胸騒ぎ
味噌汁をすする。舌が奥歯に当たる。とたんに自分の歯が鋭いように感じられ、気が気でなくなってくる。味噌汁のしょっぱさに集中できない。舌先で上下、両方の奥歯をただひたすら舐めまわす。それでも違和感は消えず、おれは観念して味噌汁を飲み干す。炬燵を四人で囲みながら雑談をする、いつもの晩ご飯の風景。話は父の仕事の愚痴から始まり、いつしかどうでもいいニュースの話に変わっていく。
「そういえば――京子の絵、美術館に飾られることになったんだって。一ヶ月後ぐらいかな」
母がなすびを口に入れ、朗らかに言う。
足下の感覚がなくなった――ような気がした。朗らかな空間の中で自分だけが落ちていく。
京子の絵――口の中が痺れたように味覚を失った。その感覚があまりにも唐突で、おれは吐きそうになった――懸命に不快さを飲みき出した。美術館に妹の絵が飾られる――初耳だった。だが、それよりも。
いつの間に完成させてていたんだ――おれは妹の才能からひたすら目をそらしていた。だから知らなかった。それでも、母や京子が嫌でも話題に出しているはず。なんでおれだけ知らないんだ。それだけ本能の底から逃避していたというのか――確かめるすべはない。
「おれ、まだ見てなかった」
「いいじゃない。どうせ見れるんだから」
「じゃあ、もう提出したんや」
「もうすぐ高松美術館に飾られるんだって。高松美術館、昔、隆司も行ったことあるよね?」
「どうだったっけ。もう忘れた」
母が京子の方を見る。京子が照れくさそうに横を向き、何も言わず白米を口に入れ続ける。
「どうせなら、おれが仕上げを手伝ってあげれたらよかったのに」
些細な冗談――それは一種の縋りでもあり、繕いでもあった。この悪しき感情を誰にも知られることは出来ない。
「隆司が手を加えたら台無しになっちゃうでしょ」
「うん」
自分から言い始めたくだらない冗談で、どういう反応が返ってくるかも分かっていたのに、いちいち母の言葉が胸の奥を鋭く刺す。
母の言葉が示す事実――おれと京子の絵の上手さは天と地ほど差が付いてしまっている。あの時のことを思い出すからやめろ。小学校の図工。おれが書いた部分だけが皆にけちを付けられた。あの頃までは、自分の無力さ、拙さを知るまでは、絵を描いているときは自分の劣等感を忘れられたのに――
視界がうねり、実体を捉えられない。闇雲に震えた手を伸ばした。音がした――箸が机の上に落ちた。景色がうねったまま回転し続けている。目の前の光景が確かに見えているのに捉えられない。すぐ目の前にあるはずの箸が掴めない。
誰かに冷たくされているわけでもないのに、泣き出しそうだった。
「今度、みんなで見に行こうね」
本当は見たくなかった。描いている途中の絵でさえ、直視することができなかった――口には出せなかった。おれは一度も京子の絵をまじまじと見たことが無かった。
完成したら見るから、それまでの楽しみにしとくわ――家族にはそう言っていた。本当は違う。ただでさえとりえのないおれが、妹の能力にどす黒いものを感じていると知られたら、本当におれはこの世界の最後――家族からも拒絶されてしまう。センスのないおれが唯一生きていくには、自分より優れた妹を讃え、媚びを打って生きていくしかない。
「でも、ほんとうすごいよな。美術部で数人だけやろ、飾られるのって」
「別に」
おれが言うと、京子が気のない返答をしながらも、頬を僅かに紅潮させ、伏し目がちにはにかんだ。不意に、おれは柔らかくてあたたかな感情を覚えた。京子が愛らしかった。京子は人見知りだが、おれに対して常に思いやりのある妹だった。
おれにはすべてができすぎた妹だった。おれは妹が好きだった。京子を心の底から祝福してやりたかった。
京子を祝福するにはおれはあまりにも何もできなかった――余裕がなさ過ぎた。京子をいとしく、思う気持ちと、自分にないものをもつ京子に対するどす黒い感情――打ち明けられなかった。
ただ、京子に対するそれは嫉妬ではなかった。ヒーローインサイドについては、おれの関与しないところですべての名声を失ってほしい、才能を全て分捕ってやりたいという目もくらむようなおぞましく下劣な感情を抱いていたが、京子に対しては、才能を奪ってやりたい、なくしてほしいなんて全く思っていなかった。
「それがさ、岡本市長さんが今度高松美術館に来るんだって」
「すごいじゃん」
「もしかしたら、市長さんが見るかもしれないね、京子の絵」
「かもな」
ようやく箸を掴み、白米を喉に押し込んだ。味噌汁をすすり口の中のご飯を柔らかくする。
何の味もしなかった。
「えーやだー」
恥ずかしがる京子――見ているだけで目が潰れそうだった。
皆が寝静まった後に自分の部屋を出て、京子の部屋に入った。机の上、近辺――あるのは教科書とノートだけで、絵の具一式は片付けられていた。いつもクローゼットの扉に立てかけられていた絵も綺麗さっぱり無くなっていた。
あたりまえだった。学校に提出したのだから。ベッドで京子が鼻を僅かに膨らませて眠っている。その顔がとても幼く感じられて、おれは京子の頭を撫でた。この部屋に特に用があるわけでは無かった。じゃあなんで京子の部屋に来た?
晩御飯を食べていたときのことを思い出す。京子の絵が褒められていたとき、おれは間違いなく不快を抱いた。理由は嫉妬と後ろめたさ――頭の中で整理すればどうということはない。そしてその分析は決して的外れでは無い。京子に対する思考がうねっている。京子を讃えるおれ、自分の劣等感をじくじくとあぶり出されることに苦痛を覚えるおれ。どちらもが確かで、リアルな自分自身だ。どちらもあっていい――どちらも無くていい。
一体おれは何が気に入らないんだ。友達がいなくても、おれは家族に温かく包まれている。おれは家族のことが好きだ。家族も多分、おれのことを好きでいてくれている。
それ以上何が必要なんだ。センスがなくとも、今の暮らしに埋没することを受け入れたらいいじゃないか。それは退屈で苦痛も微かに伴うが、人生とは、人間が生きていくとはそういうものなのではないか。
暗闇の中に浮かび上がる、勉強机の上のデジタル時計に視線をやる。蓄光する文字盤は一時半を示している。京子の部屋に入る前にトイレで見た時計は十二時五十分を指していた。三十分近い間、おれは京子の部屋で微動だにせずくだらない思索に全身を委ねていたというのか。
おれはドアを閉め、京子の部屋をあとにした。そのまま自分の部屋に向かう。目はすっかり暗闇に慣れきっていた。胸騒ぎがした。