平等を愛する悪魔
むかしむかしのこと。
深い森の奥の、暗い暗い沼地に、1匹の悪魔が住んでいました。
悪魔は愚かな人間が大好きでした。人がもがき苦しむ姿を眺めることが、何よりの生き甲斐としていました。
だからといって、むやみやたらに自慢の爪を振り回したり、ましてや三本槍で人を串刺しになんてしません。
悪魔は人の願いを聞いてあげるのです。愚かな願いを叶えてあげては、必ず当価値の絶望を与えるのです。
そして今日もまた、若い男が1人、神様がそっぽを向くような身勝手な願いのために、深い森の奥まで、悪魔を訪ねるのでした。
男はいいます。どうかある女を、この世で一番不幸にしてほしいと。
男は語り出します。
「あの女は私の両親を殺しました。幼い妹までを殺しました。
十年前のあの日、街の寄宿舎いる僕を慰安するため、両親と妹は馬車を走らせていた。
1人助かった御者が言うには、山道であの女の子が急に飛び出して来たそうです。
驚いた馬が足を絡ませ、そのまま崖へと転落したそうです。
ええ、分かっています。あの子に悪意はありません。誰が見ても事故として、現にあの子は罪を償いました。
鞭打ち一回。
それがあの子に課せられた罰です。
両親と妹の命は、たった鞭打ち一回の罪と等価値だと言うのですよ。そんな馬鹿な話がありますか!
この十年、必死で彼女を許そうと努力しました。
教会にも通った、懺悔だってした。
それでも、僕の心で燃え盛る怒りの業火は、一向に燻る気配を見せない。
それどころか、あの女が結婚すると知ってからと言うもの、銃を握り締めたくなる衝動を、どうしても抑えきれやしないのです」
悪魔は同情なんてこれっぽっちもせずに、嬉しそうに男の話を聞いていました。
一通り男の話を聞き終えた後、悪魔はゆっくりと頷きました。
「お前の願い、叶えてやろう。
しかしだ、見返りとして、お前は私に何をくれる?」
「すべて差し出します。田舎貴族ではありますが、城も、土地も、私の持つ全て差し上げましょう」
それを聞くなり、悪魔は森中の鳥たちが一斉に逃げ出すほど大きな声で、ゲラゲラと醜悪な笑い声をあげました。
「城も土地も、悪魔には不要だよ。
ただし、なんでもと言うなら、その怒りの業火を頂こうか。
訊くが、お前の中の炎が消えたなら、お前は女の罪を許して、女を祝福してやるのか?」
男は少し考え、覚悟を決めて首を振りました。
「妹は幼くして殺されました。
同じ年頃であったあの女だけ、どうして祝福できましょうか。
罪には正しき罰が必要なのです。故に、あの女は不幸にならなければならないのです。
そうでなければ、死んだ両親が、何よりも妹が報われない」
「それなら城で待つがいい。やがて願いは叶うだろうよ」
森を抜けて帰路につき、男は城で何日も待ちました。
やがて嵐の晩に、あの女が訪ねて来ました。
「婚約は破棄させていただきました。
これからの人生はあなたに捧げます。
気に入れば愛人に、鼻につくなら召使いに、憎いと言うなら奴隷となりましょう。
どうかお側で、償いの機会をお与えください」
ははあ、あの悪魔め、この女の不幸を特等席で見せてくれるつもりか。
男はそう思い、悪魔の粋な計らいに満足しました。
しかし、それから日ばかりが過ぎても、女は一向に不幸になりません。
これはどうしたものか、男は腹を立てて、もう一度、深い森へと、悪魔に会いに行きました。
男の不満を聞いた悪魔は、あの時と同じく、いえ、あの時以上に醜悪な笑い声をあげました。
「あの女は世界一不幸になるさ。他でもない、お前の手でな。
鞭打ち一回が少ないと言うなら、毎夜何度でも痛めつけるがいい」
それを聞いた男は仰天し、腰を抜かしました。
「し、しかし、私にはもはや、怒りの業火を心に宿していない。
他でもない、あなたが私から奪ったのだ。
そんな私が、いったいどうやって、彼女を裁くと言うのか」
「『正しき罰』のためだろう?『両親』と『妹』が報われるためだろう?
そう言ったのは、お前ではないか。
私は確かに、お前から怒りを奪った。別に魔法でお前の心を水浸しにした訳ではない。
お前の怒りの源は、無知だ。知らないからこそ、十年もの間、お前は女を恨み続けられたのだ。
だから教えてやったのさ、あの女を近くに置くことで、嫌と言うほど、あの女の存在を。
もう一度訊ねてみることにしよう。
お前の中の炎が消えたなら、お前は女の罪を許して、女を祝福してやるのか?」
男は考えます。深く深く考え、それでも首を横に振りました。
「罪は、正しく罰せられなければならない」
悪魔に背を向けた男に、悪魔は語り出します。
まるで天使のように、穏やかで慈しむように。
「あの女の幸福も無知からくるものだった。
だから私が教えてやったのさ。
お前を十年恨む者がいること。正しき罰を望んでいること。
そして言ってやったのさ。罪を償わないまま、お前だけが幸せになるのかと」
男の背中が小さくなるまで、悪魔はいつまでも見送ります。
本当に愚かな人間とは、幸せになることを放棄した者だと、悪魔は知っているからです。
世界でもっとも歪んだ2人を、悪魔はいつまでも見守るのでした。