08
山を降りてから村の船着き場まで、二人はただの一度も、言葉を交わさなかった。
昼間に少し眠ったきり、休んでいない。チェリファリネに至っては、一昨夜――ガウリスがいなくなった夜から、少しでも眠ったのかさえわからない。
気力だけ。思いだけが、彼らを支えている。
港に着いたのは、チェリファリネの言った通り、夜明けの直前だった。港といっても小さな小屋と倉が並ぶだけの寂れたものだが、戦が始まってからは船の出入りも多い。この時間も人の気配の消えないそこを、二人は少し離れた木の陰から見つめていた。
岸から離れたところに碇を降ろす五隻の大きな船は、恐らくコモード軍のもの。陸地まで寄せることができないため、乗り降りに使う小船が海岸に並ぶ。
その端にひっそりとつけられた小さな船は村民のものだろう。ただ一つ、黒い帆を備えた船を除いて。
黒い帆――夜闇に紛れるその船に複数のよからぬ影が荷物を運び入れていて、レジェンの推測を確信に変える。
「あれに、ガウリスが?」
「たぶんね」
ガチャガチャと、金属同士がぶつかる音が響く。恐らく先ほどの騎士が運んでいた武器。小屋のそばに、馬が二頭、繋がれているのが見える。ということは、もちろんガウリスもいるのだろう――もちろん、さっきのあれが本当にガウリスだったなら、の話だが。
なにもない船着き場は見晴らしがよすぎる。二人は遠巻きに、そっと小屋へと歩み寄る。一定の間隔を開け高く積まれた荷物には、彼らの国から送られた物資が入っているらしい――ブリランテと違い島からの援助を求められない彼らには、貴重な糧だ。
暗がりに身を低く潜めながら、心臓は聞こえるのではないかと思うくらい強く脈を打つ。見つかれば逃げ道はない、けれどあまりに遅いその歩みは、彼らを焦らせる。
敵とて、見つかりたくはあるまい。気持ちは急いているはずだ――そう思えばなおさら、急がねばなるまい。
早く、兄を見つけなくては。
「これで全部だ」
しわがれた男の声が聞こえた。声量こそ抑えているが、静けさは大きく響かせる。
それに答えて、複数の声。次いで、別の、若い男が言う。
「あの男はどうするのです?」
あの男――二人は耳をそばだてた。
「あれは剣を打てる、連れて帰れば役に立つ」
不愉快な笑い声は、くれぐれもよく見張っているようにと命じた。変な気を起こして自害などせぬように、と。
「もう船に乗せられてるみたいね」
新しく荷物を積み込むふうではないから、それは間違いない。男たちが船に乗り込むのを見て、チェリファリネが言う。声は震えていた。それに対してレジェンはただうなずくことしかできない。
いつの間にか握り締めていた手のひらに、爪の跡がくっきりと残る。じんわりと滲む汗を服の裾で拭って、思考を巡らせた。
もう船に乗せられているならば、こちらも乗り込まなくてはならない。けれど、どうやって?
男たちは船から離れようとしない。せめてまだ積む荷物があったならよかったろうに、先の話ではそれも望めまい。
救いは、彼らはガウリスを殺しはしない。それだけだ。
と、ここでまた、二人にとって不都合が起きた。
遠くから馬の駆けてくる音が聞こえた。振り返れば小柄な男――島の者ではない、縮れた黒髪の男が小屋の前で馬を降り、今にも転げそうになりながらも、船の男たちのもとまで走った。その形相たるや、ただ事ではない。
小男は声を潜めることも忘れ、こう述べた。
「今こちらに、マリアン王子とサー・キャロスが向かってきています」
そのほかにも複数の騎士を連れて、およそ二十名。ここにいる影はおよそ十名、彼らにとって、抗って逃げられる数ではない。
報せに男たちは慌てた。そして数名だけを残して急いで船に乗り込むと、あっという間に岸を離れてしまった。
「いいか、もし万一刀鍛冶が死んじまったときにも、下手な扱いはするなよ」
しわがれ声の男は最後にそう言うと、レジェンたちが身を潜める荷物の横を通り過ぎ、馬に跨がって駆けていってしまった。
しばらくしてから、あの小男の言った通り、二十名ほどの騎士が港に馬で乗り入れた。しかしもうだれもいない。船もとうに視界から消えていた。そう遠くへはまだ行っていないだろうが、ようやく白んできた山の向こうの光を雲が隠して、その暗がりに、あの黒い帆が見えることはない。
駆けつけた騎士たちは辺りを注意深く探しているようだった。その中には、昨夜知り合ったあの騎士もいる。キャロス――小男もその名を上げていた。
それでもレジェンたちは、なおも隠れ続けた。というよりは、いよいよ体が動くことを拒んだ。疲労に重なる絶望。出てしまった船に追いつく術などない。
これ以上、なにを焦っても無駄。そう思えば、一度下ろした腰を上げるのは思う以上につらい。二人は物資に背を預け、目を閉じて耳を澄ませた。
コモードの騎士たちの、話す声が聞こえる。
「遅かったか」
溜め息混じりに、気品あふれる声が言う。落ち着いた響きに混じるのは苛立ち。そう思えた。
答えたのは聞き覚えのある声。キャロスだ。
「王派の騎士たちでしょう。今しがた発ったばかりと思われます」
厳かな口調は昨夜と異なり、相手が身位の高い人物であることを表している。恐らくその相手こそ、王子。
「夜が明けたら船を出せ。本当なら私が行きたいところだがそうもゆくまい‥‥ブレグス、きみに任せる」
「はい」
ブレグスと呼ばれた騎士は勇んで返事をすると、すぐさま準備に取りかかった。夜明けまで、思うほど時間はない。
ブレグスのほかに五名ほどの騎士が同乗することになり、また出発までにはあと二十の兵を天幕から呼び寄せるらしい。王子の命を受け、キャロスの駿馬は瞬く間に走り去った。
「‥‥あれに乗ろう」
しばらく黙っていたレジェンが、呟くように言った。
もはや彼らに、道は二つしかない。町へ戻るか、大陸へ渡るか。一度はついえたと思った後者の選択肢がここにきてよみがえる。
船は違えど、行き先は同じだ。
勢いをつけて上半身を起こす。力なくうなずくチェリファリネを助け、二人はよろよろと立ち上がった。
「船に乗ってから、ゆっくり休もう」
顔を見合わせ小さく笑う。今度こそ、乗らないわけにはいかない。
もちろん、正面から行って乗せてくれるはずもない。そもそも昨夜、キャロスには町へ帰るように言われていたのを裏切ったのだ。
島から大陸までには、早くとも一日かかる。コモードの港に向かうなら三日程度の船旅になるだろう。備えが必要になる。準備を終えるまでの時間は、二人に余裕を与えてくれた。
使われる船を見定めると、二人は離れたところから小船で近付き、見張りのないときを狙って乗り込んだ。それから貨物室を見つけると、既に積まれた荷物の陰に隠れた。
程なくして、船は動き始めた。窓のない貨物室からは外の様子は見えない。いいや、そもそも既に眠りについてしまった彼らに、故郷を振り返る余裕などなかった。