16
たいして眠らぬうちに、レジェンは体を揺さぶられて目が覚めた。夜が明けたのだろうか、しかしここは地下だ。通気口が天井近くに開いてはいるけれど、外の様子をうかがい知ることはできない。
「レジェン、起きて」
耳元で囁くのはチェリファリネだ。目をやれば、真剣な眼差しで彼を見つめる彼女の顔がある。なにごとかと問おうとすれば、彼女の白い手に口を塞がれる。
「この町を出るわ」
「え?」
あまりに突然で、レジェンはチェリファリネの顔を見つめる。彼女はちらりとベッドの上で眠るアンジェニに目をやり、暗に、静かに成さなくてはならないことを示唆する。
チェリファリネは手際よく荷物をまとめていく。まだ寝ぼけ半分のレジェンはただ見ているだけだったが、それは彼女にとっても都合がよかったかもしれない。なぜなら彼は、アンジェニに従う心積もりでいた。彼女が眠りに落ちる間際に言った一言が気になったからだ。
縄はしごを伝い地下から這い出る。外で彼らを待っていたのは、頭の奥まで響くひんやりと冷たい空気。しん、と澄み渡る視界に、夜明けの白い光は心地よかった。
夜が明けても、廃墟は廃墟だ。
「ここに人が暮らしてるなんて、本当、不思議だわ」
少しずつ復興してきているとはいえ、いずれ再び戦火に見舞われる。アウクの言葉を思い出せば、この平和な静けささえも偽りに思えてならない。
チェリファリネがレジェンに鞄を差し出す。兄のもの、島の鍛冶場で見つけてからずっと、腰に携えていたものだ。少し膨らんでいるのは、どうやら彼女がパンをくすねたらしい。
「大丈夫よこれくらい」
とは言いつつも、決してよいと思っていないことは顔を見れば明白だった。生真面目な彼女だから、気に食わない相手とはいえ、恩を仇で返すのはいくらも後ろめたい。
なおさら早くこの町を出たい。チェリファリネはやや早足に、レジェンを急かした。
「けれどチェリファ、昨日アンジェニが言ったこと、どうするつもりだ?」
その背にレジェンが問う。
「一週間‥‥兄さんに会いたいなら留まれと」
「あなたは魔女を信じるの?」
ギッと睨みつけるような目で、彼女が振り向いた。声は控えめに、ほんの少しだけ響く。すぐに弱まる眼力とともに、チェリファリネはうつむく。
「わたしだって、彼に会いたいわ。一週間だって、それで確実に会えるなら待つ。だけどどうして、それがわかるの?」
アンジェニは未来を予知できるといった。けれどもしここで二人が町を出たなら、その予知は真実ではなくなる。もしと考えればキリがないのだけれど、少なくともそれは確実だ。
「それに、ねぇ、レジェン。大切なのは彼に会うことではないわ。ガウリスが島に帰ってくることよ」
強くはない。瞳は不安げに救いを求める。
――嘘だ。
チェリファリネは嘘をついている。違う、嘘ではないのだけれど、それはきっと建前。
一週間もここに留まらなくてはならない。すぐにも兄に会いたいのに。ガウリスの無事を知りたいのに、もういても立ってもいられない。彼女の発した言葉は、彼女自身に言い聞かせている言い訳に過ぎない。
けれど、否定はしまい。レジェンはそっと歩み寄り、彼女の背を優しく叩いた。
「チェリファの言う通りだ。今は会えずとも兄さんが島に帰ってこられたら、それでいい」
――まったく、いつかは人を子ども扱いしておいて、自分こそよっぽど子どもじゃないか。
なぜだかおかしくて、レジェンはほほ笑む。それを見て安心したのか、強張っていたチェリファリネの体から震えが消える。なおも不安げに潤む瞳も、彼が数歩先を行きながら差し伸べた手に、わずかにほほ笑んで手を重ねた。
チェリファリネの言い分に、レジェンは心得がいった。そうだ、この町で兄に会えたとして、なんの意味もない。自分たちはまた、島に帰らなくてはならないのだ。
元はといえば兄はさらわれ、二人も船の荷に紛れ渡ってきた大陸だ。帰り道など用意されてはいない。なんとかなるかもしれない、いってしまえばそれはそうだけれども、可能性は常に逆もある。
さあ、では、なにをすべきか。
「まったくあんたたちは考えなしだな」
昨日歩いた道を逆流する。けれど印象はまるで違って、幾度か誤った。もう朝食の時分というところ、遠くからまたあの鐘の音が響いてきたとき、二人はようやっと町の出口に辿りついた。
と、呆れたように、その声は言う。
「昨夜言ったろう、あんたたちは危険な方向へ向かっている、と。わたしが間に合わなかったらどうなっていたか。遠回りしてくれて助かった」
むろん、わかってはいたけれど。よかったよ、ちゃんと起きられて――そう自嘲気味に笑いながら。
そこに待っていたのは、アンジェニだった。深々と帽子を被っていたために遠目ではわかりづらかったが、近付いて彼女の姿を認めた途端、チェリファリネは握った手に、思わず力を込めた。
「まだなにかあるの?」
警戒気味にチェリファリネが言う。パンをくすねた罪悪感からか、対等に話ができない気がしていた。しかし察してか、アンジェニは笑う。
「パンなら気にするな、むしろそのために用意していたといってもいい」
事もなげに。見透かされていたと思うと、かえって心苦しい。チェリファリネはうつむいて、レジェンの背に身を寄せた。
気にする様子もなく、アンジェニは続ける。
「あんたたちに二、三、言わなくちゃならないことがある」
深い黒の瞳はまっすぐにレジェンを見つめる。帽子で陰になっているというのに、輝きはまるでガラス玉のようだ。
アンジェニはゆっくりと、指を折りながら告げた。
「あんたたちはこれから、この小さな世界を一周するだろう。けれど、いいかい。島に戻る前に、ブリランテに踏み入ってはいけない」
「ブリランテに?」
「そう。でなくばもう二度と、生きて兄には会えまい」
背中をなにか冷たいものが走った。繋いだ手が震える。強い口調で言い放つ彼女の瞳を見れば、どうにも信じずにいられなくなる。
昨夜もそうだった。彼女の言葉には、万人を信じさせる不思議な力がある。やや低い、澄んだ声。
その声が伝える、一番逃れたい予知。
「それが、まず一つだ。二つ目は、もし兄に出会っても、声をかけてはいけない。それで相手が返事でもしたら、兄さんはもちろん、あんたたちもあの世行きだ」
半分冗談のような口ぶりだけれども、二人は彼女を見つめたまま、一言一言を心に刻んでいく。アンジェニを嫌っているチェリファリネでさえも、彼女の言葉を遮ろうとも聞き流そうともしなかった。
この人は、止めに来たのではない。送り出しに来たのだ。
「最後に――これは餞別だ」
アンジェニは言いながら、首元を探り始めた。帽子といい衣服といい、首まで覆い隠してしまう装いは、若くして老人のようなその白い髪を気にしてだろうか。
取り出したのは首飾りに通していた、美しい細工の指輪だった。首飾りといっても、指輪を取ってしまえばただのひも同然ではあったけれど。
その指輪をレジェンに差し出して、彼女は言う。
「コモード城へ向かえ。そしてメリアンを訪ねろ」