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センスなんかいらない  作者: 大宮聖
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うっすらとした孤独

 いつの間にか四時半になっていた。何の変哲もなく、今週の日曜日も終わっていく。机の上のプリントを手でかき分ける。モノクロのテキストに書かれた文字に目が行く――公害総論。おれは過去問を解き始める。

 公害防止管理者資格――高校生が受けるには難易度が高い試験。合格すれば面接などでそれなりに驚いてもらえるらしい。おれが受験するのはダイオキシン類で、公害総論、ダイオキシン類概論、ダイオキシン類特論の三つの分野のすべてで合格すれば、資格が取得できる。

 おれが通っている仁成工業高校では一年の時に五人が受けた。クラス全員が受けさせられる乙種危険物取扱資格と違って、難易度が高く、やや知名度が低いこの資格は希望する数人しかこの資格は受けない。実習の時間の半分がおれたちだけ試験対策に費やされた。おれは特論しか受からなかった。概論には歯が立たなかったが、総論は後一問正解すれば合格だった。

 部分合格の有効期限は三年。一年の時受かった特論が免除になるのは今年まで。去年で概論には受かっていた。三年間受け続けているのはおれだけだった。他の化学科の生徒はすでに、この時期になると就職先が決まっていた。だから、この資格に執着する必要はない。落ちたら落ちたで割り切れる。おれとは違う。

 一人だけ初年で三つとも受かり、資格に合格した。彼は陸上部だった。おれは帰宅部なのに、時間は彼に比べたら有り余っているはずなのに彼に劣っていた。なぜ? どうして? 分からなかった。分かるのは人間には明確な優劣が存在していることだけだった。

 受かっていれば大学の推薦に書けたのに残念だったな――先生はそう言った。そうですね――おれは曖昧な微笑みと無難な返事だけを返した。本当に残念なのは推薦の強みを失ったことでは無かった。


 トイレに行くついでに、京子の部屋を覗いてみる。

 自分の部屋の机に新聞紙を引いて、京子が黙々と絵を描いている。正座をしながら筆を持ち、ひたすら画板を見つめている。京子が絵の具を塗っている画用紙は両手で持ち運ぶのが精一杯なほど、大きい。おれは画板なのかと思い込んでいたが、京子が言うには画用紙に板を水張りしたものらしい。

 美術部の課題作品だが、美術部の活動時間だけでは間に合いそうもないので、わざわざ持ち帰る羽目になったそうだ。

 部活で提出する作品――おれが趣味で書いている落書きのようなそれとは違う、本格的な絵。実際、京子はおれの目から見ても絵が上手だった。絵自体もそうだが、何より色塗りの鮮やかさ、陰影のつけ方が優れていた。おれには京子のようにはできない。京子は絵についての勉強をきちんとしていたからだ。自分からはデッサンの勉強をしているなどと京子は口にしないが、光の加減、線の強弱など、彼女なりの考えに基づいて書かれていることは絵を見たらわかる。

 おれはただ書いているだけ。どこまでも趣味の延長。おれは好きなこと、得意だったことすらも突き詰めて考えることができなかった。

 妹におれが勝っているところは何一つなかった。

 昔はおれの方が絵がうまかった。自分の方が先に始めていたから当然だった。小学校高学年になっておれは絵を書く頻度が落ちた。いつの間にかどうしようもない差がついていた。おれより上手な絵を書く、クラスメイトの小原に向けた感情と同じ。おれは好きなことですら人に劣っていた。趣味をやるときでも劣等感を拗らせることを辞められなかった。ヒーローインサイド、そして妹――おれを取り巻く優れた存在は、いつまでもおれに影を落とし続けさせるのだろう。


 最初に自習を終えた島田がリュックを背負い、ドアを開ける。みなが首を巡らせ、あるいは振り返り、ドアの方を向いて口々に声をかける。

「島田じゃあなー」「お疲れー」「また明日」

「おう」

 教室から島田が出ていく。進学クラス七人全員が居残り――時刻はすでに五時を過ぎていた。今日は八月五日――そろそろ真剣に、受験を視野に入れている時期だ。廊下越しに見える教室はすべて電気が消えていた。

 おれの通っている工業高校では、大半が卒業後就職するため、おれたちのように進学クラスに移って国公立大学を目指す生徒はほんのわずかだった。だから、このクラスには七人しかいない。国公立大学を目指すといっても、工業高校の勉強カリキュラムでは普通科に追いつけないので、ほとんどが推薦狙いだ。建築科の生徒が四人、電気科からの生徒が二人、化学科はおれ一人。

 おれはチャートを閉じた。荷物を鞄に詰めながら、隣で同じように自習する橋本に話しかけようか躊躇する――結局やめた。疚しい気持ちになり窓の外に視線を逃がす。あれほど照りつけていた太陽は姿を失い、藍色が世界を覆っていた。体育館からジャージ姿の学生が出てきて、体育館の下で準備体操をしていた。その隣を、自転車を押しながら校門へ歩いていく生徒たちが横切っていく。

 おれは無言で立ち上がり、ドアに手をかけた。誰もおれの方に顔すら向けない。

 おれはドアを開け、教室を出た。誰も声をかけない。当たり前のこと――それでも、たまらなく何かが喉元にこみ上げた。そのままドアを閉めた――賑やかな会話を遮断した。ドアのレールが擦れる音がやけに冷たく、廊下に響く。

 おれは島田のように気にかけてもらうことはできない。

 進学クラスに入って五か月。ここでも、友達は作れそうになかった。おれは工業四科――電機、建築、機械、化学――の中で、一番成績の低い実技化学科に入学した。

 高校になると、中学校までのように人に馬鹿にされることはなくなった。誰かに露骨に嫌がらせをされることも、じゃれあいと称した暴力もない、平穏な日々。

 普通の日々を手に入れられたように思えた。浮かび上がってくるのはうっすらとした孤独だった。自分を害する出来事が起こらないぶん、毎日の空虚さはより根強くなった。

 環境が変わったことで、中学校までよりも真面目に勉強に取り組んだため、それなりに成績は良かった。中学校では全校生の中でも下位層をうろうろしていたおれだが、仁成工業高校では定期試験でクラスで一桁の順位になることもあった。

 それでも一人ぼっちなのは変わらなかった。二年生で進学クラスへの編入を決めたのは化学科の同級生でおれだけだった。そして三年生で進学クラスに入った。二年生の後期に、進学クラスに進む生徒だけで合同授業をしたときに、応用電気科だった橋本となんとなく喋るようになった。きっかけは、橋本が宿題をするのを忘れていたので、おれがノートを見せてあげて事なきを得たことだった。

 ――宿題ありがとな。何科やっけ?

 ――実技化学科……まあ電気科よりアホなとこだけど。

 ――あーあそこか。

 橋本はおれの卑屈さを気にしたふうもなく、素っ頓狂な声をあげ笑った。

 ――名前はなんていうの。

 ――藤沢隆司。

 ――来年は一緒のクラスやから、よろしくな。ふっじー。

 ――ありがとう。

 その日からたまに一緒に帰るようになった。気の良いやつだった。何よりあだ名でおれのことを呼んでくれたのが嬉しかった。しかし次第によそよそしくなって、今ではほとんど喋らなくなっていた。

 何がいけなかったのか――おれは橋本を極力不快にさせないよう振る舞ってきたはずだった。橋本の不満や愚痴、好きなゲームにはすべて同調していた。話を聞いて同調するばかりで、自分の話はほとんどしなかった。したとしてもどうでもいい、きわめて表面的なものばかりだった。

 それがいけなかったのか。おれは自分自身に焦点を当てる。見えるのは誰にも伝えることの出来ないおれという存在の薄さだけ。

 そんな姿は誰にも見せたくない――見られたくない。そんな思いの何がいけないんだ。人生のどこを切り取ってもあるのは惨めな思い出だけ。それを隠しているだけなのに、そんな生き方しかできないのに、それが自分を守るためのたった一つのやり方なのに、なんでそれさえうまくいかないんだ。

 おれは無難な話しかできない呪いにかかっていた。だからすぐ飽きられ、愛想をつかされる。また一人に戻る。

 誰にも自分を打ち明けないから友達が作れないんだ――声がする。誰にも心を開かない奴に、どうして心を開いてくれると思えるんだ。

 おれに誰かに話して聞かせることが出来ることなんて何もない。何処を切り取っても惨めで弱っちい自分がいるだけ。それを知られるくらいなら、一人でいる方がましだ――おれは声に対して弱々しく否定する。

 じゃあ今のままでいるんだな。一生自分の弱さだけを相手にして、今のまま死ぬまで過ごすんだな――声は容赦なく喚き立てる。

 自分が間違っているのは分かっている。声の言うとおりなのも分かっている。それでも、おれには現状をどうすることも出来ない。

 知られたくないことが多すぎる。知られたくない自分が多すぎる。自分自身は死ぬまでまとわりついて離れない。こんなふうに生まれてきてしまった自分が憎らしくてたまらない。

 おれの前の席で三好と樋口が部活の愚痴を笑いながら喋っている。彼らの笑顔を見るとひどく虚ろな感情が沸き起こる。他人の笑顔を見てそんな思いを抱いてしまう自分が嫌で、気分がますます落ちていく。

 ひとりぼっちが辛いんじゃなくて、みんなの中で自分だけ一人なのが辛いんだ――本音に近い感情に限って声にならない。

まだ事態は進展しません……薄暗い主人公の内面描写に注目していただければ嬉しいです。

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