第八話 『無詠唱魔術習練』
ウルター孤児院という住処を見つけたことで、ひとまずの生活の安全は保障される
ことになった。
というわけで、早速無詠唱魔術の練習を再開することにする。
この孤児院にいる子供達は、自分を含めて全部で十二人だ。
最年長がオレとフィナの二人、その下は十一歳で、最年少が二歳とのことだった。
どうやらこの前まではもう一人いたらしかったのだが、十五歳になって働けるようになったので、この孤児院を離れて一人で自立した生活を送ることにしたらしい。
ニーネを含めて十三人。
そんな大所帯で暮らしていたら、食事の準備や洗濯など出てくる家事の量も半端ない。
よって、午前中は子供達みんなで家事の手伝いをする時間。
それが終わったら昼食まで勉強の時間で、午後は残った家事の手伝いと自由時間という風に決まっていた。
だからといって、このオレに孤児院の家事なんてやっている暇があるわけもない。
レイル・ティエティスを倒すという使命があるし、そのために魔術の技量を磨かなくてはならない。
ましてや、過去視の魔眼の代償で寿命を削ってしまったオレは人より時間が残されていない。
一分一秒も無駄にしている余裕はなかった。
午前中の手伝いの時間に孤児院を抜け出して、外に出ることにする。
人気のない空き地を見つけると、そこで無詠唱身体強化の習得に取り掛かることにした。
無詠唱身体強化は詠唱ありの身体強化と原理はそう変わらない。
身体能力を向上させるという効果は同じであり、こちらの世界の住人が行う詠唱というプロセスを省いただけの魔術である。
どうやら異世界人であるレイルの考察によると、詠唱とは魔術を誰でも簡単に起動できるように一般化されたプログラミングのようなものらしい。
よって、原理的には無詠唱で魔術を発動することも可能で、それに必要なのは魔力を現象に変換するイメージらしい。
身体を一つの物質だと思って、身体強化を発動することにする。
筋線維から関節、血液の流れを想像しながら発動してみるも、身体に変化はない。
試しに近くにあった木を殴ってみるも、拳が痛いだけだった。
「やっぱり、すぐに無詠唱っていうわけにはいかないか」
今度は詠唱ありで身体強化を発動してみることにする。
「豪然になれ、我が主神の与えし肉体よ――身体強化」
今度は当たり前のように身体強化が発動する。
試しに木を殴ってみると、拳を痛めることなく表面が凹ませることができた。
身体強化は二節詠唱に分類される魔術である。
「豪然になれ」と「我が主神の与えし肉体よ」という二節の詠唱+魔術名を口にすることで発動できる。
現在の魔術戦に使われる魔術が基本的に三節詠唱なことを考慮すると、詠唱の長さとしては短い分類の魔術である。
その分詠唱に込められている効果が少ないため、一瞬で解けてしまうという弱点もあった。
身体強化を発動しながら継続して戦おうとすると、ずっと詠唱を口にしながら動かなくてはいけないという、なんともシュールな光景を繰り広げることになる。
「今度はこの感覚をイメージして――」
もう一度木の幹を殴ってみる。
びくともしない。拳が痛いだけだ。
やっぱりただイメージするだけじゃ駄目か。
いくら異世界転生者が無詠唱で魔術を発動できると知っていても、オレはこちらの世界の住人だ。
魔術は詠唱によって発動されるものというイメージがあるし、その固定概念はなかなか取っ払えない。
「豪然になれ、我が主神の与えし肉体よ――身体強化」
もう一度身体強化を発動する。
先ほどと同じ威力で木を揺らすことができた。
当たり前だ。詠唱を口にしたのだから。
やっぱりこのまま漠然とイメージだけで押し通していっても、無詠唱魔術を習得することはなさそうだ。
詠唱は誰もが魔術を発動できるように一般化されたプログラム。
なら、それを利用してみるというのはどうだろうか。
豪然になれ、我が主神の与えし肉体よ――身体強化。
今度は詠唱を口にせず、頭の中で唱えることにする。
もちろん詠唱を頭の中で唱えたところで、こちらの世界の人間は魔術を発動できない。
だけど、異世界の知識によって、世界の物理法則を知った今のオレなら――。
木を殴る。幹の内側が割れる音。
よしっ。身体強化が発動されている。
喜びのつかの間、急に身体を襲う虚脱感。
魔力をごっそりと消費したときの感覚だ。
無詠唱魔術ってこんなに魔力を使うのかよ。
一回の発動で普通の身体強化数十発分の魔力を持っていかれた。
これじゃあ身体強化を無詠唱で発動しながら戦うとなると三十秒も持たない。
完全に割に合わない魔力消費量だ。
これは早急に魔力を増やさないと話にならないな。
単純計算で一日に三十秒しか無詠唱魔術の練習ができないことになってしまう。
そんな練習量で到底レイル・ティエティスに勝てるわけもない。
さらに言うなら、心の中で詠唱を唱えるプロセスも省略できるようにしなければならなかった。
魔術を口に出さないことで事前に何の術式が発動されるか悟られないというメリットはあるものの、無詠唱魔術の利点の一つである即時発動という部分がなくなってしまうことになる。
過去視の魔眼では、レイルが何をイメージして魔術を発動していたかはわからないが、彼は詠唱を知る前から魔術を使えるようになっていた。
ということは、心の中で詠唱を唱えるというプロセスは必須でないということだ。
「まだまだ課題は多いな……」
異世界転生者との魔術能力の格差をまじまじと実感したのであった。
*
無詠唱身体強化の練習によって、魔力を使い果たしたオレは一度孤児院に戻ることにした。
魔力がなくても筋トレやランニングによる体力づくりなど、戦闘能力を向上させる基礎的なトレーニングは行える。
だけど、魔力を失った極度の疲労感に襲われているため、今すぐにやるとなると難しいのが現状だった。
ここは一度休憩を挟んで、体調が戻ってから基礎的なトレーニングを行った方がいいだろう。
そう思って孤児院に戻ると、同じ孤児院の住人であるフィナが廊下に立ちふさがっていた。
「どこ行っていたの? オーラルド」
「どこって外に決まってるだろ?」
「『外に決まってるけど?』じゃない! 手伝いは⁉」
どうやらフィナは家事の手伝いをサボったことに怒っているようだった。
「痛てて。盗賊にボコられたときの傷が……」
「えっ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。これは手伝いできなそうだな」
「ニーねえ呼ぼうか? 治癒術で治してもらおうよ」
「いや、心配いらない。手伝いさえしなければ、悪化しないタイプの傷だから」
「それってサボりたいだけじゃん! 心配して損した!」
フィナはプンプンと顔を赤くさせながら、顔を背ける。
お怒りの気持ちを声に乗せたまま、彼女は言った。
「もう今日はいいよ。手伝い全部終わっちゃったから。で、今は勉強の時間だから。オーラルドもちゃんと机に向かって勉強して」
これはウルター孤児院に見られる独特の方針だろう。
どうやらニーネはここの子供達が社会に出たときに困らないように、算術や一般常識などを勉強させているようだった。
この世界には義務教育なんていうものはない。
基本的に貴族やある一定以上の財産がある一般市民なら子供を学校に行かせられるが、貧しい市民や田舎の農村の住人は、子供に教育を受けさせることもできないでいた。
おそらくニーネはいいところの出身の人間だ。
少なくともこの貧民街で生まれ育った人間ではないはず。
そもそも治癒術なんて代物はただの一般市民が学べるようなものではないのだ。
専門的な教育が必要であり、恵まれた環境がないと身につけることができない。
きっとニーネは教育の重要性を知っているからこそ、この孤児院の子供達に勉強させているのだろう。
居間に戻ってみると、子供達は教本とにらめっこしていた。
足し算や引き算といった初歩的な算術を学んでいる子もいれば、小学生にもならないような子は生き物の図鑑や百科事典に近いものを読んでいた。
上級生の子が小さな子に教えている光景もある。
どうやらここでの先生はニーネだけじゃないらしい。
ここにいる子供は生徒であり、先生でもあるということだろう。
フィナが座っている席に目を向ける。
机の上に開かれていたのは魔術戦に用いられる魔術が記載されている教本であった。
「魔術戦を勉強しているのか?」
フィナの他に魔術戦の教本を開いている生徒はいない。
一般的な生活魔法などが書かれた教本を読んでいる子供はいるが、戦いに使う魔術を学んでいる子供は見かけなかった。
「うん。ニーねえがね、魔術戦の才能があるから勉強した方がいいって、買ってくれたの。魔術が載った本は高くて、これ一冊しか買えなかったみたいだけど、だから繰り返して勉強しているんだ」
本を手に取って表紙を眺める。
これは確かそれなりの数の魔術が載っているとともに、初心者にもわかりやすい発動方法の解説が書いてある教本だったはずだ。
これ一冊を完璧にマスターすれば魔術の発動方法の基礎はすべて出来上がるとも言われるほどの評判の本。
オースティン家の財とコネによって、オレには一流の専属指導者が雇われていたため、読んだことはなかったが、それでも名前くらいは知っていた。
ニーネの教本選びはベストとも言えるだろう。
「それにね。ニーねえは十五歳になったら、私を魔術の学校に入れてくれようとしているみたいなの。お金がかかるからいいって言ったんだけどね。その才能は活かさなくちゃ駄目だって。だから、頑張って魔術の勉強をして、すごい魔術戦魔術師になって恩返しがしたいんだ」
この世界の人間は他者を傷つけるための魔法を会得しているが、年がら年中戦いや戦争に明け暮れているというわけじゃない。
むしろ、人間同士の命をやり取りする戦闘は法で禁じられている。
そのためこの世界の人間は、魔術での戦いをスポーツのような興行的な催しとして開催していた。
一般的に魔術戦魔導師と言われる魔術師は、興行的に魔術での戦いを行う者のことを差す。
致命傷が無効化される術式が付与されたフィールド内で、命のやり取りなしに観客の前で戦いを繰り広げる職業。
向こうの世界と違って娯楽が少ないこちらの世界では、魔術戦の試合は民衆に圧倒的な人気を誇る興行となっており、人々の羨望的な眼差しを受ける立場であった。
また国が抱える魔術戦魔導師の強さは、国の軍事力を反映されると言われている。
そのため国も魔術戦魔導師育成に力を入れており、魔術戦魔導師になることが出来れば得られる特権も多かった。
国家予算やその他スポンサーなど様々な金も動き、トップクラスの魔術戦魔術師となれば一年で億を超える大金を稼ぐことができた。
フィナが言っているのも、そういった興行的な試合を行う魔術戦魔導師のことだろう。
もしフィナが一流の魔術戦魔術師になることができれば、この貧しいウルター孤児院を瞬く間に裕福にすることが可能である。
「まあ、頑張れよ」
目をキラキラさせるフィナを横目に話を打ち切ろうとすると、服の袖を掴まれる。
「待ちなよ。勉強は?」
「勉強?」
「当たり前でしょ。勉強の時間なんだから。オーラルドもしなくちゃ駄目でしょ」
「って、言われてもな……」
貴族として学校に通っていたため、一般的な教養は身についている。
それに藤村冬尊のいた世界の知識も持っているのだ。
孤児院の限られた蔵書で新しく得られる知識なんてないに等しかった。
「良かったら、この本貸してあげようか。わからないところあったら、私が教えてあげるよ」
「いらん」
「なんで! 酷い!」
こちらは専属の講師を雇っていたような教育環境にあったのだ。
魔術についても同じこと。
確かにこの本は良い教本だが、新しく得られる知識もないだろう。
そもそもオレはこの世界の常識から外れた魔術を扱う異世界転生者と戦わなくてはいけない。
今さら詠唱魔術の基礎を学んだところで、大した意味があるように思えなかった。
「駄目だよ! 勉強サボっちゃ! 将来のためにならないよ!」
「それもそうだが……」
確かに魔術戦において座学は重要だ。
貴族時代の教育環境が万全だった頃のオレでも、魔術における習練の時間の半分くらいは学習に割り振っていた。
魔術の詠唱や発動方法を覚えるのはもちろんのこと、他の魔導師の戦術などについても研究は必要だ。
幸いなことにこの世界にも高価だが、ビデオカメラのような魔道具の映像記録装置がある。
有名な魔術戦の試合は公式的に動画として残っていたり、そうでなくても観客によって記録に残されていることが多かった。
向こうの世界のプロスポーツ選手が他の選手のプレーを見て動きや対策を研究するの同様、魔術戦魔導師も他の魔導師の戦いを観て研究を行うものだ。
かく言うオレも一流の魔術戦魔導師の戦いが記録された映像を観て、それを参考に魔術戦を上達させていった。
オレの貴族時代の散財の約三分の二は、この魔術戦の研究費やされていたといってもいいだろう。
ビデオカメラ型魔道具自体が高価なせいで、魔術戦の動画も高いんだよな。
マイナーな試合の動画でも何万かするし、需要が高い試合だと十万を超えるものも珍しくない。
それを何百試合って買いあさっていたのだから、桁違いの金額にもなるのも当然だ。
合計で何億セスくらい使ったんだろう……。
そんなオレの魔術戦オタクぶりはともかくとして、魔術の座学ができないというのは対異世界転生者戦においても痛手だ。
オレは決して自分で魔術や戦法を開発できるような独創性のあるタイプじゃない。
どちらかというと、他人が開発した優秀な魔術や戦法を高いレベルで再現して戦うタイプの魔術師だ。
よってレイルを倒すにも彼自身の戦法を真似たり、この世界の魔術師が扱う戦法からインスピレーションを得ていく方向性になる。
今のオレがレイルに勝っているものが唯一あるとすれば、それはこの世界での魔術戦のオタク的な知識にほかならない。
だけど、その優位性も金がなくて、魔術戦の知識を手に入れられてない今の状況じゃ失われつつあった。
「ここで勉強できるようなこと……」
魔力を使い果たした今、実践的な習練はできない。
肉体的なトレーニングだって体力に限界はあるため、それこそ魔力や体力的なリソースを使わない座学のようなものを欲していた。
「あっ、あるじゃん」
ふと、良さそうな案が頭に浮かぶ。
この孤児院でも学ぶことのできる知識。
直接魔術戦には活かされないだろうが、それでも全く意味がないということはないはずだ。
少なくともレイルにはないアドバンテージを築くことができるかもしれない。
「わかった。勉強するから、ニーネにちょっと頼みごとしていい?」
「いいけど、本とかねだらないようにしてね。優しいから買ってくれるかもしれないけど、うちってあんまりお金ないから」
「大丈夫。予想が正しければ、お金はかからないはずだから」
ニーネのことを呼ぶ。
彼女はオレとフィナの下へ笑顔でやってきた。
「どうしたの?」
「なんか、オーラルドが頼みごとあるんだって」
「何? オーくんの頼みとあれば、お姉ちゃん一肌脱いじゃうから」
「じゃあ、治癒術の本を貸してくれないか? できれば概論が書かれているやつ。なければ専門なものでもいい」
治癒術。それはレイルも専門外の魔術だ。
そもそも治癒術は、魔術戦で用いる魔術とはまったく系統が違うものである。
両者を極めるとなると莫大な時間と労力が必要になり、結局どっちつかずということになってしまうことが多いのだ。
かく言う、レイルも戦いに特化した魔導師である。
彼も治癒術を学ぼうとしたことはあったのだけど、彼の周りに指導者となり得る治癒術師がいなかったため、習得することを諦めたという隠れた経緯があった。
とはいっても、何故か独学で詠唱ありなら簡易的な治癒術を行使できるところまではいったんだけどな。
なんとも意味不明なチート的能力である。
「えっ、治癒術に興味持ってくれたの⁉」
ニーネは跳ねるような声をあげる。
「嬉しい! 難しそうって敬遠してばっかりの子しかいなかったから! いいよ、あたしが勉強に使った本がたくさんあるからね。いくらでも貸してあげる」
「それなら助かる」
「というか、あたしが色々教えてあげるよ!」
「いや、そこまではいい。わからないところがあったら、訊くくらいはするかもしれないけど」
「遠慮しなくていいよ。だって、治癒術師になってくれるんでしょ? オーくんが人助けしたいって思ってくれて嬉しいもん」
「なんか勘違いしていないか?」
オレは一つ訂正することにした。
「確かに治癒術の知識については興味があるが、実際に練習したりはしないし、治癒術師になるつもりもないぞ」
「そうなの⁉」
当たり前だ。治癒術の行使には決して少なくない量の魔力を消費する。
ただでさえ魔力不足で無詠唱魔術の練習が滞っている状態。
限られた魔力というリソースを治癒術に割り振っている余裕はなかった。
そもそもの話、他人を癒す魔術でレイルをぶちのめすことはできないだろう。
奴を倒すためには魔術戦の技術、さらに言うなら無詠唱魔術の習得が必須であった。
治癒術の知識を学ぼうとしているのも、魔術戦の勉強ができない現状況での妥協案に過ぎない。
後々魔力量が増えて、魔力のリソースを気にしなくても良くなったら、習得に向けて動き出す可能性はあるけれど。
「なんか残念……。でも、興味は持ってくれたってことは、少しは可能性があるってことだよね? 治癒術師になって人助けをしてくれる可能性も」
「まあ、それはほとんどないと思うけどな」
「今はそれでいいよ。とにかく教えてあげるから待ってて。今、部屋にある本全部持ってくるから」
「一気に全部は読めないから、習い始めに良さそうな本を一つ見繕ってくれ」
ご機嫌な様子で自分の部屋へと駆けていくニーネの背中に、そんな言葉を投げかけるのであった。




