<三十四> ずっとあなたのそばに……
今回は短いと思います。戦いが完全に終了し、海に投げ出された三笠は米戦艦部隊に……。
そして神龍は……
まだ最終回ではありませんが(いつだよ)、最後までお付き合いしてくれたら嬉しいです。
壮絶なる海戦が終わっても、波はまた慌しくなりそうな気配だった。
さきほどから覆い始めていた厚い雲が遂に空のほとんどを染め上げ、ごろごろと唸っている。大雨どころではない、嵐が来る気配だった。
米戦艦部隊は天気が荒天になる前に生存者の救出を急いだ。
後半部分から艦尾までが完全に海水に没し、辛うじて前半部分が顔を出している。しかし完全に沈没するのも時間の問題だと誰もが思えた。
そして、佇む巨人艦を見上げ、彼らは感嘆に浸る。
近寄ればストレートに伝わる威厳さ。壮大な迫力がそこにあり、正に世界一の『大和』に次ぐ巨大戦艦だった。改めて日本の前時代に囚われた虚しさ、そして同時にアメリカにも負けない造船技術の粋を結集させたものがそこにあった。
こんな巨艦を艦隊戦で討ち取ったことは、後世に一〇〇年は語り継がれるほどの偉大な栄誉と誇りになるだろう。
黒煙をあげ、炎上する巨人艦を横目に流しながら多数の内火艇や揚陸艇、短艇までが重油が漂う海面を航行していた。あたりには重油とともに放り出された残骸などが浮かんでいる。
驚くほど、生存者は異常にも見つからなかった。戦闘はまだ終わったばかりだ。海に投げ出された、又は退艦した者が浮かんでいるはずなのだが。
米兵は知った。そばで沈もうと佇んでいる巨艦を見上げた。この艦内に、まだ大半の乗員たちが残っていることを……。
ある一隻の内火艇が勇気を持って巨艦に急接近した。あまり近づきすぎると艦の沈むときに生じる渦潮に呑まれる危険性があるからだ。
完璧に斜めになっている甲板を触れるほどまで近づくと、米兵たちは聞いたのだった。
彼らの叫び声を。
沈もうとする艦から、彼らの慟哭が聞こえる。天皇陛下万歳、日本万歳、お母さん、万歳万歳……。そして、時々銃声も聞こえる。
これを聞いた米兵たちはみな、涙を浮かべたという。
艦体の半分を海面下に没した巨人艦の重油が流れる海域で救出作業に従事する米兵たちを見詰めるレイモンドに報告が入った。
「閣下、未だに生存者は一人も見つけられません。艦に近づいたものの報告によると、艦内から日本兵たちの声が聞こえたそうです。おそらくほとんどの乗員が艦内に残っていると……」
「艦と運命を共にするのだな……。艦長ならわかるが、まさか全ての乗員たちまで…?なんということだ……」
「日本人は集団生活を好む民族です。周りの全員と同じことをしたがる。だから、何人もの者たちが残るといえば、全員が残ってしまうのです」
「……玉砕が良い例、いや…悪い例だな。彼らのバンザイ・アタックは正にそれだ。日本人は一つのことを全員でやりたがる。……なんとも悲壮な彼らだろうか」
「穴を開けて救助するわけには……」
沈もうとする艦に近づくことは危険だった。そして助けに行ったとして、敵である自分たちを見た瞬間に彼らは襲い掛かるか、又は自決するか。しかも穴を開けるといったって、あれだけの砲撃に耐えた頑丈な防御壁だ。穴など開けられるなんて考えられなかった。どちらにせよ彼らを助けられる可能性は薄かった。
しかしそれでもレイモンドは、単艦で艦隊に挑み勇敢に戦った一国の英雄である彼らをなんとしてでも助けたかった。
その時だった。ある一報が救助作業に従事する救助班から届いた。
「閣下、敵の生存者一名を発見致しました」
参謀の読み上げた報告に、レイモンドはすぐさま反応した。
「そうか。発見した生存者を救助しろ。いいか、敵だからといって粗末に扱うなよ。丁寧に扱え」
レイモンドの命令を、参謀はそのまま救助作業班に伝えた。
重油で黒く染まる海面に、角材に捕まって漂う一人の日本人を辛うじて見つけることができた。今まで生存者が一人も見つからず、あたりは重油と残骸だらけだったので、米兵たちも半ば諦めている感じだったのだ。
内火艇がエンジン音を轟かせて近づき、漂流する日本人を数人の米兵が引き揚げた。
米兵たちは彼の重油にまみれた顔を見て目を見開いた。
随分と幼い、まだ二十歳にも満たない少年だった。自分たち大人にとってはまだまだ子供。息はしているので気を失っているだけらしい。引き揚げた彼の身体に毛布を被せ、重油にまみれた身体を丁寧に拭いてやる。彼らは一人目の生存者を乗せて退きあげていった。
……何もない。
あるのは闇。
無音の闇。一筋の光もない。ただ眼前の光景は黒一色の闇が支配していた。
……神龍はどこに行ったのだろうか。
闇の中で、どちらが前か後ろか、右か左か、方角がわからない中で彼女を捜した。
しかし見つからない。
呼んでみようとするが、声が出ない。
喉を通るのは空気だけ。
何度目かで、振り絞るように、声が出た。
「神龍……ッ」
しかし彼女の返事も、姿を見せることもなかった。
膝を折り、うな垂れる。
ぽたぽたと、涙がこぼれ、闇に沈む。
「馬鹿……ヤ、ロウ………なんで、出てこないんだよ……ッ」
会いたかった。
どうしても彼女に会いたかった。
だから、思いのたけを、叫んだ。
「神龍―――――――――ッッ!!」
その時、一筋の光が生じた。
目の前で大きくなる光は、やがて人の形を浮かべた。
長い黒髪がばさりと下りて、華奢な細い身体がはっきりと輪郭を成していく。
そして最後には漆黒の黒い瞳。
「捜したぞ……神龍…」
「………」
「さぁ、帰るぞ…」
力ない声で言う。何故か瞼が重い。……いや、身体中が今にも倒れそうなほど重かった。
「……三笠菊也さん」
「…なんだよ」
神龍は正に闇の中に輝く唯一の光のように、瞳を潤ませるも、にこりと微笑んだ。
「……私は、帰れないです」
「……なに言ってるんだよ」
声が震える。
「俺のそばにいてくれよ、神龍……。お前、前にそばにいてくれって俺に言ってたじゃないか……だから、これからもさ…」
「菊也さん……」
「そうやって、今度は階級じゃなくて名前で呼んでくれよ…。これからもずっと俺のそばにいてくれ……。頼むからさ……、俺、神龍が好きなんだよ…」
「…私も、菊也さんが大好きですよ」
しかし彼女は悲しさを隠さない。いや、隠すことが出来ていない。
「私は、あなたのそばにずっといますから」
「…帰れないって言って、そばにいるって言って、どっちだよ……。意味が、わからねぇよ……」
ぼやける視界。それは涙でぼやけているのか、自分の意識が朦朧としているのもあるのか。
「菊也さん……そろそろ…」
そう言うと、神龍は光と共に彼のもとから離れていく。
重い足がふらつきながらも、必死に追いかけようとする。
だがまるで足が固定されたかのように、動かなくなった。
「神龍……ッ! 行くな……ッ!ずっと、ずっと俺のそばにいてくれッ!」
「大丈夫です。信じてください……私は、あなたのそばにずっといますから……」
彼女が、消えていく。
「菊也さん、生きてください」
「神、龍……」
遂に意識が沈み往く寸前、彼は、彼女の最後の言葉を聴いた―――
「私はあなたのことをそばでずっと、見ていますから」
そして彼も、闇に沈んだ。
開いた視界には、白い天井があった。
病院特有の薬の匂いが鼻をつく。気が付いた三笠は、ゆっくりと視線だけを動かして周りを見渡した。
薬品や包帯等の医療品が置かれ、白い布団に身体を寝かす自分は被せられていた。どうやら医務室のようだった。そしてふと、視線をめぐらせると、すぐそばに椅子に座って本を読んでいる中年のアメリカ軍人がいた。
「―――ッ!」
三笠はガバッ!と起き上がるも、身体中に激痛が走って悶えた。そんな三笠に気付いたかのように、本を閉じた中年のアメリカ軍人が三笠を見た。
「気が付いたかね」
滑らかな英語。三笠は目の前にいるアメリカ軍人に呆気に取られ、自分の置かれた状況に混乱するも、彼の軍服にある階級章を見て驚愕した。
「た、大将―――ッ!」
大将といえば、最高上級。もしかしたら司令長官の地位である。
自分はとんでもない人物と相対していることに気付いた三笠だった。
警戒心を剥き出しにする三笠に対して、大将の階級を煌かせた中年のアメリカ軍人は宥めるように口を開いた。
「心配しなくてもいい。君の安全は私が保証する」
「………」
なにを言っているのかはさっぱりわからないが、危害を加える様子は無さそうだった。しかし油断はできない。この状況と周りの環境を見て考えるに、自分は捕虜になっているようだ。艦から放り出され、敵に捕まったのだ。
―――ということは、彼女は……
「………」
自分に置かれている状況に気付いたのか、目の前の日本人は表情を曇らせて顔を伏せた。ふいに見えた下唇を噛んでいる光景を見て、レイモンドは敗戦の兵をここに見た。
その時、「閣下、よろしいでしょうか」という声が聞こえ、レイモンドが応えると、医務室に一人の日系人を連れた参謀が入ってきた。
三笠は入ってきたアメリカ人に気付くと、キッと睨んだ。
入ってきたのはお腹がメタボリックを表すように膨れた身体の、しかし軍服には最高階級が付けられていた。おそらく参謀の一人だろう。そしてその後ろ越しに、一人の若い、自分と歳が近い少年が立っていた。その肌は自分と同じ肌の色。外見は完璧に日本人だが、彼の血の大半はアメリカ人の血が流れている。
ハワイ出身の日系二世であるジョージ・S・タナカ軍曹は参謀とすこし言葉を交わしてから、レイモンドとも一言交えてから、英語と同じくらい達者である日本語を舌に滑らせた。
「初めまして。僕は合衆国海軍戦艦『ニューメキシコ』に所属するジョージ・S・タナカといいます。階級は軍曹。主に通訳を任せられております」
「………」
警戒心を怠らない三笠に、タナカはにこりと微笑んだ。
「そんな堅くならずに。ご覧のとおり、あなたの身柄は我々合衆国が保護しました。言わば捕虜ですね。お辛いとは思いますが、どうか気を落とさずに…。あなたのことは決して拷問も致しません。生命の安全はここにおられるレイモンド・A・スプルーアンス閣下が保証致します」
三笠はそばにいるレイモンドの蒼い瞳を見た。やはり彼は司令長官だった。しかもスプルーアンスという名前は、これまでの歴戦で日本海軍を打ち負かしてきたアメリカ側の司令官として有名だった。
しかし何故司令長官という者が下士官に過ぎない自分のところに同席しているのか、理解できなかった。
「あなたは、いえ、あなたたちは勇敢に戦い、我々合衆国海軍軍人全員、敬意の意が絶えません。あなたがたと戦えたことは我々の誇りとなりましょう」
タナカは微笑みからすこし影を落とした表情に変わった。
「しかし……真に残念でなりません。あなたと同じ、勇敢に我々と戦った彼ら英雄は、あなたを残して、助けることも出来ませんでした……。彼らは本当に立派な兵士だったと思います」
「………」
三笠はその時、理解した。
ああ、そうか……自分ひとりだけ……生き残ったのか…
「ひとつ……聞いていいか…」
「はい、なんでしょう」
「……神龍は…『神龍』は……?」
わかっていることだったが、どうしても聞きたかった。いや、聞きたくないかもしれないが、現実を受け止めなければならないと思った。口が勝手に開いていた。
タナカはひとつ間をおいてから、ゆっくりと、滑らかな日本語を舌に滑らせた。
「……壮絶なる最期でした」
タナカはその答えの意味を、説明した。
漂流していたたった一人の生存者を乗せ、救助班は更なる生存者捜索に従事したが、結局救助した一名を最後に、見つけることが出来なかった。重油と残骸が漂う海を後にして、彼らは一度艦隊に退却していった。
三笠が助かったのはおそらく、最初から外にいたからであろう。主砲にいた三笠は海に投げ出され、艦内にいたほとんどの乗員とは違って、沈もうとする艦から離れることができた。
救助班を収容し、残存戦艦三隻が率いた艦隊は海面に佇む巨艦から距離を取って沖縄への撤退を開始した。その途端だった。
攻撃隊のパイロットたちが見た光景と同じ光景を彼らは目撃することになった。
突然、海面に佇む巨艦は、天に向けていた砲塔から発するように眩い閃光が世界を包み込んだ。閃光が一閃、天空を切り裂くと、海水を広範囲に炸裂させて史上類を見ない大爆発を引き起こした。その光景はまるで戦後南太平洋で度々見ることになる水上核実験のようだった。白い閃光が巨艦『神龍』を支配し、膨張した海水が破裂、広範囲に拡散しながら、天高くキノコ雲をのぼらせた。
それが、『神龍』の壮絶なる最期だった。
一人の生存者を乗せた米戦艦部隊が十分な距離を取ったのを見計るように起こった『神龍』の大爆発は、砲塔に残っていた一発の新三式弾(気化爆弾)の誘爆だった。一瞬で何十機の航空機をこれまでに葬ってきた貧者の核兵器は、『神龍』の最期を飾った。誘爆した新三式弾はその内なる力を解放して、『神龍』を跡形もなく消滅させた。
一瞬で多くの航空機を撃墜できる大艦巨砲主義の再来を象徴した新三式弾は、皮肉にも同じ大艦巨砲主義復活を託された『神龍』とともに消失したのだった。
――――『最後の戦艦として、護衛戦艦として大艦巨砲主義の時代を真に幕閉めすることが、私の使命ではないのかと』――――
三笠は出撃前に聞いた神龍の言葉を思い出した。
――――『最後の最後まで、大艦巨砲主義の最後を仕切る』――――
彼女は言ったとおりに、その責務を全うした。
残骸となった『神龍』の艦体は海底八十メートルに沈んでいった。
三笠はぎゅっと布団を握り締めた。その生地にぽたぽたと何粒の雫が落ちていく。
下唇を噛んで、三笠は声を殺して涙を流した。
静寂があたりを支配し、やがてタナカとレイモンドたちは三笠を一人に残して静かにそこをあとにした。
三笠は一晩中、泣きつくしたのだった。
三笠の哀しみが空に伝わったかのように、海域に大雨が降り注いだ。
やがてそれは泣き叫ぶように、嵐となって沖縄海域に向かう米戦艦部隊に激しくその大粒の雨を打ち込んだ。
荒波が立ち、南海の荒天が慣れない彼らを襲った。
その台風と東洋で呼ばれる嵐は沖縄海域の米機動部隊と戦艦部隊に多大な被害を及ぼすことになったのだった。
慟哭のような嵐が一日に止まずにずっと続いた。
思い出すのは、彼女の笑顔。
さらさらして綺麗に流した長い黒髪。純粋な黒い瞳。白い肌。
頬を朱色に染めて、微笑む可愛らしい表情。
怒った顔、悲しい顔、落ち込んだ顔、嬉しそうな顔、様々な彼女が巡る。
「三笠二曹〜!」
彼女の呼びかける声が聞こえる。
「菊也さん……」
ついさっきまで名前を呼んでくれたような気がする。
「大好きです――――」
目の前で気恥ずかしそうに頬を火照る愛しい彼女。
もう、会えないのか。
本当に、言ってくれたとおりに自分のそばにいてくれているのだろうか。
とにかく、泣いた。
涙が枯れるまで。
部屋に一人だけになった三笠は、声を漏らして泣いた。