水島
今の亘には帰る場所もない。
姪の逮捕から一ヶ月もしないうちに、辞令が下りた。関連会社への出向だったが、事実上の左遷のようなものだった
「君のプライベートとは関係ないから」
上司の含み笑いが、忘れられない。ああ、俺のキャリアは終わったのだ。感慨は湧かない。銀行が憧れの職場だった時代はとうに終わっていたし、どうせ姪のことがなくても適当な理由をつけて飛ばされていたと思う。
隠し立てしておいても仕方ないから、妻には報告した。それを聞いた妻は不満をおくびにも出さずに料理の仕込みに戻った。
それからあっという間に一年が過ぎ、新しい職場にもなれた今年の八月の事だった。
亘が帰宅した時、妻は不在だった。夜七時を過ぎている。嫌な予感がした。携帯にもつながらず、あれから一週間経つが何の音沙汰もない。
亘の妻は断じて薄情な女ではない。同じ職場で知り合い、亘の方が三年先輩だったが、向こうの方がむしろしっかりしている。結婚を機に退職して今は専業主婦だ。
口数は多い方ではないが、多趣味で友人も多い。
付き合い初めの頃も急に連絡が取れなくなることがあった。何か事情があるはずだ。亘は彼女を信じて連絡を待っている。
むしろ連絡がない日が伸びるほどほっとしている自分に気づくこともある。妻は不平を言わないが、亘のつまらないプライドはそれを不服と見るのだ。結局、自分は古いタイプの人間だなと思う。
亘とは対照的に、若者の中には徒にポストに拘らない者も多い。分をわきまえ、でしゃばらないし、余計なものは欲しがらない。いかに彼らに金を使わせるか、その方法を経営者たちは血眼になって探している。
恐らく若者の方が一枚上手な部分もあるに違いない。姪も含めて。それはわかるのだが、安易に認めたくない点で亘も頭が固い。
亘は十分ほど車を走らせ、五反田の雑居ビルの近くの駐車場に停めた。
ビルの三階の窓には漫遊社という名前と電話番号が書かれている。一階はドラッグストア、三階はイタリア料理のチェーン店が居を占めている。
漫遊社は、亘の大学の後輩が作った弱小出版社で、ゴシップを中心に扱った雑誌が主力商品というかそれだけが頼みの綱だ。
亘は雑誌名を聞いたが、大きな本屋にもコンビニでもお目にかかったことがない。
駅中の売店になら置いてあると、後輩の水島は言い張るが、駅名までは教えない。
この水島という男、大学にいた頃からホストのバイトをして学費を稼ぐ苦学性だった。亘も何かと目をかけてやり、無事卒業した時は卒業祝いをしてやった。
人柄は温厚で、身長は百八十、体重は百キロを越す巨漢だ。学生時分から頭髪も薄くなり初め、ホストをするような風体には見えない。酒にも弱く、ホストなぞ辛いだけだろう。亘は親切心から何度もやめるように促したが、水島は笑って取り合わなかった。
人の話を聞くのが好きなのだそうだ。それなら占い師にでもなればいいと、亘は冗談めかして言ったことがあったが、出版社の社長になるとは当時思わなかった。
エレベーターを三階で下りるとすぐにすりガラスの戸があり、人声が漏れ聞こえてくる。
部屋の中は形だけの受付と、ご用の際は鳴らしてくださいというシールの貼られた小さいベルが置かれている。左手はパーテーションで区切られており、そこは来客用と水島の寝床を兼ねていた。
「私はね、思うんですよ。生き馬の目を抜くようなこの社会で頼りになるものはなんだろうとね」
水島の声ではない。それなりに年輪を積んだ女性の声。確か、詐欺被害者で水島の客だ。
「お金なんて、銀行に預けといたら、データに過ぎないんですよ。ちっとも安心じゃない。形あるものが欲しかったんですよ、私は」
「そうですよね。わかります」
ぱたぱたと扇子をはたく音と共に水島が相づちを打つ。目を細めて恵比寿さまのように笑っている姿が目に浮かんだ。
「お、お、お、お金を取り戻したいとかそういうんじゃなくて、ただ、私はこれ以上被害者を出さないように協力をね、社会のために。若い人たちも変な方向に進みがちでしょう。啓蒙してあげないとね」
それから話は、ナショナリズムや、朝鮮半島に及び、結局、詐欺を働いたのは日本を転覆せんと画策する結社の仕業という所に落ち着いた。
よた話は十五分ほどで終わっただろうか。亘はその間棒立ちで聞いていた。
婦人は話の激情家とぶりとは打って変わってすっきりした顔で出てきた。六十代くらいの太った女性で、大きな石のついた指輪が指に食い込んでいる。
彼女は亘を妙な目つきでねめつけると、何も言わずにエレベーターに乗って姿を消した。
「お疲れ様です……」
水島が顔を半分だけのぞかせる。子供のように遠慮がちで、亘の笑いを誘った。
「お前も大変だな。あれが記事になるのか」
「なるんじゃなくてするんですよ。今に見ててください。うちもム○並に有名になりますから」
大志は立派だが、方向性が疑問だ。
先行きを心配するが、所詮他人事である。亘はデスクに背広を叩きつけるようにして置いた。埃が舞う。
水島はびくっと体を震わせた。彼は人との距離の取り方に繊細な所がある。
「何だよ」
「い、いやあ、言っていいのかな」
亘は煙草を探したが、見つからない。苛立ちが顔に現れているのを、亘は気づかない振りをして押しとうそうか考えたが、大人げない。軽く息を吐いた。
「飲み行くか」
「えっ? マジすか? いいんですか?」
亘の提案に水島は二つ返事で乗った。時刻はまだ十五時を回らない。職業倫理規則もない二人を縛るものは何もないのだ。制約があるとすれば、人の目だったが、亘も水島も、そんなことはおくびにも出さずに出かけていった。