⑪
「変だよね。変なの、わかってる。軽蔑した?」
小声、そのかすれた声が耳に吸い込まれていく。
「……いいえ? どうしたの?」
事態自身の答えにははいともいいえともいえず、はいと言った時に、冗談だと言われれば恥ずかしくなるのが目に見え、いいえと言えないのはこの事態が忌諱するものではなく、むしろ俺にとって好意的な事態であることを示唆している。
浅ましい。
「怖いの。今日みたいなことがあって、知らない、誰かに襲われて、初めて、だから。それってずっと記憶に残ると思って、それが、怖くて。吊るされた時、本当は怖くて、おもらしもしてて」
右手でエリシアの頭を抱えて鎖骨に押し付ける。後頭部と髪をゆっくり撫でで、包み込み、守るように、涙がでそうになってしまった。
そりゃ怖いよな。
男は女の初めてになりたがり、女は男の最後になりたがるというセリフを聞いたことがある。女性は男ほど初めてを気にしないと聞いたけれど、俺は女性じゃないので人それぞれだろうなとは思う。
「変な子だと思った? でも、タチアナにお願いしたくて……やっぱり、変? 嫌? 気持ち悪い?」
ここで拒否したのなら、エリシアが距離をとってしまうのではないかと考えてしまった。その距離は致命的で、エリシアを傷つけてしまう。俺には満たされない。そうなったのならエリシアは別の誰かを探すかもしれない。
「嫌? だよね……」
エリシアの頭に唇を付け離し、目を見る。
「おねがい……」
エリシアに見つめられて、手を掴まれて――テリトリーを広げて背後のトゥーナを確認する。子供には決して見せてはいけない面だと。ラファにはおそらくバレているだろうが、怒らないだろうかと、少し不安に思ってしまう。これで俺が消される可能性はない、とは言えない。
「気持ち悪くない。私は嫌ではないけれど」
いや、無理だわ。いい年したおっさんなんだよ。俺はよ。
エリシアの頭を撫でる。
据え膳食わぬは男の恥とは言うけれど、据え膳食うは一生の恥だと思っている。
つうか手を出したら殺される。
ロレーナに対して拒否を示した自分が懐かしく、エリシアに対しても拒否反応は出ていた。これ以上にはならない。ここが線引きで、もっともエリシアは現在正常な思考状態ではなく、これ以上は求めてもこないだろう。いつか、このことを恥じだと思い、俺を忌諱するかもしれない。
いざとなったら俺が男であることをばらしてビンタの一発でも貰う覚悟はある。
つうか普通に無理なんだよ。手を出したらいよいよ気持ち悪い。俺が。
もう女性には縁が無い。来世に期待したいところだが、もう来世も来そうにない。
他人が見てもきっと気持ち悪いと思うはずだ。つうかすでに気持ち悪い。俺が。
こんなおっさんがさ、いい年して、女のふりをしている。それだけで気持ち悪いと思わないか。俺は思う。元の容姿は普通におっさんだからな。
俺がいい年したおっさんで、本当はこんな気持ち悪い奴なんだって知った上で良いって言ってくれるならあり。それ以下は無し。今更ながらこの容姿が恨めしいよ。受け入れるしかないけれど。
どう断れば良いものか。
エリシアの頭を胸に抱きしめる。普通に考えて、俺にとって十代の女性をこうして甘えさせるだけでも幸運が過ぎている。こんな経験はもう二度と無いだろう。それだけで十分すぎる。慰めはする。でも一時のヤドリギに過ぎないんだよ。
「そんなやけにならないで。いつか、大事な人ができるから」
「やっぱり……気持ち悪いって思った? 嫌いになった?」
思ってねぇよ。二回も強姦されそうになったら恐怖を感じるだろう。
胸から顔を離させ、エリシアの目を見る。
「エリシア。自分を大切にして。私もできる限り貴方を守るから」
「……怖い。怖いの」
エリシアはまた俺の胸に顔を埋めて来た。
「お願い、タチアナ。吹っ切りたいの。お願い。こんなこと、タチアナにしか頼めない。お願い」
いや無理なんだって。かと言って、俺の正体をバラすわけにはいかない。それが許されるのはトゥーナだけだ。トゥーナだけが俺を裏切っていい。これだけは変えられない。
どうしたものか。
「エリシア……。ではこれを聞いて、それでもまだ決心が揺らがないというのであれば。そうですね……」
できないとは言えない。それはエリシアを拒絶してしまう。いや、拒絶していいのではないか。それで離れるのであれば、それでいいのではないか。
エリシアを拒絶したのなら、その先でエリシアがひどい目にあったのなら、エリーを連れて離れ、何処かで傷ついたのなら、俺の心はひどく傷むだろう。痛むのだろうな。
だから人は嫌いなんだ。結局傷つくのは俺だ。進めば地獄、戻れば針のむしろだ。
それに俺自身が、これを断りたくないと思っている。これが一番多くて、大嫌いだ。それを俺がどんなに否定しても、胸の中にある好意が変わらないのが何よりもきつく気持ち悪い。それを必死に拒絶しようとしても俺をグイグイと押して来る。
「はい……」
「エリーと生き別れたと仮定します。そうですね十年ぶりに再会したとします。その先でエリーが犯罪をし……ふうぅぅ。エリシア、貴方がエリーを庇ったとしま、す。私は貴方を裁く側の人間です。貴方はエリーを庇うでしょう。そうしたら私は、エリーをめちゃくちゃに拷問すると貴方を脅すでしょう。私はそういう人間です。……はぁ。エリシア、私は貴方が思っているような人間ではありません。この血はドロドロと流れ、獣が住んでいます。貴方は私に懇願するでしょうね。エリーにひどい事をしないで、するなら私にと、そう言うでしょうね。それを見て、私は心の底から貴方を憎みます。私はそういう人間です」
「でも、ひどいことなんてしないのでしょう?
「それは……」
エリーが何の罪を犯そうと、公正に裁かれるべきで拷問などできるはずもない。つうか心情的にも無理。
「タチアナは意外と独占欲が強いのね」
肯定したくないが、否定もできない。
「タチアナが私を嫌いじゃないのが良く分かった。きっとタチアナには沢山の隠し事があるのだと思う。それは私が思ったよりもひどいのかもしれない」
何も言えねぇ。実はおっさんなんだ俺って奴は。つうか別に大したことないかもしれない。この秘密は。
「タチアナも、怖いのですね」
「そうですね。きっとエリシアに伝えてしまえば、私はエリシアに嫌われてしまうでしょう。頬を叩かれてしまうかもしれません。私が嫌なのは結局私が傷つくことなのです。傷つきたくない。それだけです。傷つくたくない。これが私の根幹です」
入浴したしな。一緒に。しかも女子トイレに入っているしな。もう最低なんだ。笑えねぇ。真面目に考えると心の底から寒くなり、もう引きこもりたい衝動に駆られる。いっそうこのまま女性ということにならないだろうか。ならないか、そうですか。
「私に嫌われるのが、怖いんだ」
「それは……」
おっさんなのに女性のふりをした男として後世に名前を残すかもしれない。残さないか。いっそう牢屋にぶちこまれてこの罪を清算したい。
エリシアが俺の手を掴んで来た。
「怖いというよりは、心配なのです」
「大丈夫です」
いや、大丈夫じゃねーんだって。
やめてよ。おっさんなの。そんな目で見るのやめてよ。
掴まれた手を振りほどけそうにない。犯罪なの。犯罪。犯罪だってば。
「タチアナ、可愛い」
ひえっ――サブイボが。震えている間に手を誘導されてしまう。いや、ちょっと、ちょっとまって。
「ここですよ」
いや、やめてよ。やめたげて。
「ここです」
エリシアが笑うのが視界の端に見えた。
「ごめんね、タチアナ。タチアナの優しさに付け込んで」
ため息を押し殺す――。
「後悔しますよ」
「たぶん、うん、すると思う。でもたぶん、それよりも、今ここでタチアナと一緒にいることを、良かったと、思うと思う」
拒否はできない。
「一つ約束してくれますか?」
「うん」
「例え汚れても、例え穢れても、貴方はやり直すことができる。自分を卑下しないで、どんな状況になったとしても、貴方次第でやり直すことは十分にできる。それを忘れないで」
「うん……。ありがとうタチアナ」
その夜、みんなに会う夢を見た。
守男がいて、DKがいて、ハルポンがいて、俺は泣きべそをかきながら、何処行ってたんだよ。ずっと心配してたんだぞって、急にいなくなってさ。お前らはいいかもしれないけど、俺は悲しかったんだって。苦しかったって。辛かったって。そう言ったら、こう言われた。
何処にいても、離れていても、見る空が違っても、思っているって、ずっと一緒だって。
国は違っても、友達だって。
うるせぇ、そんなことより抱きしめろよ。ふざけろよ、お前らがいなくなって俺は悲しいし辛いんだよ。いいから抱きしめろよ。
そう言ったら、みんな笑っていて。
笑ってんじゃねーよってキレて。
俺だってお前に会いたいよ。
守男にそう言われて、おめぇには会いたくねぇって言ったら殴られたところで目が覚めた。
目が覚めたら少しだけ涙が目に溜まっていて、でもそれは流れたりしなかった。
こんな夢を見るなんてと少しため息が出た。夢とは言え、本音だったのかもしれない。俺が望んだ形なのかもしれない。
あいつらがこんな事を言うわけがないとは言わない。けれど、俺にとって都合が良すぎるのも確かで、最後のセリフ、なんで守男なんだよって少し笑ってしまった。
ハルポンやDKに言われた方が嬉しいっつーの。
ラファがそんな俺の顔を覗き込んでいて、お腹の上にはいつの間にかトゥーナがうつ伏せになり、隣にはエリシア。
トゥーナの頭に右……左手を伸ばして頭を撫でる。腕の毛を甲で撫でると癒される。
手が伸びて来て、目元を拭われる。
「ばーか」
そう言われて、右手でラファの手に触れようとすると、右手の手首を握られ、じっと眺められてしまった。
仕方ないだろうと――少しばかり香るヨーグルトのような匂いに混ざる酸味系の匂い。匂いを嗅いだ瞬間一瞬で、体が――。
ラファはそんな俺を眺め、ため息を――掴んだ手にフッと息を吹きかけて。
また一瞬で匂いが消えて。
「あんまり変な事はするなよ」
そう言われ、頬を撫でられた。子供扱いかよとは思ったが、コイツにしたら、俺も子供なのかもしれない。
悪いことをしたわけではないけれど、拒否しなかったのも確かだ。何も言えない。肯定も否定もできない。エリシアに自分が男だと告げることは絶対にできない。ショックを受けたエリシアがそのことを職員に話せば、俺の行動には制限がかかる可能性、又は国に居づらくなる可能性がでてくる。またトゥーナの事を考えればトゥーナと離れるのは得策ではない。
それをトゥーナのためとは言うなよ――それに加え、エリシアのいう事を聞かないという選択肢もない。
エリシアは俺に甘えたかったわけではない。頭を胸の中に包み込み、よしよしと頭を撫でたのでは彼女の感情を発散することはできなかっただろう。
俺で欲求が満たされないのなら、他の誰に求めるかもしれない。
それはエリシアの勝手だが、エリィの今後も考えれば現状ではこれが一番良いと思ってしまった。
朝が来て、上半身を起こすとトゥーナも起きる――トゥーナはそのまま足に引っ付いて微睡むようで、頬を撫でる。
エリシアも目を覚まして。
「起きた?」
「うん」
そう聞くと、エリシアは少し笑みを浮かべた。少し不安そうで、庇護を求めるように胸の中に顔を押し付けてくる。大丈夫だとは聞けなかった。
失ったものが元には戻らない事を知り、消失と、後悔と、痛みと表情が複雑で――エリシアは決して幸せそうではなかった。自分を崩して、気持ちをまた一から構築しようとしているようにも見えた。見えるだけだ。そう思いたいのかもしれない。
エリシアが何を考えているのかなど、俺に理解できるわけもない。
俺には何も言えそうにない。何も言えない。エリシアの覚悟が無駄にならないよう祈るしかない。つうか指一本なんだけど……。わかったのは、俺にとってエリシアが危険な存在というそれだけだ。俺はエリシアに、自分が男だという事を絶対に言わない。昨日の感触と自らの感覚を合致させれば、俺がサル化するのは火を見るよりも明らかだ。そしてエリシアが俺を好きなることは決してない。俺自らがエリシアに好かれようと、すがろうとしそうでそれが何よりも恐ろしい。そうなればストーカーだし、トゥーナの事を疎かにしてしまうだろう。
いつまで理論武装すれば良い。理論武装しなければやっていけない。俺はそんなに運が良くない。10段階で通常の人が5、運が良い奴が7なら、俺の運は3だ。
貴方は考えすぎると良く言われた。俺が考える武装理論なんてすぐに瓦解するものだし、さすがに昨日の自分は気持ち悪い。その自分を正当化しようと必死すぎている。
エリシアは俺にとって危険な存在だ。それだけは忘れないようにしないといけない。
あまり考えないようにしたい。
まだマドレは静かに眠っている。彼らに眠りが必要とは思えないけれど、人とは別の意味で眠りが必要なのかもしれない。
ラファはエリのいるベッドの縁に座り、エリの頬を撫でていた。エリ自体は大の字で眠っている。
だんだんと騒がしくなっていく。だんだんとだんだんと。
あんな夢を見たせいで、少しだけしんみりとしてしまった。どうせならちゃんと抱きしめて欲しかったよ。誰でもいいわけではないから、この欲求が晴れることが無いのもわかる。
あいつらは確かに俺の大切な人達で、その感情は両親や姉に感じるものとは違っていた。
プレイヤーの身体能力はステータスの差こそあるものの、一律同じだ。どんな天才でもいずれは打ち止めに合い、どんな下手くそでもやり込めば上には立てる。
同じ性能だからこそ、センスや発想が物を言い、戦術や個性が際立った。
特別な誰かなんかいないけれど、特別な誰かにはなれる。
同じ性能であるのに、あいつら四人は対人でもSランク。
同じ性能であるにも関わらず、俺は良くてBランクだった。
同じ舞台にいていい奴じゃなかったけれど、そんな俺でもあいつらは受け入れてくれた。
特別な才能だけが全てじゃないと思えるのは、俺と言う人間がこの世界には俺しかいないと、あいつらが言ってくれたからなのかもしれない。
こうして夢の中で会えるだけで嬉しいだなんて。馬鹿だな俺は。それだけで、あいつらに感謝してしまう。
それが嫌で、すごく腹が立つ。