1
書類の束を眺める――リーヴィスウィルは胸ポケットに手を入れ、小さなメガネを取り出した。
年は取りたくないものだ。
彼女はそう嘯き、実際には年など関係なく、彼女は目が良すぎるために、近くの物が良く見えない。
所謂遠視と呼ばれるものだ。
リーヴィス、グッドマン、ウィル、コンスタンス。
グッドマン家のリーヴィスというのが彼女の本当の名だ。
グッドマンは数十年前、聖王国としてこの地を治めていた貴族の名で、聖王国との小競り合いにサクシアが勝利し、この地を治めることとなった。
サクシアに差し出された――とも言える。
グッドマン家の評判は悪かったが、薬を開発したことにより金を手にし、その金が元で王侯貴族と揉め、サクシアにより占領される運びとなる。
魔術、ホムンクルスを生み出した聖王国にとって薬剤などの科学という分野が邪魔だったとも言われている。実際には国の力を削ぐためにリリアーヌにより差し出されたものである。
現在旧グッドマン家は解体され、グッドマン辺境伯人と名を改めている。
ベルモッティの街において製薬会社を起こし、錠剤などの薬を製造した。
グッドマン家の象徴は剣であり、昔、この地を訪れた乙女より剣と薬学の知識を与えられたと言われている。
現在製造されている錠剤も、その時に得た薬学の知識を元に製造されたものだ。
本来の薬剤の名をスライム薬というらしい。
ウィルは貴族の出だが、実家をあまり好いていない。
嫁入りが嫌で家を飛び出した達だ。それ以外にも色々と嫌いなものがある。彼女の正義感が家の因縁を嫌がった。
彼女のハンドガンの腕は確かなもので、新兵から半年足らずで隊長にまで上り詰めるに至る。
そんなウィルは、書類に目を通しながら、昨日通した人物のパーソナルデーターを眺めていた。
この国には色々な人間が来るが、大抵の人間は素行がよろしくない。
特にお隣のオーギュスターの治安は悪く、連日国境を超えて民が侵入してくるのには辟易としていた。
この国にはまだ余裕がある――余裕はあるが、全ての亡命者を受け入れていたのでは隣国の不信を招く。
また入国者のほとんどはサクシアの制度に馴染めず、犯罪を重ね追放となる。
追放となった者が再びこの国の領土に足を踏み入れるのをサクシアは許さない。
追放された者はテロリストとなり、国の周辺をうろついてすらいる。
「ふーん」
書類の文面に彼女は考えあぐねていた。
模範的な姉にギフテッドの姉妹――試験の成績を見るに、姉のタチアナは凡人で、妹のラファとクトゥーナの理解力は天才的だと言える。
ただモラル面では別だ。
大切な人と他五人、助かるとしたらどちらかという問いに、ラファもクトゥーナも大切な人と答えているが、タチアナだけは他五人と答えている。
その答えが、他五人を殺せば、大切な人は自分のために五人死んだと嘆き続けるだろう、それならば大切な人を一人殺し、自分一人が傷ついた方が良い、と返している。
この解答はマリア達に非常に好まれた。
しかしタチアナが土壇場でこの決断をできるかどうかは別だ。
きれいごとなど誰でも言える。
聖王国の人間でこのように答えられる人間がいるなんて。
もともとこのサクシアと言う国は、国家ドミナスの一部だったという。
何百年も前の話だ。
世界に魔人が溢れ、国家ドミナスは再起不能なほどのダメージを受けた。
どさくさに紛れて身を潜めていた王権が復活し、王の統括の元、聖王国が生まれる。
もともと象徴となる人物はいたのだ。
聖女――なんて。
皇女――なんて。
それだけならばよかったのだが、王は身分制度を復活させ、反発した民衆が散り散りに国を出た。
逃げて来た人々は、聖王国の手を逃れ、荒れた土地に集落を作った。
しかしこの地は人が生きるには厳しすぎる。
生まれた六つの集落、その代表は話し合い、竜に助けを求めた。
銀糸竜サクシア。
人々は銀糸竜に頭を垂れ、銀糸竜はそれに答えた。
現在も銀糸竜サクシアは健在であり、国の根幹をなしている。
国母サクシアの隣には国姫(公姫)竜陽が、六つの集落の代表はそのまま人々をまとめる役を担い聖王国とは異なった制度が生まれた。
この国の貴族とは、人々をまとめる役割を担った人々の事を言う。
この国の貴族の事を貴人と呼び、六つの集落、土地は六つの皇人に治められ、その下にさらに階級が作られ、公人、伯人、子人等と呼ばれた。
このすべては土地によるものではなく、人々をまとめ管理するために作られたものだ。
そして六つの貴人より一人の皇人を選び主上とし、代々の国家を成す。
サクシアは娘を作り、人々を助け荒れた土地を切り開き、竜陽は皇人達と国の制度を設けた。
女性が一人やって来て、テーブルへとコップを置く。
国境警備隊アセリアノルヴァーン。通称アセリアは、トレイを抱えてウィルの傍に佇んだ。
小柄でオレンジに近い黄色のまん丸な目、童顔で十代に見られがちな彼女だが、二十歳を超えていた。
アセリアにとってウィルは憧れの存在だ。
綺麗な黒髪をテールにまとめ、ウィルはテーブルの上のコップに目を移した。
ゆらゆらと揺れる温かそうな飲み物。
中の黒い飲み物はコーフィと言う。
竜陽が母を思い作った飲み物なのだそうだ。
「ありがとう、アリセア」
「いえ、遅くまで大変ですね」
「本当は帰って寝てもいいのだけれど、家が寒くてね」
「ふふっそうなんですか。恋人はいないのですか?」
「仕事が恋人って奴。それより、昨日入ってきた女性三人だけれど、どう思う?」
「そうですね。奴隷にしては随分と礼儀正しいと思いました。言葉使いも丁寧ですし。ただスパイとか間者とかそう言った感じには見えませんでしたけれど。実際どうなのですか? 血は繋がっているようには見えませんでしたけれど」
「血は繋がってないよ。本人たちが言っていたからね」
聖王国の兵士や暗殺者が森をうろついているという情報は入ってきている。
なんでも隣国の大公爵の娘が追われているのだとか。
詳しい内容を知っているわけではないが、ろくな話でないのはウィルにもわかる。
正直言って迷惑だ。
そうは言いつつも、昨日の三人がもしかしたらそうなのではと疑念を抱いている。
ではあの中で、誰が大公の娘か、という話になってくる。
姉のタチアナの様子を見るに、クトゥーナという少女を自らより優先していることから、クトゥーナではないかと思われる。
しかしクトゥーナには聖王国特有の奴隷紋があり――考えれば考えるほど思考は錯綜するばかりだ。
指に付けている指輪より、大公には娘がいたが、奴隷にされ、忠誠心の高い使用人と護衛を連れ国外へ逃亡したともとれる。
逃亡中に奴隷のクトゥーナに出会い、このままではひどい目に合うと連れて来たという線も捨てきれない。
変に気品のあるラファが娘であるという線もあるが、ウィルはその線が一番確率の低いものだと思っていた。
なぜならタチアナもクトゥーナも、ラファの心配を一切していないからだ。
ラファが相当に腕の立つ人物であるのはウィルから見ても間違えはない。
ラファの薄小麦色の肌を見ると、まさか伝説のエルフでもあるまいにとウィルは薄く笑みを浮かべてしまった。
国サクシアにとってエルフは存在する伝説の生き物ということになっている。
人と似て人と異なる。
神に作られたという均等のとれた美しい容姿を持ち、一人で国家を滅ぼすほどの力を有するという、森に住む伝説の種族。
一度はお目にかかりたいものだとウィルも思ってはおり、何度か旅に出たが、不発に終わっていた。
「一番上のタチアナさんは家族思いですよね。クトゥーナちゃんがどうしても離れたくないからというだけで、わざわざ中等部にいますし、ラファさんも別クラスなのをサボって見守っていたとか」
マリアより提出された書類にも書いてある。
マリアというのはサクシアの娘たちの総称で、銀髪銀眼の少女たちを指す。本来はマーリア、トリコなどと呼ばれていたが、現在ではマリアで統一されていた。
タチアナが一番不明だ。
際立った二人が目立ち、タチアナという人物を隠しているようにも見える。
しかし、あの二人を仕切っているのはタチアナであり、またクトゥーナもラファもタチアナによく懐いている節がある。
マリアの観察眼によれば相当仲睦まじいとのこと。
うらやましい限りだとウィルは思った。
「私に一杯、貴方に一杯、そして国母様に一杯を」
私とはウィル、貴方とは入れてくれたアセリアの事。
ウィルはそう言い、アセリアの入れてくれたコーフィで喉を潤した。
もしかしたらタチアナが大公の娘なのかもしれないと……。
この国においてもっとも必要なものは優秀な市民ではない。
マリア達は十分に優秀であり、一部の優秀な者がいれば、他にはもう必要ないからだ。
この国の土地は個人の物ではない。
全ての土地は、国母サクシアの物だ。
少量の不自由でパンケーキにありつける。
この国はそう言う国だ。
過ぎた技術も、思想も、この国にはいらない。
ルールを受け付けないものはいらない。
この国に必要なのは、〇〇〇だけなのだ。
潤沢な食料と物資を誇るからこそできる芸当であり、他国が羨んでやまない。
こくりと一口飲み込んで。
幸せな吐息を一口。
たっぷりの余韻を一口。
流れる少量の塩気は、舌を潤し胃に染みる。
このコーフィという飲み物は、やはり嗜好品だなとウィルは思った。
書類の審査はAAA判定。
AAA判定だ。
スパイなら取り込むまで、間者なら取り込むまで。
「久しぶりに、いい子たちがきた」
ウィルは書類の内容に満足げな笑みを浮かべた。