びょういんびょういん
よねんまえ そのひとは 重いびょうきにかかりました。
びょうきのせいで おなかにウニがすんでいるようにかんじる日も
だれにもいわず おもてでは いつも平気のふりをして くらしていました。
世のなかには おしばいをなりわいにして生きているひともいるけど
そのひとの演ぎっぷりは 表彰なみに みごとで
それこそ「なりわい」で
彼が ほんとうは重いびょうき ということを だれひとりしりませんでした。
彼は びょういんをしんじていませんでした。
他にんを しんようしていませんでした。
すべての生きものがそうであるように 彼はじぶんをとてもあいしていたので
じぶんのびょうきを じぶんだけのものにしておきたいと おもいました。
じぶんをしんじて しんじれるものだけつづけて。
だれひとりしらんとこで。 生きました。
たったひとりで。
彼は じぶんを こどくとは ちっとも おもいませんでした。
けれど どうにかつづけてきた 演技も
いよいよかなわなくなって
ついにたおれて
入院になりました。
病しつは ひろくて 陽気なもようのそふぁや かべ紙や かざりや てらすがあって
まるで 夏みたいでした 。
だけど 彼のねているベッドは 青白く やけに冷たく みょうにりあるで
のぼせた脳みそを いっしゅんで げんじつにつれもどすいきおいで
そのエリアだけは はっきりと びょういんびょういん しているのでした。
いまこのひと こん睡してて 現じょうわかってないけど
わかったらなんていうやろう。 うれしがるやろうか。 かなしがるやろうか。
だけどいま 何にも知らずに じぶんのせかい 生き生きおよいでいるなら
ひとにとって しらんほうがいいことも あるのかもしれないな。
わにちゃんは ぼんやり おもいながら テラスの前にいすおいて そのうえにまるくなりました。
テラスのがらす戸は したのところがあみになってて
そこから 風が はいったり でたりして
れーすのかーてんが ふくらんだり へこんだり していました。
わにちゃんは 呼吸みたい。と おもいました。
がらす戸の向こうは みどりがあおあおとしげっていて
ときおり 風にそよめいたはとはのあいだに わずかなすきまをみつけたこもれびが
ほそく さしこんでいました。
そして そのいちばんおくからは せみのなくこえがきこえました。
せみは あのちいさなからだからは想ぞうもつかない大ごえで
いまこそないておこう というふうに ないていました。
それは 100ぴきいるようにも 1ぴきしかいないようにもおもえました。
ふいに ねているひとがおきた ような気がしたので わにちゃんは ふり返りました。
ねているひとは ねたままでした。
そして ベッドのよこの チェストの上に アイポッドをみつけて 手にとりました。
なかみは 落語と 笑いヨガと 宮下富実夫でした。
わにちゃんは おんがくききますか とねているひとにたずねると
へんじのないまま アイポッドをスピーカーにつなぎ 宮下富実夫 をかけました。
病しつに 「やすらぎ」 がながれました。
わにちゃんは ちょっと ねむたくなって そふぁに ねころびました。
そして めをつむりました。
彼がしんだよる 満月は おおきな だいだいいろでした。
" かーてんのまどの向こうで せみがないてる
このへやは えいえんに 夏を演じつづける
もしいま そとのけしきがふゆでも "




