優しさというか配慮というか、とにかくいたわってくれないと」
嫌がる態度を露わにした言葉が路上から返ってきたが、相手にしない。
そのままヴィゴは梯子を伝って館内へ入り、あちらこちらが欠けている石造りの階段をどんどん下りていく。
厳しい冷えこみは建物の中でも変わらないが、雪で濡れないだけ外よりはマシというものだろう。吹き抜けとなっている空間に、ヴィゴの編み上げ靴による足音だけが反響していた。
彼がやってきたのは、かつては食糧貯蔵庫として使われていたらしい地下室だ。館内では最も寒さが厳しい部屋でもある。
「入るぞ」
ノックもなく扉を押し開けたヴィゴへと視線が集まった。
「よ。来たな団長」
燭台に三本の蝋燭を灯しているだけの暗い部屋だが、挨拶を寄越してきた男の拳が血に塗れているのはヴィゴの目にもすぐに判別できた。
「手荒くやったな、ラーシュ」
男の前には椅子が一脚、そこへ縛られた人物がだらんとうなだれている。炎に照らされている横顔に幾筋もの血が流れていた。
血の匂いの中に混じって、わずかだが酒らしき香りも鼻を刺す。
どういう用途だったかは不明だが、おそらくラーシュが拷問に使ったのだろう。
「そうかい? わりと配慮はしたつもりだぜ」
壁にもたれかかって腕を組んでいたもう一人の部下である巨漢の男が、ここでおもむろに口を開いた。
「心得たものですよ、こいつの手際は。短時間で情報を吐かせたわけですから」
「お、さすがにノアの旦那はわかってくれてんなあ」
「すぐ調子に乗るんだから、あまり甘やかさないでくださいよ」
弾んだ声のラーシュとは対照的に、憮然としながらノアへ苦言を呈したヴィゴだったが、続けて情報の開示を二人の部下に求めた。
「で、こいつは何と」
「例の真っ赤な薬物、こちらで推測していた通りだな。原料はやはり神樹シュグルンドの葉だとさ」
「どうやら調合に秘密があるらしく、シュグルンドの森で採取できる何かを混ぜ合わせることによって特殊な薬物へと仕上げていたそうです。ただ、その何かまでは教えてもらえていないようで」
神樹シュグルンドの葉。
聖域である神樹の森への立ち入りが厳しく制限されている現在、この貴重な葉を大量に手に入れることは不可能に等しい。
聖なる森の管轄を任されている人物を除いては。
「じゃあ、出向くしかなさそうだな」
当然の帰結といった調子でヴィゴが呟く。
「出向くって、どこによ?」
「シュグルンドの森ですね、団長」
ラーシュとノアの反応は分かれたが、何も答えずヴィゴはにやりと笑った。
◇
神樹の葉より生みだされた、ニルデリク王国を蝕む悪夢の薬〈燃える雪〉。
ここで物語は八日前へと遡る。
ヴィゴたちの闘争の軌跡はまずそこから語られねばならない。