09
空腹に目を覚ます。
不安定な床板は眠るに心地いいものではなく、体がぎしぎしと鳴る。積まれた荷物の間の狭い空間に身を潜める彼らには、伸びをすることもままならない。
慎重に室内を見渡し、だれもいないことを確認して、レジェンは隣に眠るチェリファリネを見やった。
静かな寝息を立てる彼女。ひと時の休息に、彼は安堵する。
ところで、大陸に着くまでには三日はかかる。今まさに食を欲する腹とこれからの旅に、彼は思案した。
兄が鍛冶場に残していった鞄には、パンが二切れある。今はよくとも、いつまでも維持できる量ではもちろんない。
音を立てないように立ち上がる。ここは貨物室だ、きっと食料を詰めた荷物がある。それに航海というのは常々不測なものだから、少しくらい多めに準備しているはずだ。少々失敬したところで、なんの不具合もあるまい――もちろん、欲張れば身の危険もあるけれど。
果たして、それはあった。
レジェンは水を一瓶くすねると、もとの場所に戻った。
あることさえわかれば、あとは必要なときに頂くとする。一度に多量がなくなれば、やはり怪しまれるだろう。
ちょうど目を覚ましたチェリファリネとともに、ガウリスのパンを食べ、水はのどを潤す。満足ではないけれど、贅沢はできない。
「きっと、ガウリスはもっとつらいのだわ」
兄を思う彼女の瞳に、レジェンは溜め息をついてうなずいた。
それから大陸に着くまでの三日間、幸いにも見つかることなく、彼らは隠れ続けた。幾度かに分けて、パンをくすね水を奪い――杯は兄の持っていたものがあったが、いわれを思えば使ってはいけない気がして、彼らは瓶のまま分け合った。
「なんて書いてあるのかしらね」
杯の底の文字を見つめて寂しげに呟くチェリファリネに、レジェンはさあ、としか答えられない。
船が港に着くには、彼らはまた、慎重にせねばならなかった。
載せた荷物は下ろさねばならない。貨物室にはたくさんの兵が来るだろう――荷物がなくなれば、室内に隠れる場所はない。
二人は明日には着く、という乗員の話し声を聞くと、晩のうちに貨物室を出た。そして小さな部屋を見つけると、そこで朝を待った。使われていないらしいその部屋は、ひどく埃っぽい。
船が止まり、にわかに騒がしくなる。二人は息を潜め、静まるのを待った。鞄に隠した一斤のパンを、少しずつ食べる。
早く兄を追わねばならない。焦りはあったが、彼らが動き出したのは夜になってからだった。昼には入港していたのに、思いの外、積み下ろしに時間を要したらしい。
港には夜も見張りがいた。けれど島の港よりも人で賑わっていたから、船を降りてしまえば、さして怪しむものもなかった。
島を出るときは空一面を覆っていた雲も、今はもう晴れ渡っている。昇り始めた月は欠け始めていて、それでもまだ強い光を映していた。
さて――これから、どこをどう進むべきか。
「まず、ここがどこか、だな」
歩き彷徨いながら、レジェンが呟く。港を出ると、遠くの暗闇に城が見えた。
「あれがコモード城かな」
その手前に広がる大きな町。たいまつの炎が遠くでもわかる。ちょうど夕食時なのだろう、港の人々も併設された食堂に集まっている。
そんな中、数頭の馬が城へ向かっていくのが見えた。恐らく船に乗っていた兵たちだろう。他の乗員は先に城に戻ったか、先に出た悪党どもを追っているに違いない。
どちらにしろ、彼らを追うことはできない。そもそも追ったところでどうしようもない。目的は彼らではないのだから。
「食堂に行きましょう」
チェリファリネがレジェンの袖を引いて言う。
「なにか知っている人がいるかもしれないわ」
食堂にはたくさんの人がいた。みながみな、我先にと食事に急く。
衣服から見て、身分はそれぞれあろうが、それなりに暮らせている人々らしい。ウォルドから聞いたことがある、コモードという国は地域によって貧富の差が激しい。ここがこれだけ賑わっているのは、きっと城から近いせいだろう。
とはいっても、卓に並ぶものに贅沢な品はない。戦の最中、食料は戦線の兵たちに優先される。むろん、酒の類もない。
そこに座る者たちも、平凡な商人か船乗りといったふうだ。
二人は手当たり次第に話を聞いていった。だがだれも記憶しているものはない。
島を発ったのが夜ならば、船を降りたのも夜に違いない。この時間差は実に一日、ということになる。 そのときここにいた人を見つけねば、情報は得られまい。
――いや、待てよ?
「まだ着いていないのかもしれない」
思いついたようにレジェンが言う。チェリファリネは不思議に首を傾げた。
「なに言っているのよ、ガウリスを乗せた船はわたしたちより先に島を出たのよ」
「でもほんの一時間か二時間前だ。なのにここに着くのに、そんなに差が出るはずがない」
それから――と、彼は続ける。
黒い帆の船は、二人が乗った船よりもずっと小さい。途中で追い抜いたのかもしれない。いいや、あちらの船はコモードの正規軍が自分たちを追ってきたのを予測できた。少なくとも、港までは追っていたのだから。
わざと遠回りをした、とも考えられる。そうに違いない。
でなければ黒い帆などという不審な船を、だれも気に留めぬなどとは考えにくい。
「もしそうなら、これは運がいい。‥‥ただ」
同時にもう一つの可能性にも気付く。
「やつらがこの港に来れば、だけど」
そうだ。彼らの話からして、間違いなくコモード国内に上陸はするだろう。けれどそれが、この港とはかぎらない。
小さな船だ。ある程度の深さがあれば、港でなくとも岸につけられる。もしくは、ほかに港があるかもしれない。小さいながら、ハオン島にだって二つあったのだ。この大国に港が一つだけしかないなどということもあるまい。
もちろん、この可能性は二人にとって悪いものでしかない。
「待ってみましょう」
食堂をあとにして港を歩く。静まり返る海面に光る月影を見つめて、チェリファリネが言った。
「あなたの考えには一理あるわ。待ちましょう」
強い意志を持った目で、今にも来るかもしれない悪党を見逃さじとでもいうように、海上を見つめる。
「たとえもう一つの考えの通りだったとしても、どこに行ったのだか見当もつかない。もとより大陸に来たのは初めてなのに、むやみに動くのは賢くないもの。そうでしょ?」
「‥‥ああ」
実のところ不安だったこの推測に、彼女が同意してくれたことでレジェンは安堵した。
二人は港を隅から一望できる場所を選んで、黒い帆の船が来ることを待った。来ないかもしれない。けれど可能性はある。
島と同じ匂いで吹き付ける潮風が、彼らの体を冷やした。
いくらも待った。欠け始めた月がまもなく南中すると言う時間――港の灯火はすっかり消され、三名ほどの見張りが佇むだけになったころ。
果たして、それはやって来た。
「ねぇ、レジェン」
眠気にうとうとし始めていた彼を叩き起こして、チェリファリネが指し示す。
「来たわ」
顔は強張り、声は震える。その船を見ればレジェンとて同様に、心臓が強く跳ね打った。
――黒い帆の船。