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おじさんとわんちゃん


拘置所での面会を終えた石崎いしざきわたるは、太股を振り上げ、その敷地を離れようとしていた。一時もこの場に止まってはいられないという強い意志が傍目からも感じられた。


世間に対する後ろめたさという、ごく自然な感情もあったが、それよりむしろ直前の面会が彼を動揺させていた。


拘留されている姪は、犬を連れてきて欲しいと何度も亘に頼んできた。そんなことはできないと辛抱強く説得したのだが、姪は激高し、アクリルの仕切りを拳骨で叩き、刑務官に取り押さえられていた。


「七十九番! やめさい!」


灰色の作業服を着た姪が番号で呼ばれるのを聞くと、亘の気は遠のいてしまい、椅子から転げ落ちそうになった。


姪は人を殺した。


兄から連絡が来たのは、職場の会議中でのことだった。眠気は吹き飛んだものの、まだその時は大事とは思わなかった。兄夫婦には同情したが、自分の生活に影響が出るとは考えなかった。


亘の記憶の中の姪は、あどけない小学生の姿で止まっている。十数年前の正月の集まりで会ったのが最後だった。


姪は人見知りだと聞いていたが、亘に懐き、膝の上に乗ってきた。亘は妻帯していたが子供はおらず、どう扱っていいか少し迷った。酒が入っていたので顔の赤みを妻に悟られなかったのが不幸中の幸いである。


「おじちゃん、わんちゃんみたいだね!」


姪の第一声で場は和んだ。亘は苦笑して姪の顔をのぞきこむ。


「どうして僕はわんちゃんなのかな」


「だって大きいもん。私わんちゃん欲しいの」


亘は大学までラグビーをやっていたから、肩幅はそれなりにあった。体型は腹を始め崩れてきているが、姪の安心を買うのに一役買ったようだ。


「でもママは飼っちゃだめって言うの」


姪は亘にだけ聞こえるように小声で言った。後で兄夫婦に事情を訊ねると、兄嫁が犬が嫌いらしくどうしても許容できないとのことだった。


家族で話し合って、姪も納得したと亘は聞いて、その話も忘れ去っていた。


思い出を呼び起こしたのは、テレビに一瞬だけ映った姪の映像だった。警察車両に乗せられ、報道シャッターの暴力的な光を浴びる若い女性。


以前から見せしめのためのショーだというのは理解していたが、下世話な好奇心を煽り、貴方の生活は安泰だという対比をスクリーン越しに強く印象づけてくる。


殺人の容疑で逮捕されたと実名のテロップが流れた時は、まだ姪本人とは気づいていないにもかかわらず、あの子は犬を飼ったのだろうかと暢気なことを考えていた。


兄から今後の対応に追われていると聞かされた。姪は高校卒業後、兄夫婦の家を離れて暮らしていたらしく、兄も何がなにやら、寝込みを襲われたような衝撃を受けたという。


自分にできることは何でも協力すると亘は請け負い、通話を切った。


その時の兄はまだ自分の娘の無実を信じていたのか、優秀な弁護士を知っているからドラマみたいな逆転劇にしてやると、冗談みたいに語っていた。残念ながらその希望は早々に潰えることになるが、誰も兄の楽観を責めることはできないだろう。


常識に照らして、自分の身内が犯罪者になるかもしれないと考える方が珍しい。


亘もその一人だ。血族に犯罪者が、しかも人殺しが出るとは全くもって想像していなかった。 


こんこん。


亘が、目を開けると、だらしない体を面積の少ない水着で覆ったトドに似た女の写真が面前に広がる。三十歳までに結婚したいと、赤字で書かれている。勝手にすりゃいい。子供は三人は欲しい、か。世の女共は本気にする。炎上するぞ、気をつけろ。


こん、こん、こん。


亘の四角ばった顔からスポーツ新聞がずり落ちる。型落ちのセダンの運転席で寝ていたのだ。窓を叩いていたのは、制服の警察官だった。窓を開けると、


「大丈夫ですか」


「あ、はい、すみません。すぐ移動します」


「お仕事ですか」


亘は自分の無精ひげの生えた顎を手でとっさに隠した。営業職には到底見えない風貌だ。突っ込まれたら面倒である。


「……、今日は休みです」


「そうでしたか。ちなみにお仕事は」


「銀行員を二十二年」


勤続年数を答える必要はなかった。つまらない虚栄心だと亘も知っていたが、別にそればかりではない。身分は身分として意味はないが、自分の身を守るくらいには役に立つ。


車を停めた場所が悪かったのだろうか。亘の車の前に小型車が止まっている。パン屋の前で昼食を取り、そのまま寝てしまったのだ。膝の上からパンくずがぽろぽろ落ちる。


免許証を提示し、念のため車の中を改められた。やましいものは何もないから表面上は協力的に応対する。


「良い車乗られてますね。うらやましいなあ」


免許証を返される時に心にもないことを言われた。中古なら貴方にも買えますよと煽りたくなる。誰でもいいからふっかけたい気分だった。


「ご協力感謝します。それでは」


警官の背中がミラー越しに遠ざかると、亘の額から汗が吹き出た。自分は一体何をやっているのだろうかとダッシュボードに力なく手を置いた。


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