青空を見上げるロミオとシンデレラになりきれないジュリエット
東京タワーを初めとした高層建築を忌憚なく見上げられるようになったのは、いつの頃からだろう。
今ではそれらを高さで上回るスカイツリーなるものも現れてきている。どこまで高みを目指せば気が済むというのだろう。結局人は地に足をつけて生きる他ないというのに。
「ねえ、聞いてる? 亘君」
沙也加が少女のように頬を膨らませている。亘は魔都の夜景を映す窓から顔を離した。京都から来た妻と、都内のレストランでディナーの最中だったのだ。気が散っていると思われたら、せっかくのご馳走も台無しになりかねない。
「聞いてるよ」
白いテーブルクロスの上には、手つかずの前菜の皿が載っていた。ウェイターが赤ワインを注いでくれる。純国産のワイン。妻の知り合いのワイナリーのものだと聞かされていたので、飲む際は緊張した。
「どう?」
口に含んで間もなく妻が感想を訊いてくる。よく味わうことができず、喉に流れてしまった。舌の上の残滓を懸命に言葉へと変える。
「少し若いかな。もっと鉄錆が浮いたとは言わないまでも渋い方が好みだね」
「何よ、通ぶっちゃって」
沙也加は機嫌を損ねたように腕を組んだ。肩にかかったショールが落ちそうになる。
「悪かったな。お世辞は苦手なんでね」
「知ってる。でも正直でいいわ」
沙也加はグラスを振って色の濃淡を味わうように目を細めた。どちらかというと、亘より彼女の方が通人を気取っている。
食事中かわされるのは、互いの仕事の近況だ。どちらの職場も気むずかしい古参が牛耳っていること、有望な若者が下から突き上げてくること、愚痴は尽きなかった。
「私たちも年とっちゃったわね。若い頃考えもしなかった。自分がおばさんになるなんて」
「君はおばさんじゃないよ。少なくとも俺の中ではな」
テーブルの下で沙也加が足を絡ませてきた。不作法だが、扇状的な行動は亘に火をつけた。
「ねえ、亜美ちゃんとさ、最近会ってるの?」
足を引っ込めた沙也加が、亘にとって触れたくない話題を持ち出してきた。
「いや?」
「あら、冷たいの。熱心に通いつめてたくせに」
沙也加の声から嫉妬の煙が上ってくるようだった。亘は苦笑して、ワインを飲み干した。
「あの子とは映画の話がしたかっただけさ。君がいない寂しさに負けてね。もうその必要もなくなった」
亘は沙也加の手をテーブルの上で握りしめた。
「嘘。振られたんでしょ」
「ありゃ、御見通しか」
沙也加の言う通り、姪の方からもう来ないで欲しいという手紙が、最後の面会から暫くして届いた。出所したら一緒に映画を観に行きたいと書かれていたが、その件は妻には内緒にしておいた方が無難だと判断した。
沙也加の顔がほてって赤くなってきている。亘も同じような顔をしてテーブルに肘をついていた。そろそろ潮時だ。カードで会計を済ませ、外階段まで出た。沙也加は亘にもたれかかり、自分で歩こうとしない。
「しっかりしろよ。飲み過ぎだ」
「んー……」
脱げたパンプスを履かせていると、沙也加が爛れた視線を投げかけてくる。亘は奥歯をぎゅっと噛んだ。
二人はしっかりとした足取りで、白い外観に紫の光で照らされたお城に入った。
一月ぶりの行為は表向き、スムーズにすんだ。亘にとっては未知の鋳型に自分を当てはめるようで苦労が多かった。終わってから、よかったと言うのがやっとだ。普段は何も言わないくせに今宵の亘は多弁だった。
「シンデレラは終電までに帰らないと駄目なんじゃないのか」
「いやよ。私はずっとジュリエットでいたいの。あなたにも付き合って貰う」
これが、家庭に入れなかった沙也加の居場所なのだろうか。亘に対する復讐だとしたらやりきれない。
二人は朝早くに起き出して、駅に着くと素知らぬ顔で別れた。
「煙草、吸いすぎんなよ!」
別れ際の沙也加の忠告に、亘は笑って手を振る。
「……、吸うところなんてとうにねえよ」
おじさんの独り言は、駅の雑踏の中にかき消された。
水島に連絡し、今夜飲みに行く約束をした。
仕事の出先で、ペットショップの前を通った。足を止めるつもりはなかったのだが、犬の鳴き声につい反応してしまった。
「お前、今幸せか」
小首を傾げるダックスフンドの子犬に語りかける。犬の黒い瞳は亘を見ているようで見ていない。
亘はその場を立ち去った。数日後、ペットショップにその犬の姿はなかった。新しい飼い主に見いだされたのだ。犬が従順に育つか亘には興味がない。
目下気になるのは、煙草を吸うスペースであり、追いつめられた愛煙家は狭い領域を巡って争いを引き起こすだろうという予感がある。自分が自分であるために。そうせざるをえない世界に亘は身を置いていた。
駅前のビルの隙間に設けられた喫煙スペースがある。
出社前に亘はいつもそこで一服するのだが、暗い噂を耳にした。
「ここもそのうち無くなるそうですよ」
仕立ての良いスーツに身を包んだ老紳士が煙草を片手にそう呟いた。
「この狭い空と煙だけが生き甲斐でした。無念でなりません」
これから駅のホームに飛び込んでもおかしくないほど悲嘆に暮れている様子だった。亘もやりきれない気持ちになった。
「ここが駄目でも、他の場所はないんでしょうか。日本が駄目なら外国でも」
「私はもうこの歳です。でも貴方なら行けるかもしれない。もし良ければこの一本を持っていって他の場所で狼煙を上げてくれませんか。そうしてくれた方がこいつもうかばれます」
その煙草はバトンの代わりだった。これさえあれば、俺たちはこの閉ざされた空の下を走り抜ける。
亘は煙草を懐にしまい、紳士と別れた。