<三十三> 魂に刻んだ前世の記憶。未来の著書
白い桜吹雪が舞う温暖の季節――――
人はその季節を春という。長かった肌寒い冬が終わり、生命の芽が芽吹く温暖の生温い風が吹き渡る、桜が咲き誇り、そして舞い散るそんな季節。
そんな季節が好きな人は多い。白に満ちた桜の下で、人々は酒を飲み、騒ぐ。そこから花より団子という言葉が生まれ、人々はその言葉通りに楽しみ、白に満ちた桜の光景に眼を楽しませる者もいる。
しかしそんな春を表した桜を、見たことがない一人の少女がいた。
「舞さま」
布団に埋もれて寝ていた少女が上半身だけ起き上がり、リンゴのようなほっぺを輝かせた。
「菊政どの」
十三、十四歳ほどの少女はにっこりと微笑んで、閉じた襖の向こうに見える人影を呼んだ。
「どうぞお入りください」
「失礼致します」
影が一礼したあと、ゆっくりと襖が開かれた。そして姿を見せたのは、少女と歳が近い青年だった。
青年はまた一礼すると、静かな足取りでスッと部屋に入り、少女のそばに座り込んだ。
「お久しぶりでございまする。今度はどこまで?」
「一つ山を越え、さらに丘を越えた先の広がる海がそばにある地まで」
「まぁ、海ですか。見たことがありません。私もいつか見に行きたいでございまする。海というものはどういうものでしょうか?」
「…とても広くて美しい、どこまでも大きい蒼ですね」
「まぁ」
「それは全ての生命の故郷でもあります」
舞はきょとんとなった。
「生命の故郷?」
「左様でございます。母なる大地と呼ぶものもおりますが、海こそ我々命あるものすべての母でございます。言うなれば、大地が育ての母、海が生まれの母です」
「そうなのですか。でも海には魚がいると聞きます」
「そうですね。海には魚がたくさん存じます。その点では海は生まれの母でもあり育ての母でもありますね。水が溢れ、そして生命も溢れ、美しい蒼い水平線、それが海なのです」
「では、海の向こうというのはあるのでしょうか?」
「海の向こう、ですか……。そうですね、行ったことはありませぬが、既に船というものを使って海を渡すものもいるようでございます」
「フネ…?」
「海を渡る乗り物です。川にもあります」
「では、海の向こうに行くことができるということは、海の向こうからも何かが来ることもあるのでございましょうか?」
「……そうですね。もしかしたらいつか、海の向こうからなにかが来るかもしれませぬ」
「それは、興味深いですね」
「…しかし海の向こうは得体の知れませぬ。必ずしも良いものが来るとも思いませぬ」
「そんなことは言わないでください……」
「しかし海の向こうというのは我々にとって未知の世界。全てはわかりませぬ。でもいつか、きっともっと広い世界を知ることができましょう」
「……ですよね」
ニッコリと微笑む少女に、青年も微笑んだ。
「海、ですか……。それはぜひ私も、いつか行ってみたいものです」
「…いつか、きっと行きましょう。舞さま」
「そうですね」
舞と呼ばれる少女はくすくすと笑った。
寝巻き姿の少女は下半身を布団に埋めたまま、青年といつまでも他愛のない世間話を続けていた。
「……菊政どの。今はなんの季節でしょうか?」
「春でございます、舞さま」
「…春、ですか。では、外は桜というものが咲き誇っているのですね」
「左様でございます」
少女はジッと開いた襖の向こうに広がる外を、庭を見詰める。しかし庭は大きな壁によってそれより先は見えず、桜の樹もない。
「……私は海も桜も見たことがありません。いつか、桜も見てみたいものですね」
「………」
少女は、舞は身体が弱かった。
いつも大きな屋敷の中で布団に過ごす。ほとんど外に出たことはない。いつも幼馴染であり側近である家系の息子である彼、菊政と呼ばれた青年は、少女に外の話をしてあげた。たまに用があって遠征に出たときは、帰ってきてその時の話をしてあげることもある。
最初は外の話をしないほうが彼女のためになると考えていたが、彼女が自分から話をしてほしいと言って来たので、今は彼女の望みどおりに外であった色々な話を聞かせている。
「菊政どのが羨ましいです。いつも外に出られるのだから」
「……いえ。舞さまが思ってるほど、外はそんなにいいものではありません。同時に汚いものや醜いものがございます。それを舞さまに見せたり、知ってほしくもないので、舞さまのためを思えばこれで良いと思います」
「もう…っ じゃあ私は一生ヒキコモリにでもなれというのですか?」
「…いえ、そういうわけでは」
少女はぷんぷんと頬を膨らませている。
こうして見ていると可愛い女の子だ。長い黒髪はさらさらしていて綺麗に流れている。りんごのような赤いほっぺは柔らかそうで、黒い瞳は純粋そのもの。もっと大きくなれば美少女になるのは間違いない。今でも美少女といえるかもしれないが。
「それと、私と二人だけのときはそんなかたくるしい喋り方は良いと言いましたでしょう?」
「………」
「私たちは幼馴染なのだから、子供の頃のように戻っても良いのですよ」
「……主殿や父上の前だといつもこうですから」
菊政は肩をすくめた。そして次の瞬間にはタメ口モードになる。
「お父様はとある用で出向いておりますし、お母様とお姉さまも外に出ておられますから。今、この広い屋敷には私と菊政どのの二人しかおりませぬ」
「そうか」
「…むっ」
平然とした反応に、舞はむっとなった。
家にいたいけなか弱い少女が寝巻き姿で一人の男と二人きりというシチュエーションに、彼はどんな反応を示すかと思ったら、予想外の反応だった。
舞は不機嫌そうな表情になった。
「どうした?」
「…なんでもございませぬ」
ぷいっと頬を膨らませた顔を背ける舞に、菊政は首を傾げる。
溜息を吐き、ぽん、と舞の頭の上に手を乗せた。
驚いて目を丸くする少女の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
「な、なにをしますかッ!」
と、言っても抵抗はしない。顔を赤くし、大人しく撫でられるままになっている。
「いい子いい子」
「子ども扱いしないでくださいッ!」
そんな二人のやり取りが、いつまでも二人しかいない屋敷の中で続いていたのだった。
月日が経ち、少女も青年もずっと成長していた。
再び春。
白い桜吹雪が舞い散る中で、青年と少女が肩を並べて歩いていた。
「……これが?」
「そうです」
大きな桜並木が立ち並び、ずっと先まで桜が舞う道が続いている。そんな光景を一人の少女が目をキラキラさせている。
「これが桜ですかぁ。とても綺麗でございまするっ!」
たたた、と少女が走り出す。
その後を、青年が微笑ましく歩いてついていく。
少女はくるくると名前のとおりに舞い、着物の長い裾がひらひらと揺れる。長い黒髪が靡いた。
「ありがとうございます、菊政どの。おかげで桜を見ることができました」
「…気付かれる前に戻らなければいけませんがね」
少女は昔から身体は弱かったが、今日はいつもより体調が良かった。彼女はまた桜が見たいと彼に懇願したが、いつもなら彼は彼女の身体を思って断っていた。しかし今日は特別だった。今日だけ体調が良かっただけではない、今日は―――――彼女の、舞の誕生日なのだから。
「そうですね、いないのがバレたら大騒ぎです」
舞はくすくすと笑う。
こんなこと、親や周りの者たちが許すわけがない。だからうまく抜け出してきたのだ。
「でも、もうちょっといたいです。いいですか……?」
「ええ、構いません舞さま……いや、舞。……だって今日は特別な日なのだから」
その言葉に、舞は輝くような桜吹雪と同じくらいの綺麗な微笑みを見せた。
彼女は彼の隣に駆け寄ると、彼の腕を取ってぎゅっと抱き締めた。
「ま、舞?」
「えへへ」
桜と同じくらいの桃色の頬を見せて、彼女は微笑む。こちらを見上げて、可愛らしい笑顔を振りまいている。
二人は寄せ合うようにして、舞が彼の腕を抱き寄せている。大人びた彼女の身体を表している胸の膨らみが腕に当たっているが、それに構う暇はなかった。
顔を赤くして動揺しかけたが、普段の鍛えられた自制心によって、それを抑えた。
「…ったく」
そして溜息を吐く。
笑みを微かに浮かべながら。
寄せ合うようにして、二人は桜吹雪を見上げる。白に満ちた桜がひらひらと、二人の周りに舞っていた。
二人は至福のときをいつも過ごしていた。
二人でいることが、幸せだった。
少女は身体が弱くていつも家の中で寝ていたけど、そのそばにはいつも彼がいてくれていた。たまに外に出て離れることもあって、寂しかったけど、必ず彼は戻ってきてくれた。
その時が、いつも嬉しかった。
いつしか、少女は芽生えていた高揚する気持ちに気付いた。
そして彼も自分の気持ちに気付いていた。
二人は、いつ結ばれても良いところまで、確かに来ていたのだ。
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しかし、引き裂かれた。
運命は残酷にも二人を引き裂いたのだった。
そしてある日、それは起こった。
最悪のときが。
「ハァ…ハァ……」
パシャパシャ、と泥を跳ねて一人の少女が走っている。
その背後には、暗闇の中で真っ赤に燃え盛る屋敷があった。
「ゼェ…ゼェ……ぐ…ッ」
少女は喉の奥から思い切り咳き込んだ。走るという行為は普段の弱い身体にとっては考えられないくらいの無茶ぶりなのだ。だが、彼女はそれでも走らなければならなかった。
いや、逃げなければならなかった。
「がはッ! ごほごほッ! う、ぐ……ッ」
少女は再び走り出す。いつでも雨が降りそうな空だった。地も、先日の雨で泥となっていて走りにくい。しかしそれでも死に物狂いで走った。
そう、死に物狂いでも走ったのに、彼女は逃げ切ることができなかった。
「――――ッ!」
背後から、ぱちゃぱちゃと泥をはねる音。それも複数。明らかに近づいている。
ふらふらな足取りで走り出すが、限界か、転んでしまった。
「あっ!」
ばちゃん!と、大きな音を立てて泥に倒れる。その直後、背後から声が聞こえた。
少女は立ち上がろうとするが、背後から首の根を掴まれ、その場から動くことができなかった。
恐ろしくも振り向くと、そこには数人の男たちがいた。一人の男が自分の首根っこを捕まえていることがわかった。
「い、嫌ああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
少女は叫ぶが、男たちは乗じない。むしろ笑っていた。
抵抗するが、数人の男たちが抑え付けてしまう。数人の男の力の前に女は無力だった。それも少女である。そして動けないまま、一人の男が斬りつけた刀によって服を引き裂かれる。
少女は恐怖によって悲鳴をあげるが、周りの男たちの大きな手によってふさがれてしまう。
声が出せない。目の前で、男が握る煌いた白刃を見て、瞳に涙をためながら、少女はグッと瞳を瞑った。
愛しい彼を思い出し、彼女は振り下ろされた白刃に桜を咲かせ、舞い散らせてそのまま意識が底に落ちていった。
燃え盛る屋敷を見て、彼は一目散に彼女の姿を求めた。
「不覚……!不覚、不覚……ッ!」
空は厚い雲に覆われている。一雨どころではない、嵐が吹き荒れそうなそんな天気だった。しかし彼には関係ない。ただ一人の少女を求むだけである。
「舞さま……舞……ッ!」
そして彼は、菊政は信じられないものを目に当たりにした。
そこには泥に倒れた少女と、周りを囲むようにして立っている男たち。
そして男たちの足元には――――光を失った虚ろな瞳の少女。まるで人形のようにピクリとも動かず、身体に一閃の刀による傷が。そして赤く染まって動かない彼女。
その瞬間、今まで生きてきた中で感じたことがない強烈な熱さが身体の奥底からこみ上げ、足が無意識に地を蹴っていた。
「貴様らぁぁぁぁッッ!!!」
突然現れた武士の存在に、男たちは各々の武器を取り上げて応戦しようと身構えるが、その前に俊足の一閃が男たちを斬りつけた。
真っ赤な鮮血を迸り、次々と白刃の餌食となって倒れていく男たち。
「許せぬッ!許せぬぅぅぅぅッッ!!」
斬り付けられ、血の海に溺れる男に馬乗りになる。見下ろすと、男はまだ生きていた。
「よくも……よくも舞を…ッ!死ねぇぇぇぇぇッッ!!」
ズシャッ!と、振り下ろした白刃が男の首を貫いた。
男たちが持っていた今は泥にまみれた刀を踏みつき、ゆっくりと倒れた少女のそばに歩み寄った。
「……………」
膝を折り、うな垂れる。彼のその鎧は敵の血によって真っ赤に染まっていた。
「舞……」
呼びかけても、彼女は応えてくれない。輝いていた瞳の光は完全に失われ、ただ闇が支配した虚空の瞳だった。
「……すまぬ、舞……あなたをお守りすると心に誓ったのに……護れなかった……」
彼の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
そして、涙とは別の雫が、ぽつぽつ、と彼女の白い肌を打った。
やがて大雨が降り注ぐ。大雨に打たれる中、彼は自らの鎧を剥ぎ取った。そして、捨てた。
脱いだ上着を少女に被せ、合掌する。
その瞳からはぼろぼろと溢れんばかりの涙がこぼれていた。
両手を泥に付き、そして泥に爪が食い込んだ。歯を強く噛み締め、声を押し殺して、彼はいつまでも泣き続けた。
……護れなかった。
彼女を死なせてしまった。
もし、やり直せたら……
そんなありえないことを考えてしまう。
……思うだけでも、いいだろう?
もし、やり直せたら……
今度こそ、彼女を護る………
大切な人だから……大好きな人だから……
護りたいものがそこにある―――
だから、自分は彼女を護ると誓った……
●
【艦魂】
艦魂というものを、ご存知だろうか。
古来より船乗りの間、特に世界中の海軍の中で伝説とされていた話である。
実際に艦魂が見え、交流を持ったと証言する人もいる。著者は彼らと会し、そしてインタビューを試みた。この機会に著者は貴重な体験をしたと感じている。
艦魂はその名のとおり、艦(戦艦や空母等の軍艦。船にも宿る船魂というのもあるようだ)に宿る魂。これが見える者は、艦魂と同じ波長を持つ者、霊感が強い者、など、様々な諸説があるが真相は不明。とにかく見える者は少なく限られている。
聞くところによると、艦魂は人間と同じ人の姿をしていて、それもどれも女の姿をしているらしい。しかも年端もいかないような、ずっと華奢な少女が多いと言う。
そんな少女たちが軍艦として戦場を戦ったと思うと、戦争の客観性に大きな影響も及ぼすであろうことはお分かりだろう。
なんとも悲しいものだろうか。
(中略)
さて、艦魂について知る限りを述べてきたが、これも聞いていただきたい。
著者が興味深く感じたものである。これはとある一人の学者が唱えた説だ。
艦魂とは、まず人の姿をしているのは最初に説明したとおりである。それも女性、少女だ。
では、何故彼女たち艦魂は人間と同じ姿をしているのか?
そして何故艦魂というモノが存在しているのか?
それは、『艦魂も前世は人だったからである』
いわば、霊といえるかもしれないし、生まれ変わったともいえるだろう。
艦魂は死んだ人間がこの世に未練等があって、魂が艦や船に宿り、艦魂として生まれ変わった、ということである。
怨念といった恐ろしいものではないが、何らかの意志があって、艦魂として生まれ変わったのだろう。そして前世の人だった頃の記憶は完全にない。
……あくまで全てが推測であると学者は言っていたが、著者はとてもこれを受け入れられた。
もしかしたら、著者は艦魂というものを見たことがないが、艦魂という存在を信じている。そして存在していたとして、きっと彼女たちは以前は人だったのかもしれない。
そして、その学者はある驚くべき事実を著者に明かしてくれたのだ。
これは、例外中の例外の一つである。
世界で探しても、この一つしか、この奇跡はないであろう。
それは、正に奇跡。
それを今、語ろう。
×章 艦魂とは?
完結 【世界の中心で起こったたった一つの奇跡】に続く。
2008年(平成二十年) 三月十八日
著:初瀬菊代 四月二十二日発行
艦魂の原作ってよくは知らないので、こういう設定があったかないかも実はわからないです……。とりあえず私の艦魂は、ここで前世は人間だったという秘密を明かしてみました。(……秘密設定?)
まだ最終回はすこし先ですよ。というかいつ最終回にするのかまだ未定ですはい。
さて、沈み往く神龍、そして海に投げ出された三笠はどうなるのか。彼彼女に奇跡は起きるのか?
お楽しみください。