<五> 姉妹の一大事件
戦艦『榛名』食堂室には、人一人、誰もいない。
電気が点いていて明るいが、外は夜闇に溶け込んでいる。
食堂室の時計が指す針は、既に日にちが変わり、午前零時を回っている。
人一人いないはずの食堂室に、何故か女性の小さな嗚咽が呻いていた。正に怪談のような不気味さである。しかし、それは人ではない。人一人いないが、確かにそこには誰かがいた。
食堂室の中央、兵員たちが食事を済ませる机に突っ伏して表情が見えない。「うっ…ううっ…」という嗚咽の音源はそこからだった。
食堂室に、また一人、入ってきた。
和風な着物を着た清楚可憐な女性。女性は食堂室に入り、机に突っ伏して嗚咽を漏らしている彼女を確認すると、彼女の方へと歩み寄った。
伊勢だった。伊勢は嗚咽を漏らす彼女の隣に立つと、彼女に呼びかけた。
「榛名…」
榛名と呼ばれた彼女は反応せず、突っ伏した顔を上げずにずっと嗚咽を漏らしたままだった。
伊勢も隣の椅子を引いて自分も座った。
すぐ隣で、長い付き合いの彼女の嗚咽が聞こえる。
「うっ………うううっ……うぅ…っ」
「………」
三十年の付き合いの中で、榛名が泣くところは伊勢が一番よく多く知っている。榛名は気が強く弱気を見せないから他の艦魂たちは滅多に榛名の落ち込んでる姿は見たことがあっても泣いているところは見たことがない。しかし長い付き合いの戦友である伊勢は知っている。皆は知らないが、比叡・霧島、そして金剛が戦死したときも榛名は一人泣いていた。伊勢だけが知っている。
そして絶望と孤独で苦しみ落ち込んでいただけでない、泣いていたのもあった榛名を、救ったのが神龍という新たな妹だった。
神龍本人ももちろん榛名が泣いていたことなんて知らないし、救ったとも自覚してない。
だが神龍は確かに榛名を救った。
これは変わりない事実。
しかし、そんな神龍に、榛名は泣いている。
救ってくれた神龍に大きな衝撃を受け、伊勢が来ても構わずに泣いている。
こんなに泣いている榛名を見るのは久しぶりだった。
「榛名…」
「私、は……」
嗚咽の隙間に、榛名の声が届いた。
「…嫌われ、た……神龍に………嫌われて……しま……」
ううっ、と嗚咽を漏らす。
伊勢はふぅ、と溜息をついて肩を落とした。
「榛名。自分がなにをしたかわかってる?」
「………」
「だからよく見て考えてあげなさいって進言したのに…」
ちゃんと自分の目で見て確かめに行った。だがあの光景を見て、熱い衝動が自分を駆り立てた。身体が勝手に動いた。そして、気がつけば涙で潤ませた神龍に、嫌われた。
榛名は恥もせず、ただただ泣いていた。唯一女の子らしい一面だった。
「私は…あの子のことを………考えて……なのに……ううっ」
伊勢はそっと、榛名の震える肩に手を置いた。
「榛名」
戦友の優しい声が、聞こえる。
「泣きたければ、気が済むまで泣きなさい。そして、泣いたらこの先どうするか考えればいい。でも今は考えてなくていい。ただ泣くだけでいいのよ…」
「あぁううっ………」
その時、榛名は伊勢に抱きついた。伊勢の胸に、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる顔を埋める。温かい柔らかな感触が榛名の顔面を包む。伊勢は榛名の頭をそっと撫でた。
付き合いの長い戦友。いや……親友、とも言える。
ずっと傍にいた。お互いに。
辛いときも、悲しいときも、嬉しいときも、いつだって傍にいた。いてくれた。
そして、今も傍にいてくれる。
伊勢も榛名を抱きしめる。
榛名は伊勢の胸の中で、一層声をあげて、泣いた。
そんな二人の光景を、食堂室の入り口の影から、一人の青年がそっと窺っていた。
心配そうな顔で、二人を遠くから見る。
彼の名は、二ノ宮朱雀砲術少尉。戦艦『榛名』の砲術士を務める青年だった。まだ青い顔をした青年だが、その目はとても悲しそうな目だった。
そして、彼は『榛名』の中で唯一人艦魂が見える人間だった。榛名との出会いは二年前で、その二年間の間で伊勢並みに榛名と接している。いつも榛名の手厳しさの相手を強いられているが、本人はそれを楽しんでいる。
しかしあの強気の榛名が、泣いているところなんて初めて見た。今は伊勢が慰めているが、自分が出る幕はなさそうだ。原因はわからないが落ち込んで帰ってきた榛名の傍にいてやろうと思っていたが、やはりこういう時は自分より遥かに長い付き合いの伊勢の役目だ。
二ノ宮は背を向けて立ち去ろうとすると、目の前に女性が立っていて足を止めた。
「日向…」
「心底暗い顔してるわね、あんたも」
彼女は、伊勢の姉妹艦、伊勢型二番艦『日向』艦魂―――日向だった。長い黒髪にちょこんと縛ったツインテールを揺らし、二ノ宮に歩み寄った。二ノ宮は一歩後ずさりすると日向は眉をピクリと吊り上げた。
「…なんで後ずさるのよ」
「いや、なんとなく…」
二ノ宮は日向のことが苦手だった。姉の穏やかで綺麗な伊勢とは反対に、妹の日向は榛名並みに気が強くて、自分の間違いを認めないような傲慢娘である。三十年も生きてるくせに子供っぽい少女だった。だからこれは彼女が近づいてきたら遠ざかりたくなる条件反射である。
「…まぁいいわ。どう?榛名…」
「ああ…」
チラリと、食堂室を一瞥した二ノ宮は口を開く。
「今は伊勢が傍にいてくれている。しばらくあのままにしておいたほうが良さそうだ」
「そう…」
普段の気が強い日向には滅多に見せないシュンとした表情になった。
「だけどあんな榛名の姿見たことないよ…」
「あなたはまだ二年ぽっちの付き合いだからね。あたしは三十年、榛名を見てきたから知ってるわ。でもあんなの、今までに数えるほどしかなかったのに…」
やはり伊勢と同じくらい長い付き合いである日向がそう言うほどよっぽどのことなんだろう、と改めて二ノ宮は思う。
「一体なにがあったんだ?」
二ノ宮が問うと、日向は口を閉じた。「あー…」と漏らすだけでなにも喋らない。目を逸らし、どう答えていいかわからない様子だった。
しかし二ノ宮の顔を見てみると、本当に真剣な顔だった。それほど榛名のことが心配なんだろう。日向は溜息を吐いた。
「なんていうか… 姉妹喧嘩とでも言うべきかしらね…」
「姉妹喧嘩?」
二ノ宮はよくわからなかった。二ノ宮は榛名の姉妹を思い浮かべた。榛名の姉妹といえば…姉の金剛・比叡、妹の霧島…。しかし榛名の姉妹艦は悲しいことだが全て沈んでしまっているはずだが…。
「馬鹿。違うわよ。神龍のことよ」
「神龍?あの護衛戦艦『神龍』のことか?」
「そうよ」
「『神龍』も金剛型なのか?」
「大馬鹿。本当の姉妹じゃないわ。榛名は神龍のことを妹のように可愛がってるからね」
「ああ、そういうことか…」
二ノ宮は納得したような顔になる。とりあえずその神龍という妹が原因なのはわかった。
「それでそこまであんな風になるのか…」
「まぁ、色々あるから…」
日向は苦笑いする。二ノ宮はやっぱりなんだか腑に落ちない気持ちだった。
「喧嘩、か…。榛名は随分と堪えてるみたいだけど…」
「妹のほうも、堪えてると思うけどね…」
「え?」
日向は背を向けると、ちょこんと縛ったツインテールが揺れてさらりと長い黒髪が流れた。その背までかかった黒髪を見詰め、日向は二ノ宮のほうに振り向かずに言った。
「今は姉さんが傍にいてくれているけど、女って悲しいときは親友もそうだけど、親しい男の子にも傍にいてほしいものなのよ」
二ノ宮が口を開く前に日向はその場から光に包まれて消えていった。一人残された二ノ宮はその場に立ち尽くし、頭を掻くと、榛名の嗚咽が聞こえながらその場に居続けることに決めた。
「申し訳ありません、三笠二曹」
あの一瞬の騒動の後、神龍は何処に消え、放っておいたらいつまでもその場で凍ったように立ち尽くしていたであろう榛名を後から現れた伊勢が連れて帰り、『神龍』艦内の三笠の自室には、三笠と、三笠が初めて見た新たな二人の艦魂がいた。
三笠の目の前にいる二人の艦魂、矢矧と雪風の二人が、三笠に頭を下げた。
三笠は慌てて頭を下げる二人を声で制する。
「いいよいいよっ!そんなに気にするなっ…!」
しかし矢矧が首を振った。
「我々も観察していたにも関わらず、こんな事態になることを阻止できなかった。これは我々の不覚であり失態。我々の責任でもあります」
「はっ?ちょっと待て。見てたの?」
「はい。榛名参謀から偵察の任を受けて失礼ながら三笠二曹と参謀長の様子を観察させていただきました」
「あぁ…そう……」
しかし何故自分と神龍のことをそんな風に観察されるのかが理解できずに首を傾げる三笠の前に、雪風の童顔が詰め寄った。
「二曹さん」
矢矧の隣で頭を下げていた雪風がその童顔の眉間にしわを寄せて真剣な面持ちで三笠を見詰めた。ふわふわした髪からいい匂いがする。三笠の顔のすぐ傍まで詰め寄った雪風との距離の近さに三笠は目を見開いたが、雪風は構わずに口を開いた。
「どうか……榛名参謀を、お許しください…」
雪風が深々と頭を下げる。三笠はそんな雪風を見て戸惑いの表情を見せ、矢矧も隣で深々と頭を下げる雪風をジッとその仮面のような無表情で見詰めていた。頭を上げた雪風の表情は先ほどの真剣から変わってその童顔であるが故に悪いことをして反省して落ち込んでいる中学生のようなシュンとした表情になっていた。
「榛名参謀は本当に妹想いのかたなんです…。 元々気がお強いのもあるので時々強く出すぎてしまうところも御座います。……ですが、決して悪気はないのです。そこの所をわかってくださいませんか…?」
雪風は心配そうな潤んだ瞳で三笠を見詰める。そんな純粋な子供のようなうるうるした瞳で見詰められたら、なんでも許してしまいそうになる。だが、三笠は最初から怒ってなどいなかった。
「まぁ… その『榛名』の艦魂だって神龍のことを思って行動したんだろ?それはちゃんとわかってるつもりだ。ま、本当にあの人の気持ちを俺がわかっているかなんてことは、正直言って本当の意味でわかっているかどうかなんてわからないのかもしれないしな…」
雪風は目をぱちくりさせた。
「許してくださるんですか?」
「許すも何も、怒ってもないぞ。彼女は彼女なりに神龍を守ろうとしたんだろ。俺だって妹がいるから気持ちはわかる」
矢矧と雪風は三笠の含まれた言葉の部分に反応して目を見開いた。
「二曹さん、妹さんがいらしたんですか?」
「ああ、いるよ。そういえば神龍にも話したことなかったな…。母親は昔からいなかったから妹の世話も飯も俺がしてたけっな…。小学生なんだけど、今は広島に疎開してるんだ。ここの呉とは近いだろ?だからたまに妹のことを思い出して広島のほうを見ることだってあるし、手紙も出す。そして妹がいる広島のすぐ近くのここにいると、『神龍』に乗っていて、妹を守るんだって思える。もし敵が攻めてきたらここで守れるしな…」
矢矧と雪風は三笠を見詰めて黙って聞いていた。三笠はそんな二人に続けて言う。
「だからさ、妹を想う榛名の気持ちはわかると思う。だけどちょっとやりすぎただけなんだ。 そして、お互いにお互いのことを考えて理解しなきゃいけないと思うんだ…」
矢矧と雪風は頷いた。
そして二人の心の内では三笠のことを感心していた。
妹を大切に想うが故に妹を守りたい気持ちに動かされ、度が過ぎてしまった。姉妹の隙間にいた彼は、その気持ちに巻き込まれた。姉妹の摩擦に巻き込まれただけ。しかし彼は気にしていない。むしろ理解する。
三笠の広い心に、矢矧と雪風はほっとした。三笠は、全然怒ってなどいない。自分が蹴り飛ばされたことも気にもしない。それより榛名と神龍のことを、姉妹のことを心配してくれている。
「神龍を捜そう」
三笠は立ち上がると、続いて矢矧と雪風も立ち上がった。
あの騒動のとき、神龍はどこかへ消えてしまったが、艦魂は本体の艦からは遠くまで離れることができない。だから艦内にいるのは間違いないだろう。しかし『神龍』は大きく、広い。捜すのは困難だ。だが、それでも捜したかった。
「まずは神龍を捜すんだ。一刻も早く見つけよう。えーと……矢矧、君は艦首方面に。雪風は艦尾側を頼む。俺は思い当たるところを捜してみる」
三笠のテキパキとした指導に、矢矧と雪風は本来の軍人らしい姿勢で応じる。
「諒解!」
「任せてください!」
矢矧と雪風は敬礼すると、その場から光に包まれて消えていった。
「(俺も、慣れたもんだな…)」
あの時、見えた彼女の零れた涙の雫を思い出し、三笠は自室から飛び出して、廊下に駆け出した。
今回の一大事件、修羅場のもう一つの舞台である戦艦『榛名』。
日向が立ち去ったあと、二ノ宮は出来るだけ彼女の近くにいてあげようと思い、ずっと食堂室の入り口付近にいた。しかし戻ってきた日向に「そういえばあんた、当直じゃなかったけ?」と言われて思い出したが、「榛名のことは伊勢姉さんに任せておけばいいから、あんたは与えられた仕事をしっかりとやりなさいっ!」と、日向に無理矢理引っ張られ、外の甲板に出た。
「はぁ…。榛名の傍にいてあげろみたいなこと言ってたくせに…仕事をやれだとか…どっちなんだよ…」
「なんか言った」
「いえ、何も…」
二ノ宮と日向は、甲板上に出た。二ノ宮は砲術士として担当する第二砲塔にいた。前の兵と当直を交代し、ついでに担当する砲塔に寄って、不備がないかチェックするためだった。
日向は外で待っているが、何故日向までいるのか…なんて疑問は二ノ宮が気にすることではなかった。何故ならいつもこうだからだ。大体二ノ宮は特に、榛名・伊勢・日向という最古参の艦魂たちと過ごす時間が多い。だからこうして日向と共にいることもあるし、もちろん榛名や伊勢個人とも過ごすこともある。
しかし日向は、砲塔に来ることを好まない。むしろ拒絶するほどだ。
砲塔への不備や欠陥があっては、大変なことである。戦艦は、主砲が命より大事と言える。特に大艦巨砲主義を唱える日本にとっては戦艦の主砲は正にその象徴だ。主砲がない戦艦など戦艦ではない。戦艦の主砲にもしものことがあれば一大事である。『榛名』は、艦橋の前方に一・二番砲塔、後方に三・四番砲塔と、二連装四砲塔を有し、一斉射撃をすれば、八発の三六式砲弾が初速七七〇メートル秒で打ち出される。各砲塔は外部から見える円筒だけでなく、円筒はそのまま艦底まで続いて下部はそれぞれの弾火薬庫になっている。各砲塔毎に砲側の操作員と弾火薬庫員で一ケ分隊を編成し、これで第一分隊から第四分隊までを占め、総称して砲台分隊と呼んだ。
このような戦艦の砲塔に対しての不備などに敏感になったのは、あの戦艦『陸奥』の沈没以来である。
戦艦『陸奥』。長門型二番艦。柱島泊地旗艦ブイ(北緯33度58分、東経132度24分)に係留中に碇泊中、火薬庫で爆発が起き、沈没した。
『陸奥』の航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、突然三番砲塔付近から煙が噴きあがった。そして同時に突如爆発を起こし、一瞬のうちに船体は二つに折れ、前部部分はすぐに沈没した。後部部分は艦尾部分を上にして暫く浮いていたが、程なく沈没した。乗員1474人のうち助かったのは353人だった。(死者のほとんどは溺死ではなく爆発によるショック死だった)原因は未だに不明であるが、原因がどうであれ、砲塔から発生したことは変わりない。砲塔は、戦艦にとっては最大の象徴と武器であり、火薬庫でもある。
だから、砲塔になにかあったら、『陸奥』のような悲劇が起きる可能性も否定はできないのだ。
そして日向が、戦艦としての主力である砲塔を誇りに思いたいがトラウマも持っている原因の一つでもあった。
『日向』も就役直後の大正8年(1919年)10月24日に、房総沖で演習中第三砲塔で爆発事故を起こし、また昭和17年(1942年)5月にも、伊予灘で演習中に第五砲塔の爆発事故を起こすという二度の砲塔爆発事故が起きている。砲塔の爆発事故の多さは全戦艦一位と言っても良い。二度目の爆発のせいでミッドウェー海戦は突貫工事で主砲一基減少という状態で参加し、伊勢型戦艦が航空戦艦の白羽の矢が立ったのも、砲撃力が不足している『日向』に目を付け、『伊勢』も巻き込んで航空戦艦へ改造された。このように『日向』は爆発事故には縁がある戦艦であるため、二度の爆発で砲塔に対してトラウマを持つという、砲塔を主力とする戦艦にとっては戦艦生命に危機を及ぼすことなりかねない。が、どうしても克服できない。二度の砲塔爆発という危険極まりない事故を起こしながらも(大正期に弾薬庫火災を起こしたこともある)無事だったことは、戦艦『河内』や『陸奥』などの爆沈の例と照らし合わせると、非常に幸運であったと言える。また、空母四隻を失うことになるミッドウェー海戦の時期に第五砲塔を事故で失ったことは、その後の本艦と同型艦『伊勢』の運命を大きく変えることになるのだった。(航空戦艦への道)
砲塔の中で点検作業を従事する二ノ宮の背に、外から日向が声をかける。
「……だけど、そういうのは滅多にないと思うけどね。だからそんな点検しなくてもいいんじゃないの?」
「…万が一っていうのもあるだろ? それに前例は『陸奥』だけではないんだよ。もし、『榛名』にも同じことが起きると思えば、ゾッとするだろ…?それに、日向だって経験あるだろ」
「……あたしは、ここには来たくないのよ」
「だったら別に自分の本体である戦艦に帰っても構わないんだけど…」
日向はムッとした。しかし二ノ宮は気付かずに点検作業を続けている。
しかし日向は帰らない。ここに留まる。彼が見える場所に…。
日向は、散っていった古き戦友の一人を思い出していた。
陸奥。長門の実妹で、おとなしくて素直な可愛い子だったが、不幸なことに、その命を愛する日本国内で海の底へと沈んだ。戦艦としての戦いによるものではない、殉職……すなわち、名誉ある戦死ではなく、不幸な事故によってその命を散らした。陸奥も日向たちにとって長き日本を見守ってきた戦艦だった。共に日本のために戦い抜いてきた古き戦友。しかし、戦艦として生まれたというのに、その最期は、不幸な事故によるものだった。何故、彼女は突然死ななければいけなかったのか。もし神様がいるとしたら、なんて残酷なことをする神様なんだろうか…。生きて帰ってきてくれたらと思うのは、何度もあった。
「…榛名のことがあるわ、あたしのトラウマ、陸奥のことも思い出すし、本当に今日は憂鬱だわ…。あんたのせいよ、二ノ宮」
「ええっ?!僕っ?」
「当たり前よ。今日は色々とあったっていうのに、死んだ陸奥のことまで思い出させて…」
「そ、それは謝るけどさ…」
「何よ、二ノ宮のくせに生意気よ」
「そんな滅茶苦茶な…」
「うるさいわね!ほら、さっさと当直やりなさいよっ!」
大股で入ってきた日向に首の根を引っ張られ、二ノ宮は渋々砲塔から外に出た。その後ろで日向が目を細めたが二ノ宮は知らない。外に出ると、夜闇の中で瞬く星空と月の光が甲板を照らす光景が眼前に広がっていた。
数歩歩くと、二ノ宮は身を柵に預けて、眼前に広がる黒い海の穏やかな波打ちを見詰めた。その隣に、黒い長髪を靡かせてちょこんと縛ったツインテールを揺らした日向がいた。
「榛名は、大丈夫なのかな…」
ふと、二ノ宮は呟くように言う。やはり榛名のことが心配だった。あそこから離れたくなかったが、与えられた仕事だから仕方ない。隣に居る日向は黒い海を見たまま、口を開いた。
「榛名は強いけど、姉妹に関しては弱くなるから…。長い付き合いであるあたしでも正直わからないかも」
「何だ、三十年の付き合いだっていうのにわからないのか…」
「何よ」
「別に」
日向は頬を膨らまし、ふんっとそっぽを向いた。耳に波の打つ音が届き、視線を再び黒い海へと戻した。
「あっちのほうでも、大変なのかな…」
二ノ宮が見て言った先には、夜闇に紛れた巨体に灯る灯があった。『榛名』から離れたところに錨を下ろしている『神龍』は夜闇に紛れて見えないが、艦首・艦橋・艦尾部分に灯が灯っていた。
「あっちはあっちで、あんたと同じ艦魂が見える人間がいるって聞いたから、きっと同じことになってると思うわね…」
日向の言葉に、二ノ宮は初めて日向の方を見た。その目は驚きと興味を示していた。
「僕の他にも艦魂が見える人間っていたの…?」
「そりゃいるわよ。一握りの人間だけど、あんた一人だけじゃないわ。なに?ハーレムの世界ができなくて残念だった?」
ニヤニヤと笑う日向に、二ノ宮は首を思いっきり横に振って叫ぶように言った。
「そんなこと思うわけないでしょっ!!」
「本当かしらね?」
「むぅー…。 むしろ喜ばしいことだよ。僕の他にも艦魂が見える人間がいたなんて、どんな人か見てみたいよ」
拗ねる二ノ宮に、日向はいつまでも笑っていた。その笑顔の裏に、悲しき思いを隠すように、ただ笑っていた。
「はぁ…」
しかし日向は溜息を吐き、再び黒い海を見詰めた。
『榛名』の近くには、『伊勢』と『日向』が並んで停泊している。静かな黒い海の上、各艦の灯が呉の港を、一つ一つの光としてあり、呉の町の光もあって、綺麗な光景が広がっていた。
『神龍』と『榛名』は随分と離れていた。『神龍』の傍には『大和』が停泊している。
まるで、この現在進行形の姉妹のような状況だ。こうやって離れている。闇に紛れて見えなくなるほどに、距離は遠くなってしまっている。
そんなこと、絶対に駄目だ。なんとかしたい。灯る灯を見て、日向は考えを交差していると、二ノ宮の言葉を思い出した。
『あっちのほうでも、大変なのかな…』
「そうだわっ!」
日向は思いついたように叫んだ。驚いて目を見開いている二ノ宮のほうに身体を向けて、人差し指を立てて言う。
「…どうしたの、日向」
「あっちもこっちと同じ状況のはずよ。だから、あっちと共同でこの事態に対して対策を立てましょう!」
日向は満面な笑顔で、ぐっと拳に力をこめて言った。二ノ宮は一時ぼぉっとしていたが、その意味に気付いて、笑顔になる。
「…なるほど、それはいいかもしれないね」
二ノ宮は手を顎にやってうんうんと何度も頷くと、日向は「そうと決まれば早速行くわよっ!」と言って二ノ宮の手を掴み取って駆け出した。
「うわっ…?!今から…?」
「そうよ!今行動しなくていつ行動するのよ!」
「それもそうだけど…当直なんですけどっ…」
「そんなものはどうでもいいわ!仲間のためなのよ?そんなことよりこっちのほうが大事でしょうがっ!」
さっき与えられた仕事はしっかりやれとか言って無理矢理連れてきたくせにぃぃ!と心の内で叫んでいる二ノ宮の手は、しっかりと日向の手に握られ、離れる雰囲気は皆無だった。
「飛ぶわよっ!」
「えっ? ――――って、どわっ?!」
日向は二ノ宮を手を握ったまま、本当に跳躍した。十メートルくらい跳躍して虚空となった足の下に広がる黒い海を見て血の気が引くのを感じた二ノ宮は、落下する前に光に包まれて消えた。
二人は、遠く離れた巨艦に向かって、飛んだ。
日向と二ノ宮が本当の意味で飛び上がったと思いきややっぱり艦魂の能力で瞬間移動をしている同じ頃、『神龍』艦内では、三笠は神龍のことを捜し求めていた。
艦内はやっぱり広かった。思い当たるところを捜してみたが、どこにもいなかった。最初に烹炊所へ向かったが、まだ少ない兵員たちがいて、蒸し暑かった。一応捜したがいないだろうと判断して別のところを捜し回った。火薬庫、格納庫、兵員室、食堂室、艦橋などのあらゆる所を捜し、甲板上にも出た。主砲の上も捜したが、いなかった。ここまで捜しても見つからないと本当に艦内にいるのか疑わしくなる。しかし三笠はすぐに振り払った。
おそらく彼女は今、落ち込んでいるに違いない。親しかったであろう姉とあんなことになってしまったら、妹としてなにも思わないわけがない。こういう時は本人は、一人になりたいと願うかもしれないが、その時こそ誰かが傍にいてあげないと駄目なのだ。そして自分も彼女の傍にいてあげたい。いや、いたかった。彼女を見つけて、傍にいたい。
休むこともない足が向かった先は、再び烹炊所だった。
最初にここを捜したが、兵員たちもいて、中も烹炊所として機能していたために暑かったため、簡単にしか捜していない。だが、今は時間も時間なので、兵員たちの姿はない。烹炊所に入ると、残っているむわっとした蒸気が肌に当たり、包み込んできたが、構わずに歩を刻んだ。
ここは、彼女と初めて出会った場所でもあった。そんな場所が、今はとても暑い。
ついさっきまで機能していた烹炊所は運転を止めてもまだ蒸し暑かった。こんな所に彼女はいるかどうかわからないが、捜した。これだけ捜してもどこにもいなければ、またもう一度同じ場所を探ったほうが良いのだ。
そして、あっけなく見つかった。捜し求めた彼女の姿は、簡単にも見つかった。
向こう側、壁に寄り添い、体育座りで顔を埋める神龍の姿があった。
あそこは、神龍と初めて出会った夜、二人が寄り添って寝た場所(寄り添ったことは三笠自身知らない)だった。
三笠は彼女のもとへとゆっくりと歩み寄った。体育座りで顔を埋めて、表情が見えない。長い黒髪が床に広がり、組んでいる腕の肌は汗で雫が伝っていた。三笠は身を屈めて、その頭をそっと優しく撫でると、ぴくりと反応した神龍の頭が動き、埋めていた顔を上げ、その充血した赤い目が、三笠を見詰めた。
目は赤く、唇はカラカラに渇いていた。髪が肌に張り付いていて、じわりと汗が滲んでいる。こんなサウナのような場所にいたから、当然だった。
三笠は神龍の頬に手で触れると、優しく微笑んだ。
「捜したんだぞ…。さぁ、行こう…」
「三笠……二曹………」
神龍の唇が震える。赤い目が潤んでいた。
「俺は、気にしてないから…。ここは暑いだろ?神龍…」
「ふぇっ……」
神龍は崩れた顔を三笠の胸に埋めて、泣いた。三笠の胸に顔を押し付け嗚咽を漏らす神龍の頭を、三笠はそっと撫でた。そのか細い背を包み込み、ぎゅっと抱きしめた。その光景はまるで、姉と古き戦友の光景と似ていた…。三笠は胸に顔を埋める神龍と一緒に、ゆっくりと立ち上がり、胸に顔を押し付け手で離さない神龍の肩に手を添えて、神龍の身体を支えながら、三笠と神龍は、その場から離れ、蒸し暑かった烹炊所を出た。
<五> 姉妹の一大事件 【登場人物紹介】
二ノ宮朱雀
大日本帝国海軍戦艦『榛名』砲術士・砲術少尉
年齢 21歳
身長 174cm
体重 56k
戦艦『榛名』の砲術士。第二砲塔を担当する。三笠と同じ艦魂が見える人間。静岡県出身。実家、父親は漁師で、母親も健在。しかし姉がいたが病気で亡くなっている。榛名・伊勢・日向という最古参組みとは仲が良く(?)接する時間が多い。普段は気が強い榛名にいつも振り回され苦労しているが、本人はそれはそれで楽しんでいる。しかし日向のことは苦手で身体が条件反射するほど日向に対しては気が緩めない。何か軽いトラウマを持っている様子。伊勢に対しては死んだ姉に似ているためか姉のように慕っている。故郷にいる家族に仕送りを欠かさない。
今話も投稿してからまた結構な修正をする箇所があったので、大幅に修正致しました。既に読んでしまったかたも申し訳ありません。なるべくこれからも(と言っても修正の連続だが)注意して書いていきたいと思いますので、こんな作品でも読んでくだされば嬉しいです。宜しくお願いします。そして<序>以外の本編全てが修正の嵐ということに今更ながら気付かされました…。