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卒婚


男女の仲など、所詮亘にはわからない。妻以外にも学生時代に付き合った女性はいたが、長続きした試しがない。


故意に話を合わせれば退屈だと言われる。こちらの話題には興味をもたれない。情に訴えれば逃げられる。とかく女は窮屈だ。男同士で遊んでいる方がよっぽど楽しい。


男と女は別種の生き物だと亘は思っている。割り切っていれば大概乗り切れた。


これまでは見て見ぬ振りをしていればよかったが、家庭の問題となるとそうはいかない。


抜け殻のような我が家に帰るのがこんなに苦痛とは考えもしなかった。子供ができることを想定した一戸建ては、二人暮らしには広すぎて、妻の私物が部屋を占領しつつある。


「はあ……」


坂を上りきった時には自然とため息が出た。加齢のせいばかりではないことはわかっている。


幸か不幸か、気怠さを感じる暇は与えられなかった。


自宅の窓に明かりが灯っているのを目の当たりにしたのである。


十数年ぶりに走った亘の姿は、近所の住人に目撃されており、まるで猛り狂った象のようだったと、後々まで口の端に上った。


亘の妻は、バスローブ姿で足を伸ばし、大口を開けてソファで寝ていた。化粧もしておらず、髪は簡単にくくっただけだ。高く反り返るような鼻がこぎざみに震えている。


「おいっ! 沙也加」


亘は激情のあまり、後ろから妻の肩を力任せに揺さぶった。妻はびくっと跳びあがらんばかりに驚いた。


「あ……、お早いお帰りで」


妻の沙也加は魂の抜けたような顔をして、かたくなった手足の間接を伸ばしていた。顔のはれぼったさから長時間寝ていたらしい。


亘は反応の鈍い妻に背を向け、冷蔵庫のビールの缶を開けた。力を入れすぎたせいか、プルタブが缶から外れてしまった。


「あたしも飲む」


亘は妻を無視して、キレのあるビールで喉を冷やした。


「何怒ってはるんですか」


沙也加はつま先立ちで冷蔵庫までやってきた。


「怒るだろ。常識的に考えて。一週間も家を空けたんだぞ。お前は何のために……」


夫婦に役割を押しつける男なんてもう古い。今年入った新人社員が雑談の際に言っていた。亘もその時肯定したが、本当は耳に入っていなかった。


当事者にならないとわからないこともある。妻の目が、引き結んだ唇が、亘との拒絶を表していた。


「だから……、言いたくなかったんだよ」


沙也加は寝室に入り、日付が変わる時刻になっても出てこなかった。 


一時過ぎまでリビングで酒を飲んだことを、亘は覚えている。酒量が多くなかったにもかかわらず、潰れるまであっという間だった。


亘の頭に冷たいものが載せられた。水につけたタオルだ。気づいていたが、目を閉じ、寝息を立て続けた。厚いカーテンの隙間から射し込んでいるの日の光が憎らしく思えてくる。


酒宴の後かたづけをする音が止むと、次いでケトルが湯を沸かす音に取って代わった。


「ゴミ捨てて来てくれる? 朝ご飯作っちゃうから」


「ああ……」


亘はふらつきながら、妻の指図に従った。妻の横顔をちらと見ると、既に髪を整え化粧も終えていた。


「どっか行くのか」


ゴミ捨てから戻った亘はテーブルを挟んで妻と向き合った。悪い予想は不思議と当たるものだ。今回の場合もそうなりそうだった。


「今日は家でゆっくりするつもり。どうして?」


「化粧してるから」


沙也加はすっぴんで過ごすことが多い。素肌に自信があるからだろうが、それも近所を歩く範囲に限られる。


「きれいにしてたら、亘君の機嫌も直るかと思いまして」


沙也加はまるで付き合いはじめの頃のような口振りで、亘を翻弄した。


「誤魔化すのはもうよさなか。俺に言いたいことがあるんだろ」


色仕掛けに失敗した妻はがっくりと肩を落とした。


「亜美ちゃんのこと大変でしたね。お義兄さんから聞きました」


兄嫁は体調を崩し、兄はその面倒を看ている。沙也加はその話も既に聞き及んでいるらしかった。


「俺が勝手にやってるだけだから」


「亜美ちゃん、可愛い子だったのにね。わからんね、こいうのは」


沙也加は額に手を置いて嘆いた。それでも前を向いた時には口調を改め、亘に考えを改めるように促す。


「でも亜美ちゃんはうちの子じゃない。亘が無理して背負い込むことないんだよ」


沙也加の見解は概ね正しい。亘には亘の人生がある。感情移入するのは勝手だが、共倒れする可能性も否定できない。


「無理はしてない。何だろうな、あの子のやったことは許されることじゃない。でも放ってはおけない。肉親だからとかじゃなく、俺は俺の問題として認識している」


沙也加はため息をついた。亘自身、要領を得ない答えだとあきれるしかなかった。


「俺の問題ですか。水くさいんじゃないの? あたしに一言あってもいいんじゃない」


「だってお前どっか行ってたし」


沙也加は目をそらした。亘も詳しい追求に二の足を踏んでいる。今衝突すれば破局は避けられないと直感していた。


「……、京都行ってたのよ」


「何のために」


いよいよ不倫の線が濃厚になってきた。亘の動悸が激しくなる。


「職探し。博物館の学芸員になることが決まった」


亘は一端天井を仰ぎ、妻の目をまともに見た。


妻はテーブルの上に博物館の資料を載せた。亘はそれに見向きもせず質問を続ける。


「あれって資格とか必要なんじゃなかったっけ。いつの間に勉強なんか」


「亘君、忙しくてろくに相手してくれなかったじゃない。その間に大学に通ってたのさ」


妻は亘の目の行き届かない所を責めつつ、後ろめたい様子で語尾を萎ませた。


「なんだよ、それなら言ってくれたらよかったのに。なんだあ……」


亘は勝手に一人安心していたが、思い直して顔を引き締める。夫婦の危機に繋がる事実であることに変わりはない。


「京都って言ったな。ここから通うのか」


「いいえ」


妻はきっぱりと言い、テーブルの上に見知らぬ鍵を置いた。


「俺の何が不満だ」


喜劇だ。沙也加の方が自分の人生の羅針盤を握って漕ぎだそうとしている。亘一人だけが、嵐の中の船で右往左往しているような気がする。


「不満なんかないよ。亘君やさしいし」


「嘘つけ。だったら出ていくことないじゃないか」


やっぱり男ができたんじゃないかと、疑いをぶつけそうになったが、ギリギリの所でプライドが邪魔をした。


「亘君の重荷になりたくないんだ」


卑下する必要なんかない。釣り合いが取れなくなる。吹けば飛ぶほど軽いんだ、男って奴は。


「そんなに俺は頼りないか」


「逆。頼りになりすぎるのも考え物だよ。私なんていなくてもいいんじゃないかって時々思うの」


亘が意固地に自分の生き方を模索していたように妻も必死に自分の人生を模索していたのだろう。


沙也加は亘が思う以上に思い詰めている。気づけなかった亘の落ち度だ。彼は指輪を静かに置いた。


「……、離婚届け貰ってくる」


亘は声が震えないように気を配ったが、それでも手の震えは押さえきれない。


「ちょっと待って」


沙也加が亘の腕を掴んだ。彼女の方が落ち着いている。亘にはそれが腹立たしかった。


「誰も離婚するなんて言ってないでしょう」


「言ってるのも同じだ」


「違う。とりあえず、座って」


亘は言われるがままに座った。もう煮るなり焼くなり好きにしてくれという心境だった。


「私なりに考えた結果なの。私は亘君のこと愛してる。でも、今のままじゃそれだけで終わっちゃう。花の咲かない鉢植えに水をやってるようなものよ」


「まるで俺がお前を愛してないような言い種だな。それは聞き捨てならないよ」


「そうかしら。未練があったらそんなに簡単に指輪外さないでしょ」


亘は忌まわしそうに、指輪をにらむ。数分前まで輝いていたと思っていたのに、ひどく黒ずんで見えた。


「私は何があっても外さないわ。誓いを立てたから」


誓いを盾に、沙也加は別居を迫る。亘に勝ち目はなかった。


「……、わかった。好きにしてくれ」


「ありがとう。ずっと夢だったから」


亘は妻の夢を全く知らなかった。十数年寝食を共にしていたのに、情けなくなった。その上弱みまで持っている。


「やっぱり俺が悪いんだよな。子供もできないし」


沙也加は亘の手を握り、首を振った。二人は悲しみを共有するようにテーブルを挟んだ頭を垂れた。


しばらくして、沙也加が笑いだした。


「笑うことないじゃないか」


「いえ、いえ、ごめんなさい。やっぱり亘君でよかった。ずっと一緒にいてくださいね、あなた」


沙也加は亘の無骨な指に指輪を戻した。むずがゆさと、年月の重みが亘の意識を揺り動かす。ようやく我が家に帰ることを許されたような気がする。


朝食を食べた後、今後の予定を二人で話し合った。


どのくらいの頻度で会うのか、連絡の方法はといったことなど、沙也加は綿密に決めにかかった。亘が口を挟む余地はほとんどない。そのアグレッシブな姿勢に触れるにつれ、別居に対する不安は幾分薄らいだ。


「なんか遠距離恋愛のカップルみたいね、あたしたち」


「その気持ちが長続きするといいけどな」


果たして二人は離れてやっていけるのか。どれだけ緻密な計画を練っても、亘の不安は完全に払拭されたわけではない。家も広くなるし、家事も自分で済ませなければならない。これまで沙也加に任せきりだったこともあり、負担が必ず増えることが予想された。


「最低月二回は絶対、会いましょう」


沙也加は自分に言い聞かせるように必須条項を定めた。亘に異存はなく、思いの外スムーズに進んだ。


「こういうの世間ではなんて言うか知ってる?」


「いや」


「卒婚って言うのよ」


あまり響きのいい名称ではなかった。亘は不吉な儀式を頭から閉め出したくてたまらなくなった。流行の感性は、やはり亘にはそぐわないらしい。


「掃除してる時にこんなの見つけた」


そう言って沙也加は一枚の写真を差し出した。黒いセーラー服の少女が、被写体だ。校門とおぼしき場所でレンズに顔を向けている。業証書の入った筒を持っているから、卒業式の直後を捉えたと思われる。


「これ、お前の若い頃か」


「違うわよ! 見覚えない?」


沙也加に怒鳴られ、不本意ながら注意深く写真を眺める。目をこすり、老眼鏡を手元にたぐりよせる。


「わからん……」


「もう、鈍感ね。亜美ちゃんよ」


言われてみれば、目元や口元のほくろに特徴が姪と一致する。だが、髪は現在とは違い明るい色に染めており、表情もやや固い。前途に対する希望と少しの不安が入り交じり、彼女を大人でも少女でもない中途半端なものにしていた。


「派手な高校生生活を送っていそうだな」


亘は適当な言葉が見つからず、印象をそのまま口にした。が、沙也加は全く逆の感想を抱いていた。


「そうかしら。きっと色々我慢してたと思うわ」

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