10
ゆっくり肩を上下させながら、はやる心を落ち着かせる。視線の先に停船する黒い帆に、彼らは身を硬直させた。
二人の隠れる岩場に、遠慮もなしに波が打つ。
「あれ‥‥あの船ね」
じっと見つめる。と、港にいた兵らが船に近付いていく。用心深く辺りを見渡すその様は、兵らもまた、悪党の仲間だということを表している。
見張りが合図すると、船から男が一人、大きな荷物を背負って降りてきた。騎士ではない――兵よりも小柄で、歳は四十前といったところか。体つきは立派だが、身なりから察するに商人だろう。
きっと、商品は表を歩けぬようなもの。でなくば、このような時分に港に出入りはしまい。
「ガウリスは中かしら」
チェリファリネが呟く。
商人の背負う荷物は大きいけれど、あれにガウリスが入っている、などということはあるまい。連れるならば歩かせたほうが楽に決まっている。
行って確かめたい。けれど今出て行けば、捕まるのがオチだ。かといって見守っているだけならば、船がどこに行くかもわからない。これだけ怪しい船だ。朝まで港に置いておくことはしまい。
ならばどうするか。
「‥‥待とう。もし船が動き出したら、追うんだ」
どうやって? 自分で言っておきながら、考えはない。
港には使えそうな小船もなく、あったとしても漕ぎ手は一人だ、敵の船には追いつけまい。
可能性があるとすれば、この船が陸に揚げられること。もしくは岸に沿って移動してくれること‥‥どちらも望めない。彼らにしてみれば、見つかる危険が高くなるからだ。
今、船がここにあるうちに、少しでも船から離れてくれたら。隙を見逃さじと二人は見つめる。
そう思っているうちに、船は岸を離れ始めた。帆は風を受け、見張り兵の一人が漕ぐ。
あ、と小さく声を上げ、チェリファリネが立ち上がった。が、レジェンはすぐに彼女の腕を引き、再び隠れさせた。というのも、疑問があったからだ。
兵はどうしたわけか、装備を港に置いていった。鎧兜もなく、剣もなく。それどころか、衣服も腰布のみと、実に身軽な格好だ。
レジェンはしばらく考えに首を傾げたが、理由はすぐにわかった。
船が暗闇に紛れたころ、なにかが水に落ちる音がした。それから水の跳ねる音が続き、しばらく待つと、兵が泳いで岸まで戻ってきた。
残っていた兵らが出迎え、身を拭う。
「どうして追わないのよ」
「きっと、あの船に兄さんは乗っていない」
いきり立つチェリファリネを制して、レジェンは冷静に考えを述べた。
今、もうあの船にはだれも乗っていない。そう考えるのは、わざわざあの兵が泳いで戻ってきたからだ。
乗員がいるならば、あの兵が乗って動かすことはない。乗員に船が動かせないならば、兵は戻ってくる必要がない。
ならなぜ兵は戻ってきたか。
「あの船は、捨てられたんだ」
そう――波に乗るまで、岸を離れるまで動かしてやれば、適当にどこかに流れていく。沈んでしまうかもしれないが、捨てるならばそんな心配は皆無だ。
中にはなにも残っていまい。少なくとも彼らの身分を示すようなものは。もしどこかの陸地に辿りついたときに、彼らが不利になるからだ。
つまり、追うだけ無駄だ。
「でも、どうしてガウリスが乗っていないといえるの? ガウリスもろとも、捨てられたのかもしれないわ」
不安げに訴えるチェリファリネの問いに、レジェンはやはり冷静に答える。
「覚えているかい? 島で彼らの指導者が言っていた言葉を」
指導者――しわがれ声の男の言葉だ。刀鍛冶は殺すな。くれぐれも自害などせぬように見張っていろ――理由は剣が打てるから。
もし彼女の言うようにガウリスが乗せられているならば、それはもう、生きた体ではあるまい。
「あの船じゃあなかったみたいだな」
一人しか乗っていなかった船だ。島で見たあの船と似てはいたが、別のもの。そう考えるのが妥当だ。別の場所に荷を下ろしてからここに来たのでは、もう少し日数がかかろう。
それにしてもやはりこの国には、闇を歩く人々が多くいるらしい。黒い帆の船がいくつもあるだなど、考えたくはなかった。
情報を訊くに、惑わされるかもしれない。そうしたとき、ガウリスの情報だけを得られるだろうか。不安に駆られる。
とにかく、違った。緊張の糸がぷつりと切れる。レジェンは溜め息を吐きながら背の岩にもたれた。
それからまた、考えを巡らせる。
もう少しここで待とう。明日の夜には来るかもしれないし、もしかしたら夜明けにはまた黒い帆の船が現れるかもしれない。
と、チェリファリネが彼の服の裾を引っ張った。なに、と聞こうとして言葉を飲む。なにかをまっすぐに見つめる彼女の視線を辿れば、答えはわかったからだ。
二人は再び、身を凍らせた。ごくりと唾を飲み、目を見張る。
「やばい――逃げよう」
慌てて立ち上がるも、足場の不安定な岩に、彼は体勢を崩した。
チェリファリネは彼を助けたが、結局、それ以上どうとも動けない。
冷たい汗が額を伝う。
「やあ‥‥こんな夜更けにガキが、なにをしていたのかねぇ」
ドスの利いた低い声が響く。
二人をめがけてまっすぐ歩いてくるその人物は、先の船の唯一の乗員。
大陸の民にしては小柄だが、立派な髭を蓄え、肉付きのよい体格はいかにも恐ろしげに見える。暗闇にもぎらぎらと光る目は、今、二人を睨みつけるように捉えている。
商人だ。
「ませたガキどもだ。大人は今、戦で大変だってのによ」
にやにやと嫌な笑みを浮かべて。商人はもうすぐそこまで、ほんの五歩先まで来ている。二人には立ち上がる勇気もなかった。
見張り兵たちもまた、二人を取り囲んだ。三人だけ、一人は剣のみで身を守る装備はなかったけれど、それでもレジェンたちが抗って勝てる相手ではない。
心臓が凍てつく。レジェンはチェリファリネの手を探りぎゅっと握り締めた。手のひらには汗が伝い、細かに震える。
商人は問う。いいや、答えなど期待はしていなかったろうが。
「おまえら、なにを見た?」
全て見た、とは断じて言えない。レジェンは唇をきゅっと噛み、見開いた目で商人を見つめながら考えた。
そっとチェリファリネに目をやれば、不安げに彼を見ている。握った手を後ろに引き、自分の背後に隠す。彼女はもう一方の手で、彼の袖を握った。
続いた沈黙は商人に確信させる。腰の短剣に手をかけながら、彼は言い放った。
「ならば生かしちゃおけねえな」
ギラリと月影に反射して、恐怖が二人を襲う。瞬間、レジェンが叫んだ。
「ここでぼくたちを殺せばマリアン王子に知られるぞ」
マリアン王子。この国、コモードの第一王子だ。敵国でありながらウォルドも彼を信頼している。
その名を出したことがよかったのかはわからないが、商人は手を止め、鋭い視線でレジェンを見つめた。
「マリアン王子、だと?」
なにか引っかかるものがあるらしい。レジェンは慎重に言葉を選び、続けた。