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コンコン、とドアが叩かれる。
「わたしだ、入っていいか」
その声にキャロスが慌てて立ち上がり、ドアを開く。立っていたのは、口許は笑み、けれど眼差しは真剣なマリアンだった。
「マリアン様、そのお召し物は?」
「なに、ちょっと城を留守にしようと思ってな」
見れば先ほど着ていたものとは違い、ずいぶん地味な服だった。王子が着るには似合わない、まるで平民のようなそれは、なるほど、お忍びにはちょうどいいだろう。
それから、彼の背後にもう一つ影を見る。
「‥‥マリアン様がお二人?」
四人は驚いた。無理もない、マリアンについて現れたのはマリアンそっくり、いいや、マリアンそのものの姿をした人物だった。すらりと高い背、身分に見合った立派な正装はもちろん男性のもの。黒い瞳に整えられた短い黒髪――違いといえば、マリアンにはない白髪がいくらか混じっていた。
キャロスはすぐにそれがだれなのかわかったようだった。いいや、ほかにだれもいまい。王家の二人は周囲を慎重に見やってから、素早く室内に入った。
「こんな格好、久しぶりにしたわ」
ふふと笑いながら、カースが新たに用意した椅子にかける。外見は王子でも、振る舞いはまるで女性だ。マリアンが不安げに忠告する。
「メリアン、みんなの前でそれはよしてくれよ。わたしのイメージがぶち壊しだ」
「壊れる前にばれてしまうわ。大丈夫よ、任せておいて」
「メリアン様?」
思わずレジェンが声を上げる。チェリファリネも驚いてはいたけれど、ある程度予測できたようだ。いたずらにほほ笑むメリアンの視線がレジェンにそそがれる。彼女は二つ咳払いをした。
「二日間、マリアンを貸す」
威厳のある声は男性のもの。今までの低いアルトよりさらに音域の低いそれは――いや、メリアンは真実、男性なのだとレジェンたちは知った。二人をまっすぐに見据える眼差しは鋭く、高貴な口許は自信に満ちた笑みを浮かべている。
「ここから東に行くとソアーベ港に着く。コイツが船を手配するから、それに乗ってエネルジコに行きなさい‥‥本当なら直接ハオン島に送ってあげたいところだが、わが国の船では、今島に行くことは危険だ」
聞けば、いよいよ島民の中にも自ら武器を手にするものが出始めたという。ほとんどがモソ村の若者で、港にやってくるコモードの船を襲撃するのだと、マリアンは悲しげに言った。出るときも大変な苦労だったし、島にもまだ軍のおよそ半分が残っている。彼らの身を案じているのだろう。
続けてメリアンは、エネルジコならばブリランテと交易がある。手紙を書くからそれを持って王を訪ねろ、と言った。エネルジコはずっと中立を守っている国で、平和を唱えるメリアンには個人的に交流があった。
ブリランテを経由すれば島にも戻れるだろう。メリアンはそう考えていた。しかし、話を聞き終わったあと、レジェンはアンジェニの言葉を思い出した。
「アンジェニは、ブリランテには行くなと言ったわ」
先に口にしたのはチェリファリネだった。小さな声だったが、メリアンは聞き逃さずに尋ねた。
「アンジェニが?」
「はい、‥‥ああ、けれど」
チェリファリネはまた、考えた。ブリランテに踏み入れるな、とは、ガウリスに会いたければという前提の言葉。けれどガウリスは、もう。
それに彼女を信じたくはなかった。実際、たとえあと一週間ラグリマに留まっても、結果ガウリスはもうこの世にないのだから。
「いいえ、仰る通りにします」
「いや、彼女が言うなら信じていい。わたしが保証する」
考えながらいっそう低い、真面目な声で彼は言った。その一言に驚いたのは彼自身を除く全員で、マリアンでさえ目を見開いている。魔女と呼ばれ魔女と名乗る彼女の言葉を彼は信じろと言う。彼がそこまで彼女を信頼する理由が、彼らにはわからなかった。
「ならエネルジコからルスティコに行き、そこからアバンドーノに渡るといい。遠回りにはなるけれど帰れるはずだ」
ルスティコの地理はわからないが、アバンドーノはハオン島の西に浮かんでいる小さな島国だ。もちろん島との交易もある。なるほど、それなら大丈夫だろう。レジェンたちは再考に改めて謝意を述べた。
メリアンはカースに、マリアンとともに港まで送り届けるように命じた。キャロスは自分が行くと主張したが、メリアンは認めない。
「おまえがいなくなったらみんなが不審がるだろう。それともなにか、兄が信じられないとでも?」
王子の意地の悪い口調に、キャロスはちらりと兄に目を向ける。彼がゆっくりうなずけば、カースは眉間にしわを寄せ、見守る四人は愉快そうに笑った。結局、メリアンに従うことになった。
「じゃあ、リゼのことは頼むな」
「わかっている」
きっと足が悪いという妹のことだろう、心配そうに念を押す兄と、不服そうに返事をする弟。ほんの一言ずつのやり取りだったが、気兼ねのないお互いの態度は、レジェンには羨ましく映った。
かつては自分たちも、あんなふうにしていた。似たような会話をした覚えもある。そうだ、兄が大陸に渡る日、兄はチェリファリネを任せたなどと言っていたっけ。ガウリスは彼女のことを、妹のように思っていたのかもしれない。
「出発は明日の昼、昼食を終えてからだ。それまではゆっくり休め」
メリアンが締めくくり、二人の王子は部屋を出て行った。そのあとすぐに侍従が訪ねてきて、レジェンたちの食事を置いていった。
「マリアン様がもう少し留まっていられたら、出発を明後日にもできたんだろうけどな」
残念そうにカースが言う。キャロスはなんのことだと首を傾げたが、すぐにわかったようだ。
「明日は聖誕祭か。でもそのぶん、城を抜け出すのが容易になる」
「聖誕祭?」
「ラドリアナ教のお祝いさ」
けれどマリアンが再び島に渡るのは四日後の予定で、ソアーベまでは馬でも片道に一日かかる。それから港で準備することを考えれば、マリアンに許されるのは三日間だけだった。
「楽しいお祭りだよ――いつか戦が終わったら、きみたちも来るといい」
いつか。不確実な言葉だ。けれどそのときがくればいいと、レジェンは思った。
再び室内が二人きりになったときには、窓から見えた城下の灯火も消えていた。全てが暗闇で、遠くにあるはずの海と空の区別がつかない。
「なあ、チェリファ」
声がどこまでも響く。窓辺に寄せられたベッドの上で横たわっていたチェリファリネが、顔だけを彼に向ける。目はぱっちりと開いていたけれど、返事はなかった。
「いつか、また兄さんに会えるかな」
レジェンは握り締めていた指輪をちらりと見やった。それはアンジェニから預かり、メリアンに渡したもの。けれど彼は、またいつかアンジェニに会うことがあれば渡してほしいと、再びレジェンに預けたのだった。
彼はアンジェニという魔女を、心から信用しているのだろう。そういえばラグリマの子どもたちのことで、アンジェニはじきに王子が手を打つと言っていた。王子とはマリアンではなく、メリアンのことだったのだろうか。だとすれば、この二人を結ぶ絆は奇妙ではあるけれど、なにより確かなもの。
彼の言う通りにアンジェニを信じれば、また兄に会えるのかもしれない。山に向かった遺体は別のだれで、自分たちが勝手に思い込んでいるだけかもしれない。葬列の騎士の顔を思い出せば可能性は低いけれど、ないわけでもない。
――彼女が言うなら信じていい。
メリアンのあの一言は、レジェンにとって希望となっていた。
チェリファリネがいつの間にか起き上がり、レジェンの背中をそっと抱く。それからそっと、うなずいた。
二人は長い間、そうしていた。境のない海と空を見つめ続けた。
この向こうに故郷がある。すぐには帰れないけれど、いつか必ず帰る。いつか必ず、兄とともに。
ほんのわずか、水平線が淡く灯った。二人はそれを、眠りながらにして、たしかに見ていた。
このあと「花灯る海」へと続きます。




