07
追いつくことなど、できるはずもない。
それはわかっていた。相手は馬で、こちらは徒歩だ。馬が駆けた道筋まで走ると、チェリファリネは足を止めた。
ここもまた、かつては島民の畑だった。ぼんやりとした月明かりに、土にはっきりと残された馬の蹄の跡が照らされる。チェリファリネはこの足跡を目で辿った。
行き先でなく、来た道へ。
「行きましょう」
言いながら彼女は山へ歩き出した。レジェンもそれに続く。先導するのはチェリファリネだけれども、彼とて考えは同じらしい。
――兄がいるとすれば、この先だ。
コモード軍の天幕には、兄はいない。あの礼儀正しい騎士がそう言うのだ、きっと信じていい。それから走り去った馬に乗る影も一人だけで、荷物ですら持ってはいなかった。
ガウリスはこの先にいる。
吹く風が肌に冷たい。含まれる潮の香りは町にいるときより強く、夜の時分、波の音はいっそう響いた。
二人はもはや、駆けてはいない。幾時間も歩き続けたために、足が痛みを訴える。膝はがくがくと震え、それでも彼らは歩いていた。
月はあと一時間ほどもあれば南中するだろう。足跡を追って山を登り始めたとき、ふっと明かりが雲に隠れた。悪くなる視界に、わずかな恐れを抱く。
今さらだが、彼らは丸腰だ。レジェンはようやっと、それに気付いた。
先ほどまではウォルドがいたが、いつの間にかいない。歩くのさえあんなに苦労していた彼が、走れるわけがなかったのだ。
この先に求めたものを見つけたとして、無事に帰れるはずもない。非道な手段で鍛冶場を襲った者たちだ。いざとなったら、どうにか逃げねばなるまい。兄がいたなら、兄と――二人を守るのは自分しかない。
不安がよぎる。自分にできるだろうか。
木々が地を這うように張った根に、馬の足跡は途絶えた。見上げども幾重にも折り重なる葉は二人に闇を落とす。
けれど道がわからないわけではない。
「こっち」
一度は足を止めたものの、チェリファリネは再び歩き出した。
――つぼみ。
まもなく咲くであろうさくらのつぼみが、足元で白く光って彼らを導く。それはまさしく、だれが通った証しだ。戦争が始まってからというもの島民は山には立ち入っていない、となれば先ほどの影――悪人しかいまい。きっと馬で駆けるときに落としていったのだろう。
「何度もここを通っているみたいね」
チェリファリネが呟くように付け足す。畑が近かったこともあり、彼女は昔からこの山でよく遊んでいたから、ほんの少しの異変も手に取るようにわかった。
彼女は少し足早に先を行った。それがレジェンの不安を大きくする。彼は彼女ほど山には詳しくないし、悪人たちも数日ここに入り浸っているとすれば、ある程度の勝手は掴めているはずだ。
兄は助けたい。けれど。
「なあ、チェリファ」
一度、戻ろう――そう続けようとして止まる。
ザッ。
すぐ横を通る影があった。左側、一本の木を隔てた向こう側。馬に乗ったそれは、左右に身体を振りながら駆け下りていく。
慌てて目で追う。と、今度は右を影が通り過ぎる。跨る影はそれぞれ一つだ。けれど大きな荷物を抱えている。一方はガチャガチャと金属の擦れ合う音を響かせ、一方は柔らかいものなのだろう、しっかと馬にくくられて――さあぁ、とどこからともなく血の気が引いていく。
乗り手に比べたら一回り小さい、けれどその大きさは、まるで。
嫌な予感がする。
深い色のマントは闇に溶け、あっという間に視界から姿を消した。木々の間を蹄の音が響き渡る。
「――なにしてるの、追いましょう」
先に走り出したのはやはりチェリファリネだった。今来た道を戻る。山の斜面は登りはつらく、下るに駆けるは不安定でよくない。彼女は根につまずき、レジェンが支えた。それでもなお、彼女は悪人らを追おうとしている。彼はチェリファリネの腕を、強引に引き止めた。
――違う。
「あれを追うのは、きっとよくない」
決して諦めではない。たしかに体は疲労しきっているし、大きな不安も拭えずにいる。けれど臆して出た言葉ではない。
ここであの影を追ったとて、相手が馬なら追いつけるはずもない――それはもうわかりきったことだ。ならば危険を冒してまで今追うよりも。
一つの道筋が、彼の脳裏に描かれる。
「いったん、彼らがいた場所に行こう」
そこに兄はいるかもしれない。もしいなければ‥‥考えがあった。
チェリファリネは不服そうに顔をしかめたが、レジェンが無言のまま山を登り始めると、渋々従った。今しがたの二頭が走り去った根には新しい傷ができていて、それはレジェンでも辿ることができた。
やがて山の中腹に小屋を見つけた。もともとはこの山を生業としていた島民が使っていたものだ。
今はだれもいない、もぬけのからだ。しかし傍には飼い葉が残され、灯りのない屋内も、ろうそくから漂う煙の匂いに満たされていた。
「‥‥だれもいないじゃない」
「そうだね」
だれもいなかったことはありがたい。下手に悪人どもとやり合うよりは、ずっと安全だからだ。しかし奪われた武器もない。あわよくば護身用に持っておきたかったが、そこまで甘くはなかった。
まあいい。
「山を降りよう――けれど今来た道じゃなくて、チェリファ」
月が再び、雲から顔を出した。レジェンはチェリファリネに向き直り、問う。
「モソ村に行くに、一番早い道を教えてくれるか?」
考えとは、こうだ。
先の二頭の影は、一度センプリーチェの方面へ降りた。あの荷物は、恐らく武器と――兄。ガウリスだ。あのような扱いを受けているなどとは考えたくないが、そうとしか思えない。
彼らはどこへ行く気なのか。天幕ではあるまい、あのウォルドが信頼する王子がいるのだから。かといって今さらセンプリーチェに返すはずもない。彼らの立場をいっそう悪くするだけだ。
とすれば、彼らはきっと、村に行く。いや、村の港へ行く。武器もろとも、内密のうちに国へ送ってしまえばいい。
「ちょっと待ってよ」
チェリファリネが不安げに眉間にしわを寄せる。
「武器はともかく、ガウリスを連れ帰る必要はないわ。こうしてる間にも彼が――‥‥」
「それならとっくにそうしてるさ」
連れ帰る理由がわかるわけではない。しかし、なんらかの意味があるはずだ。もし兄がもうこの世にいないとしても、悪人たちは武器を届けに港に来る。
この推測に、妙に自信がある。
「――ウォルドは以前、コモードの王にはいい噂がないと言っていた。それから前の司令官だったトルディアスタもだ」
今はコモードの王子が司令官を務めているとしても、以前の司令官――トルディアスタ公の指示を受ける騎士もいるだろう。それが王の命令ならば、船を動かすこともできる。
なぜと根拠を問われればなおさら深まる謎だ。ただの推測に、直感に過ぎないし、人一人さらうのに王の命令も大げさな気がする。
「行こう、なるべく早く」
夜の船出は危険だ、とはいえ日が昇ってしまえば見つかる危険がある。船が出るとすれば夜明けの直前だろう。
「‥‥急げば間に合うわ」
チェリファリネが、うなずく。
月が西に傾き始めたころ、二人は山を降りた。満たされているようで欠け始めた月が示すのは、日付が変わってから一時間以上が過ぎている事実。
センプリーチェに行くよりはずっと近いけれど、それでも休むことはできない。彼らはまっすぐ西へと進んでいった。
雲がまた、光を遮る。