04
「――なに言ってるんだよ」
チェリファリネの真剣な目に、レジェンは思わず視線をそらす。窓の外は気分にそぐわぬ快晴で、だだっ広い真っ青な空に、頭がチカチカした。
「ガウリスを助けに行きましょう。きっと、連れ去られたんだわ」
「どうしてそう思う?」
熱を込めて話す彼女に、レジェンは問う。
「たしかに鍛冶場にはいなかった。けれどうまく逃げられたのかもしれないし、もしチェリファの言う通りだったとしても――いや」
言いかけて、やめる。やめざるを得なかった。
「危険だ」
考えた末、簡単な言葉で反対の意を示す。上半身を起こし、続けてゆっくりと説明する。決して説得したいのではない。本当は彼とて兄を助けに行きたいのだ。
衝動を理性で抑え、言葉を選ぶ。まっすぐにそそがれる彼女の視線にやや臆しながら、けれど。
「なぜコモード軍に兄さんをさらう理由がある? 騎士でもない、刀鍛冶が欲しいにしても、それなら兄弟子のロトスさんのほうが経験がある」
「そんなの、敵国の彼らにわかるはずないじゃない」
「少なくともダロンさんは有名だ、彼も最初はあそこにいた」
チェリファリネが黙った。どこか腑に落ちない感はある、けれど反論が思い浮かばない。そんな顔で彼を見つめる。
「連れ去られたんじゃない、あの小屋にはいなかったけれど、きっと‥‥」
言葉が途絶える。わずかな希望を、自分の言葉が摘み取っていく。いつの間にか握り締めていた拳は、手のひらに爪の跡を綺麗に刻み付けていた。
沈黙が続く。互いに目を合わせようとせず、やがてレジェンは崩れるように、再びベッドに横になる。なにか言いたげに窓の外の空を見上げるチェリファリネも、疲れきった様子で彼の傍らに腰をかける。吹き抜けた風の心地よさが恨めしい。
――信じない。
たぶん、彼も同じ気持ちだ。眠いなら寝てしまえばいいのに、いつまでもまぶたを閉じられずにいる。遠くを見つめる視線に目標はなく、些細な音で現実に引き返してくるところを見れば、それが兄の帰宅の音であれと期待しているに違いない。
レジェンがこんなふうに兄を待つのを、チェリファリネはこれまで、幾度か見た。全てここ、五年のうちのことだ。
宗教のない島とはいえ、一年のうちにはいくつか祭りもあり儀式もある。たとえば二つの季節の移りには花祭りが催されるし、特に花咲きの季節の前には花重ねの儀式もある。
花重ねは島民にとって重要な行事だ。歳を重ねる儀式であり、それを皆で祝い合う催しでもある。
両親がともに反対していたガウリスの刀鍛冶の夢も、レジェンはそれが叶えられたらいいと思っていた。恐らくこの町で唯一、兄の夢を理解していた。唯一、彼の船出を見送った。兄は夢を追っているだけ、島を捨てたわけじゃない――そう思っていたから。
まさか、花重ねにも帰ってこないなどとは思っていなかった。
レジェンは毎年、こうしてガウリスを待っていた。それなのに。今年はようやく帰ってきたと思っていたのに、‥‥これだ。
チェリファリネが溜め息をつく。
「――なら」
彼女が言いかけたとき、外をガチャガチャと鎧を鳴らして、騎士が通り過ぎた。あの楯の紋章はジェイファン王子だ。従騎士が三名、そのあとを追う。
しばらくして、玄関のほうから話し声が聞こえた。レジェンの父親の低い声がかすかに響く。ジェイファンが挨拶に来たらしい。王子がわざわざこんなこともするのか、と少し驚いたが、考えてみれば島民が大陸で仕事に就くことは珍しかったし、彼自身が指揮を執る遠征で起きた事件だ。責任感から来るものだろう、その心遣いにチェリファリネは心中で感謝した。
「‥‥なら?」
続かない言葉にレジェンが尋ねる。少し期待を込めて、顔だけを起こしてまっすぐに彼女を見つめる。
期待。そう、期待だ。彼女が次に口にする言葉が、希望を与えてくれるものであるように。
チェリファリネは彼を裏切らなかった。彼女はもう一度息をつき、向き直って言う。
「もう一度鍛冶場に行きましょう。それなら、いいでしょう?」
昨日の今日だ、ブリランテの騎士もいるだろう、さほど危険もない。今あの小屋に行ったとて、コモードの軍にはなんの得にもなりはしないのだ。そう考えれば町よりも安全かもしれない。
「昨夜はもう暗かったし、今ならなにか新しいものが見つかるかもしれない――いいものであれ、悪いものであれ」
悪いものであれ。悪いもの、つまり――‥‥。
首を横に振り、考えを打ち消す。いいえ、ガウリスは無事よ。きっとどこかにいる。自由の身ではないかもしれない、けれど。
ずっと兄のように慕っていた。いつのころからかそれは形を変える。一方的ではあったけれど、もちろん彼は気付いていないだろうけれど。
なんの根拠もなくただ信じないでいるのは、臆病にしか思えない。今なら生きていても、こうして黙っている間に、彼はひどい苦痛のうちに結末を迎えてしまうのかもしれない。
考えれば考えるほどに身を震わせる不安に、もはやいても立ってもいられなかった。
少し考えてから、レジェンは答える。言葉ではなく、ただうなずく。眉間に寄せるしわ。悲しみでも恐れでもなく、覚悟だったように思う。たとえばなにも見つからなくても、たとえば望まないものを見つけてしまっても。そこに行くというのは、つまりそういうことだ。どちらかの答えが待っている。
けれど、覚悟だ。
勢いをつけて身体を起こす。立ち上がるとともに歪む視界に数秒瞑想し、それから彼女に向き直る。
「行こう」
――まだできることがあるなら。
チェリファリネの提案は、もしかしたら彼自身も考えていたのかもしれない。ただ、それが今、取るにふさわしい行動なのかがわからなかった。
いいや、言い訳だ。単純に臆病だった。
ほほ笑んでみせた。始終不安げに顔を歪めていた彼女が、少しだけ、ホッとしたように表情を緩める。
簡単に身支度を調え、家を、町を出る。見張りはまた代わっていた。今度は年配の、話をしたことのない騎士だ。町を出ようとする彼らを騎士は止めようとしたが、鍛冶場までだと告げると渋々ながら承諾してくれた。
夜間は暗闇に埋もれるが、今の時間はここからでも鍛冶場が見える。平原の端に、木造の小さな建物の影。見るよりも実際はもう少し距離があるのだが、遮るもののない景色はまるですぐそこにあるかのように錯覚させる。
騎士には暗くなるまでに町に戻るようにと念を押された。それから、今ならウォルドが小屋にいるだろうとも教えられた。
礼を告げて町をあとにする。騎士は最後に、気をつけて、と見送った。
しばらく歩いて、ふと振り返る。町がこんなに静かだったことが今まであったろうか。寂しさを覚えた。生まれ育った町。幼いころはいつまでも平和で幸せでいられると信じていたっけ。
日差しは温かいのに、そこだけ冷たい空気に包まれているように思えて、レジェンは目をそらした。
センプリーチェに背を向ける。すぐ戻るつもりで、さよならも告げずに。けれど彼らはこれを最後に、数年この町に戻ることができなくなる。