05
見張りの騎士が言っていた通り、鍛冶場にはウォルドがいた。ほか数名の騎士らとともに小屋の中を改めていたが、チェリファリネの姿を見て取ると表情を少し和らげた。
「どうして町を出てきたんだ、危ないじゃないか」
言葉とは裏腹に、口調は優しい。ウォルドは一つ息をついてから続けた。
「実を言えば、チェリファリネのことだから、一人で敵軍に乗り込むんじゃないかと不安だったんだ」
レジェンが思わず笑う。じろりと横目で睨みつけながら、チェリファリネはほほを紅潮させた。その様子を見て、ウォルドも察したようだ。肩をすくめて口角を上げる。
「ガウリスのことだが、やはりどこにもいない。小屋の周囲も探したんだがな」
「やっぱり連れ去られたんだわ」
ウォルドの言葉を受けて、チェリファリネが呟く。ウォルドはつらそうに眉間にしわを寄せ、レジェンは彼女から目を背ける。
否定できる理由などない。
言葉を失った彼らに気付いて、チェリファリネは続けた。
「けれど悲観することはないわ、彼が必ずしも危険だということじゃないもの」
コモード軍の目的は決して、武器だけではない。そうでなければ、わざわざガウリスを連れ去る必要もない。現にロトスは小屋に残されていた。
必要があって連れ帰った。それなら、彼を下手に扱いはしまい。
「どんな理由かはわからないけど、きっと彼は無事よ」
言い聞かせるように、努めて明るく話す。希望でしかないけれど、絶望よりはマシだ。
ウォルドがなるほど、とうなずく。それから無言のまま、レジェンの頭を叩くようになでてほほ笑んだ。
既にウォルドたちが調べていたために、鍛冶場にはやはりなにもなかった。片隅に寄せられた荷物はガウリスのものだとウォルドは教えてくれたが、小さな鞄が一つ、中にはパンが二切れと、古びた小さな銀の杯が入っているだけだった。
「なんでこんなものを?」
杯を眺めて、レジェンが呟く。大陸の花だろうか、美しい紋様に飾られ、底には八枚の花弁に囲まれてなにやら文字が刻まれている――が、レジェンには読めなかった。
「デライフの杯じゃないか?」
覗きこみながら、ウォルドが悲しげに顔を歪める。不思議そうに見つめるレジェンとチェリファリネに、彼は説明した。
「デライフというのはラドリアナ教の神の一人さ。もとは生死を司る女神なんだがね」
ラドリアナ教――大陸のほとんどの人々が信じる教えだ。
デライフは教祖ラドリアナの妻だった。デライフの杯は、婚姻の際に唯一持ち込んだ持ち物が杯であったことから由来する。二人はお互いを深く愛し、杯は愛の象徴となった。
教徒は女児が生まれると、娘に杯を与える。娘は年頃になるとそれを愛する者に与え、相手が受け取ると、それは二人の誓いになる。いつの間にかそのような習わしができた。
刻まれた文字を見て、ウォルドは深く溜め息をつく。そしてなにも言わずに、彼らに背を向けた。不安げにチェリファリネが彼を追ったが、言葉が見つからない。伸ばした手は空を切り、彼女の腰元に落ち着いた。
レジェンはただ、視線を落とした。
――大陸に、兄を愛する、兄が愛する女性がいる。
当然、彼らの知らない人だ。それだけで、どうにも複雑な思いになる。
チェリファリネにとってはそれだけではない。レジェンもそれは気付いていた。長い付き合いだ、兄当人が気付いていないのもわかっていたけれど。
確信したのはガウリスが島を出るときだった。両親の次に強く反対していたのは彼女だった。
杯を今一度、鞄にしまう。ひもで腰にくくり、持ち帰ることにした。
ふと窓から外を見る。光が赤みを増してきて、まもなくの日落ちを報せていた。
「‥‥そろそろ戻ろう、チェリファ」
立ち尽くしたままの彼女の肩を叩く。しばらくの沈黙のあと、チェリファリネはうなずいた。
騎士たちもまた、仕事を終えたらしい。二人は五人の騎士らとともに、帰路についた。鎧を身に着けた騎士たちの歩みは遅い。平原の中腹に差し掛かるころには空は闇に包まれ、星が美しく瞬き始める。けれどチェリファリネには見上げる気力さえもなく、潮の香りを届ける強い風の吹くほうに視線を投げた。
――と。
「あれ、なにかしら」
その呟きに気付いたのは、隣を歩いていたレジェンだけだった。二人は歩みを止め、じっとその方向を見つめる。先を歩いていた騎士らも振り返り、彼らの視線を追った。
しかし、暗闇に姿は隠れた。まだ月のない時分、照らすものは小さな星のみでほかになにもない。気のせいだろうと騎士たちは先を行き、ウォルドだけが残った。
ウォルドは妙に、彼らに肩入れしている。レジェンが親友ガウリスの弟であることも大きな理由だろうが、その実、チェリファリネに好意を寄せているのでは、とレジェンは感じている。むろん彼女の思い人も知っているからなにも言いはしないが、見ているほうとしては少し歯がゆい。
チェリファリネが風上に向かって歩き出すと、すぐに続いたのはウォルドだった。武装した身では歩くに不便ではあるが、彼女が見た影が敵軍であったらと考えれば、脱ぎ捨てるわけにもいかない。そもそも夜とはいえ、ここは戦場なのだから。
目を凝らすと、本当にぼんやりとではあるが、たしかにだれがいることがわかる。決してよい存在ではあるまい。こちらの存在に気付いたらしく、馬を止めて鳴りを潜める。見つかってはいないと思ったのだろう。しかし三人が近付くと、素早く馬に跨がって走っていってしまった。
影は一人――騎士だ。
マントを羽織り、楯も持っていた。それがだれはわからないが、クワジ山のほうに駆けていったところを見れば、不安にならずにはいられない。
明らかにおかしい。海岸に沿って走るその影は、センプリーチェの方向から現れたのだから。
胸騒ぎがする。
「追いましょう」
真っ先に言ったのは、やはりチェリファリネだった。すぐにウォルドが反対する。
「いいや、一度戻ろう。山に行くのは危険だ」
とはいえ。彼女の目を見れば、撤回させるのがどれだけ困難かがよくわかる。チェリファリネは振り返ることもなく、早足で歩み始めた。仕方なしにウォルドも続く。
そして、レジェンも。今度ばかりは、チェリファリネを止めようとは思わなかった。震える膝が、兄への手掛かりを予感している。あの影はなにかを知っている。そう、間違いなく。
一刻も早く辿りつきたい、走り出したい欲求をこらえ、チェリファリネの横に並ぶ。常に冒険を避け、安全を考えてきた彼のこの態度は、彼女にとっても予想外だった。思わず速度を緩め、ウォルドと顔を見合わせる。
心強い。そんな気にさせる。真一文字に結んだ口許に、彼の決意が伺える。
――必ず、助け出す。
山はそう、遠くはない。