ハーメルンの笛吹き男
内見で案内されたアパートの一室は1LDKで日当たりも良く、最寄り駅まで徒歩十分。申し分ない立地だと説明を受けた。
部屋は当然清掃されていたが、先住者の息吹がそこかしに感じられた。たとえば、うっすらと柱に付いているシール跡を水島はしげしげと観察している。
ここまで車で案内してくれた不動産会社の男は、ごゆっっくりどうぞと、亘と水島を置いて逃げるようにドアに走った。大方、亘たちの臭気が耐えがたかったのだろう。居酒屋でビールだけでなく焼酎にワインまで呑んできたのだから。二人とも赤い顔をしてフローリングの床に座り込んでいる。
素面でここに来る気はしなかった。
なぜなら、この場所は亘の姪が男と暮らし、その男を殺害した部屋と同じ間取りなのだから。
正確には姪が暮らした部屋ではない。姪の部屋は既に別の住人が入居しており、同じ階の二つ隣の部屋を不動産屋で見つけ、今に至る。
亘か水島か、どちらが言い出したのか彼らは覚えていない。それほど酔いが回っている。水島に至っては正体をなくしかけ、シール跡を愛おしそうに撫で続けている。
「懐かしいなあ……、よく机とかにシールはりませんでした?」
「知らねえ。それより何か暑くないか」
締め切った部屋に湿気がこもるのはいかんともしがたい。亘は腕を振り回すようにして、窓を探った。元々酒に強くない亘は人事不省寸前だ。
洗面所近くの白い扉を思いあまって開ける。目に飛び込んできた光景に酔いが一気に醒めた。
モスグリーンの湯船が、隅に押し込められるように置かれていた。二人が入ればそれだけで窮屈になりそうだった。
「あれがそうですか」
亘の後ろから首を伸ばした水島がいわくありげに言った。
姪が殺した相手は、同棲していた男だった。
発見時、男は並々と張られた湯船の中に顔を突っ込み溺死していた。バスルームには幼い子供が遊ぶような玩具が散乱していたらしい。
姪は自分で警察に電話し、犯行を自供後、逮捕された。
犯行の動機を姪は金銭によるものであると話している。男には借金があり、姪はたびたびその補填をしていた。それが耐えられなくなり、殺したという。
「姪御さんはスポーツか何かやってましたか」
「いや……、そういう話は聞いてない」
姪の袖からのぞいていた手首は細く、かなりきゃしゃだった。とても、男を押さえつけて溺死させるような剛腕には見えない。警察もその点を不審に思っており、共犯の存在を探っていたが、今のところ見つかっていないようだ。
亘たちは何の手がかりも得られずに、アパートを出た。ペット不可という張り紙が亘の目に焼き付けられた。
二
姪との四回目の面会はしめやかに行われた。
姪は前回の感情の高ぶりが、非礼だったと考えているらしく、何度も頭を下げた。
亘の機嫌を損ねれば、外界との交渉役がいなくなる。それを恐れているのだろう。
「犬が欲しいなんてもう言いません。良い子になります私」
就学前の児童のような頼りない言動は、亘を不安にさせる。これは教育の失敗なのか、それとも……
「あの部屋、ペット不可だったじゃないか。バレないように飼うの大変だっただろう」
嫌みでもなく、心配を述べたのだが、失言の可能性もあった。姪の身辺調査をしていたと思われても仕方がない。
幸い、姪の纏う鎧がこれ以上堅固になることはなかった。イタズラを打ち明けるように姪はそっと教えてくれた。
「バレなきゃいいって、荒太が。意外と上手くいってたよ」
荒太というのが男の名前だ。既に亡くなっていることを感じさせない姪の言動に違和感を覚える。
「相手も犬が好きだったのか」
「ううん。嫌いだった」
彼らの生活は、亘の若い頃とは恐らく異なっている。想像の働かない領域に踏み込むのは、勇気がいった。
「その人はどんな仕事をしてたんだ」
亘の質問責めに、姪はその日初めて笑みを見せた。
「叔父さん、パパみたい」
「今はそう思ってくれても構わない」
亘自身馬鹿げた考えだと笑ったが、二人は赤の他人というわけでもない。小さな結び目は、姪の鎧に確実な影響を与えた。
「パパのお眼鏡に叶うかわからないけど、ゆーちゅーばーをしてた」
亘は何度か聞き返したが、言葉の意味を理解できない。どこかで聞き覚えはあったが、遠い異国の言葉のように脳は認識している。
「ネットに動画を上げて広告収入を得る仕事だよ」
「おお……」
姪のインテリジェンスを前に、亘は形無しである。恥を捨てて質問を続ける。
「それは儲かるのか」
職業柄、収入は一番気にかかる所だ。仕切りスレスレまで顔を近づける。
「二十代で億ションに住んでる人とかいるよ」
「ふーん……そうかあ」
負け惜しみのような妙な相づちが出てしまう。亘は、漠然と山師のような想像をしている。地道にコツコツという考えはもう古いのだろうか。
「でもそれもほんの一握り。荒太はその中に入れなかった」
残念そうでもなく、さも自明の理であるかのように姪は言った。現実を受け入れている。さっきまでの幼さとのアンバランスさに亘は戸惑う。
「この世界はバカばっかなんだよ。でもそれを指摘しちゃうと社会は終わっちゃう。バカたちを踊らせて社会を回す。ハーメルンの笛吹男。それが」
ユーチューバーという仕事なのだと、姪は結論づけた。
「ひどいな。みんな川にどぼんか」
「川ならまだいいけどね。冷たくて目が覚めるでしょ」
皮肉を交え、暗たんたる末路を笑う目の前の彼女の像をまた見失いそうになる。乗せられていると亘も自覚しているが、どうにもならない。
「亘はバカの中で賢い振りを続けることができなかったんだよ。亘はバカだ。大バカだ」
「だから殺したのか」
姪はちょっと黙ってから、作業服の袖をいじりつつ答える。
「そうだよ。頑張らないから殺したの」
亘は自分の身分が姪の神経に触れることを危惧し始めた。
「おじさん、最近よく来るけど、仕事はどうしたの?」
姪の鋭い視線が仕切りを突き抜け、亘に照射する。
「色々あってリフレッシュ休暇中だ。お前のせいじゃないぞ」
「いいよ。気を遣わなくても。悪いの私だし」
罪の意識があり、刑にも服している。それなのに何故か亘にはまだ、姪の心にエアポケットのような奈落があるような気がしてならない。
「頑張れない時だってあるよ。ポコだって」
姪が幼さを滲ませて顔をゆるませるのを見計らって、亘は攻守の入れ替えに踏み切った。聞き出せるだけの情報を引き出すことに成功した。
飼っていた犬との出会い、付き合っていたユーチューバーとの生活、どれもきらびやかとはとても言えないものだった。まるで、鉢植えの裏にいる虫のようなあがきだ。
だが話している間、姪の目は輝いていた。バイト先で知り合い、好きな映画で盛り上がったこと、嫌いな映画も一致したこと。月末は、お金がなくなり、パンの耳にミソをつけて食べるのが好きだったこと。石を集めるのが男の趣味で、部屋が石で一杯になったこと。姪がこっそり石捨てて喧嘩して、後に仲直りしたこと。男は子供の頃から映画監督になりたくて、夢が叶わなかったこと。
「これを見てください」
後日、水島と居酒屋で会った際、スマホの動画を見せられた。
亘の手は知らず知らず、スマホを壊さんばかりの力で握り締めていた。
動画は、あるユーチューバーの作品だった。スクール水着を着て踊る女性に見覚えがある。姪だ。コメント欄には卑猥な文言や煽りがびっしり書かれていた。
「けっこう際どいことやってBANされたこともあるらしいですよ。惚れた弱みって奴ですかね」
「違う」
亘は即座に否定した。口にしてから自信がなくなり、別の言葉を添えた。
「頑張った結果だよ。良いも悪いもない」