平成の遊郭
亘はこの辺りの地理に詳しくない。水島に先導に任せ、ぶらぶら歩いた。
水島の歩く速度はお世辞にも早いとは言えない。どんどん後から来た人間に追い抜かれる。ぶつかられても、水島は人なつこい顔で謝るだけだ。
そんな水島と、亘はだいぶ距離が開いていた。
亘はペットショップの前で動けなくなった。まるで呪いでもかけられたように、足が前に踏み出せない。
ガラスケースの中の子犬たちが一斉に亘を見ている。こんなことはありえないはずだ。
動物の目は哀れを誘うというよりむしろ憎悪を喚起した。
まるで、藁にもすがる人間のような淀んだ目にさらされ、逃げ出したい。だが足が動かない。
「大丈夫です?」
戻ってきた水島に背後から呼びかけられ、金縛りが解けた。
「あ、ああ……」
動物たちは手足を縮こませ、寝入っているものがほとんどだった。目を開けているものがあっても、甘えるようなすがるようないじらしい姿態を亘に見せている。姪の犬に対する執着ぶりは異常だった。そのせいで、妙な幻覚に脅かされたのだろうか。
「ペットショップって、まるで江戸時代の遊郭ですよねえ。おっと失言」
わざとらしい仕草で口元に手を当てる水島に、亘は笑いそうになり、それを誤魔化すために背中を強めに叩いた。
「いったいなあ……、先輩フェミニストだったんですか?」
「ふぇ、フェミってなんだ?」
水島は様にならないのに肩をすくめ、亘の無知をなじる。亘は横文字が大の苦手だ。
「まあ、それが先輩の良いところかもしれませんね」
「おだてたら奢ると思ったか」
「実は今月事務所の家賃ピンチなんすよ。可愛い後輩を助けると思って!」
手を合わせて拝むように、亘にすがる水島を振り払えるほど白状ではない。頼られるのは嫌いではなかった。
「生きづらい世の中になりましたよね」
店を物色する最中、水島が不意うつように言った。
「何の話だ」
「いや、この間、元暴力団員の男性に会ったんですけどね。足洗っても大変らしいですよ。カタギにとけ込むの」
世間の風当たりも厳しく、再び罪を犯す者もいると亘も聞いたことがある。これまで自業自得だろうと、じっくり考える機会もなかったが、亘のような考えが、彼らの社会復帰を妨げるのかもしれなかった。
「でもカタギにはカタギの流儀があってだね」
「そこなんですよ! 頭が固い人たちが陥る罠は。本来人間に垣根は存在しない。今こそ遊郭を復活させるべきです」
「何言ってんだ、お前は」
「我々は同じ男同士じゃないですか! 女体に触れれば起つ。マスラオ同士じゃないですか! 平等なんですよ。無血革命だ。政府はカジノなんか作らないで遊郭を作るべきだ。やべ、俺、平成最後の勝海舟になっちゃうかも」
「帰っていいか。疲れた」
通りすがる人の目がこれまでにないほど痛烈に突き刺さる。主に女性の目が。
つるむ後輩を間違えたのが、運の尽きだったのかもしれない。
二
運良く居酒屋を見つけた二人だったが、新たな問題に直面した。
「えー! 全席禁煙なんですか」
水島は店の外に聞こえるような大声で、落胆した。壁際で店員とのやり取りを見ていた亘はあまり驚かなかった。
東京都は、飲食店の原則禁煙を実施しようとしていた。愛煙家にとっては厳しい時代が続いている。
「いいよ、水島。俺が我慢すりゃいいだけの話だ」
亘が譲歩すると、まだあどけない顔をしていた女性従業員は心底ほっとしたように席に案内してくれた。彼女は亘の姪と同年代くらいだろうか。姪の顔がちらついて、亘は努めて下を向いていた。
入り口からは見えづらい奥の席に二人は案内された。
「で、どうでした。姪御さんは」
まじめ腐った顔でいきなり本題を追及されたのは意外だった。そもそも何年も会っていなかった水島に亘が接触したのも、姪の事件を相談した事がきっかけだったのだから驚くのもおかしな話である。
「わからない……、あの子は心を病んでいるのかもしれない」
三回の面会で姪の正気を信じる気持ちは薄れていた。刑務所に犬を持ち込みたいという時点で、常軌を逸していると言わざるをない。
「先輩はどうしたいですか」
兄夫婦と姪の折り合いが悪く、姪との橋渡しを頼まれているが、亘がそれを律儀に守る必要は果たしてあるのか。
水島に連絡した理由も、亘自身よくわかっていなかった。記事にして欲しいとも思わなかったし、冤罪を信じたわけでもない。
「話、聞いて欲しいんですよね」
亘は子供のように膝を震わせた。核心を突かれたようで動揺を隠しきれなかった。
「姪御さんもそうなんじゃないですか。話聞いてあげてください」
「もうしてるよ。でも無駄なんだ……、何度やっても」
亘は口を閉ざした。ビールジョッキを持った店員が近づいてきたからだ。重そうなグラスは亘と同じように汗をかいていた。
「争いの原因は無理解から起こる。でも本当に理解することなんてできっこない。でもやるしかないんですよ。めんどくさくても」
当事者の亘よりむしろ、水島の方が熱を帯びている。大学を卒業してから疎遠になっていたから、その間彼に何があったのか亘は知らない。出版社を興した経緯も聞かずじまいだ。何となく聞きづらい雰囲気もあった。
「今の熱弁、うちの若い社員にも聞かせてやりたかったよ。効率効率ってよ、飲み会にも来やがらねえし」
「パワハラモラハラハラハラうるさいですよねえ。江戸時代は上から言われたら喜んで腹切ってたんだ。それに比べたら可愛いもんですよ」
とても表ではできない会話も酒の席でなら、許される気がした。否、こんな会話も録音されてネットにでも流されたら炎上し、世人の酒の肴になるに違いない。想像しただけで、苦い思いがする。
「若い子の面倒を見るのもおっさん冥利ってもんでしょ。違います? ぶっちゃけうらやましいんですわ。若い子に頼られるってどんな気分なんです」
「別にどうもしやしねえよ。若い奴なんかみんな同じに見えるわ。お前だってさっきのおばちゃんみたいなのに頼られて必要とされとるじゃないか」
「どうなんすかねー、でも話を聞くのは僕の天職みたいなもんです」
あっけらかんと言い放つ水島に羨望の念を抱いた。
亘は自分の職が天職だと思ったことはない。融資した企業が倒産したこともあったし、人でなしと罵倒されたのも一度や二度ではない。姪だけでなく、顧客の話も、妻の話も聞いていなかったのかもしれない。
「奥さん、まだ帰って来ませんか」
狙いすましたように話題を振ってくる。水島は人の心を読んでいるじゃないかと疑うほどだ。
「ああ。明日あたり、捜索願いを出してみようと思う」
「それがいい。どこかで事故にあってるかもしれませんし」
亘は妻が不慮の事故に巻き込まれたとは微塵も考えなかった。リスク管理は徹底していたし、子供のことだってきちんと考えていた。
亘の頭はだいぶすっきりしてきた。一つ一つ課題を設定すれば、やるべきことが見えてくるという基本に立ち返ったようだった。
ジョッキを飲み干し、叩きつけるように置いた。泡が区口の中でねばつく。
「どうだろうな。あいつはまだ若い」
「そういう兆候でもあったんですか」
妻に男の影がちらついたことはない。家を空けることが多い亘が知る術はないが、信じる気持ちは持ち続けている。
「うち、子供いないじゃん」
「はい」
二人は子供を望んでいたが、叶わなかった。授かりものだからそのうちできると、妻は剛胆に笑っていたが、亘には焦りがあった。結婚一年目で、二人で産婦人科に生き検査を行った。
「あいつに問題はなかったんだけど、調べたら俺の方に問題があった」
亘の体は先天的に精子の量が少なく、不妊治療を続けてみたものの成果は出なかった。
「それなら仕事を頑張ろうってがむしゃらにやってきたけど、それが原因なのかもしれないな。あいつは寂しかったのかもしれない」
災難が自分の身に降り懸かるとは、その時にならないと実感できない。いくら備えていてもいざとなったら何の意味もない。姪の事件の前に亘は知っていた。
「女は寂しいと死んじゃうウサちゃんですか」
「お前からすると偏見かな」
「まあ、そういう女性もいるんすけど、先輩の奥さんはそういうタイプじゃないですね」
水島は亘の結婚式に出席し、歌を披露してくれたことがある。見かけによらずヴィブラートのきいたしみいるような歌を聴かせてくれた。
「俺の姪はそういうタイプか」
「どうですかね。あの子は先輩に近いのかもしれませんよ」
亘の頭にかっと血が上った。ガラスに仕切られた姪の目と、ペットショップの犬の目が重なる。何のことはない。あの時感じたのは自分に対する猜疑心だったのだ。
「そりゃ、血が繋がってるからな。でも俺は犬が好きじゃない」
亘は他人に弱さを見せるのを嫌う。昔からそうだった。兄の方がむしろ甘えるのが上手く、世渡りもそつなくこなした。
「姪御さんにとって、犬はどういう意味を持つんですかね」
姪は逮捕される数日前まで、犬を飼っていた。ダッグスフンドらしいが、犬種に詳しくない亘にはぴんと来ない。
「犬の件が……、直接的な引き金になったとは考えにくいな」
「わかりませんよそれは」
まるでそういった事情は珍しくないといわんばかりに水島は頷いた。彼と話していると、非日常が日常と裏返しになっていることを痛感する。