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<二十六> 天にそびえる黒い城陥落。不沈戦艦『大和』の最期

 沖縄海域を包囲する米英連合国軍の高速空母機動部隊から出撃した約一五〇機の艦載機の第二次攻撃隊による第二波攻撃によって、第一波で損害を受けた第一遊撃部隊に対して更に追い討ちを掛ける結果となった。

 第一波の攻撃によって、『浜風』が沈没。『涼月』『霞』『矢矧』が大破又は航行不能となり、第二波の攻撃に、航行不能になった『矢矧』救助のために横付け作業を開始しようと速度を落とした『磯風』が至近弾を受け、同じく航行不能に陥った。

 旗艦『大和』も、集中的に殺到する米艦載機の猛攻撃を受け、世界最大の不沈戦艦と謳われた戦艦も、今や傷だらけであった。

 そんな『大和』を、世界でただ一隻の護衛戦艦『神龍』が、『大和』に襲い掛かった数十機の米艦載機を一瞬にして全機撃墜し、『大和』を救うという奇跡を起こし、護衛戦艦としての役割を果たした瞬間だった。

 ―――しかし、それは決定事項の運命を遅らせるのに過ぎないものだった。

 一度に大量の爆撃機を失った米第二次攻撃隊は、爆撃隊は数を大半失ったために攻撃不足と判断して撤退し、雷撃隊も『大和』以下第一遊撃部隊に雷撃を繰り返してから、爆撃隊に続いて撤退していった。

 ―――この撤退は、我々の『昭和』に刻まれる戦史とは異なった部分である。

 しかし第二次攻撃隊は撤退する直前に、航行不能に陥った格好の獲物となった『矢矧』に最後の航空攻撃を仕掛けた。

 航空攻撃により火災を発生させた『矢矧』は、航行不能のために海上を漂流していた。救助に向かった『磯風』も敵の航空攻撃を受けて航行不能になり、そしてそんな『矢矧』に第二次攻撃隊はとどめとばかりに攻撃を仕掛け、『矢矧』の命はもう助からないのが明確だった。

 相次ぐ被雷と被弾により各部所で火災発生、浸水により右舷三十度に傾斜したが、それにもめげずの対空砲は火を吐き続けた。

 傾斜増大、既に直撃弾十二発、魚雷六発命中により、戦闘能力を喪失せる本艦にとどめの魚雷一発が命中した。

 ズドォォォォォンッ!!

 遥かに凌ぐ大きな水柱が立ち上り、『矢矧』は真っ赤な血のような炎を噴き上げた。

 「がはぁぁぁぁッッ!!」

 矢矧の身体から大量の鮮血が迸り、広範囲に散乱した。床に思い切り叩きつけられた矢矧はそのままうつ伏せに倒れて動かなくなった。眼鏡が割れ、赤く染まって床に落ちていた。

 ごほッ、と咳き込むと同時に吐血し、もはや身体を動かす力は残されていない。

 それでも血の海に染まる割れた眼鏡を震える指でゆっくりと摘んで、掛ける。

 そして小刻みに震えながらゆっくりと、どこにそんな力があるのか、そんな力など残されていないのに、矢矧は――――立った。

 「がはッ! ごほッ!」

 大量の血の塊を吐き、それと同時に命が削られていく。

 吐き出された血の塊は削られた矢矧の命。

 キッと、矢矧は砲塔の上から、飛び交う敵機を睨んだ。

 「…約束した……みんなで……沖縄に行くって…」

 艦載機の炸裂音が矢矧の鼓膜に響いた。同時に矢矧は目前正面から接近する敵機を見据えた。

 「撃てッ!!」

 燃え盛る炎の中から、顔を出した対空砲が火を吹いた。正面から迫り来る敵機は矢矧に向かって機銃掃射を浴びせた。敵機のパイロットに艦魂の矢矧が見えているわけではないが、敵機は燃え盛る炎に包まれようとする『矢矧』に機銃掃射を浴びかせた。敵機から放たれた機銃弾が矢矧の周りで弾幕が火花を散らした。矢矧の血だらけの身体に敵機の機銃弾が叩き込まれ、矢矧は機銃弾を浴びた身体を立ったまま硬直させた。

 矢矧の頭上を通り過ぎた敵機は同時に機体から火を吹かせ、煙を吐いた。対空砲弾が命中したらしく、煙を吐いた敵機はそのまま蒼い海面へと没した。

 ザザッ―――――

 機銃弾を撃ちこまれた矢矧の身体に、生温い風が吹き抜けた。

 ぽたぽたッと、矢矧の赤く染まった身体から赤い血が滴った。

 血だらけの赤く染まった撫子は、生温い風が身体を吹きかけたまま、立ったままだった。

 度重なる攻撃によって『矢矧』は連続的に数箇所で大爆発を起こした。

 そして彼女は―――遂に、倒れた。

 黒煙と炎に包まれる砲塔の上で、矢矧は血の海に溺れ、仰向けに倒れていた。

 視界には、自分の本体から燃え盛る炎と黒煙によって赤黒く染まる空が見えた。

 「……もう…限界……か……」

 ぼそりと呟き、矢矧の割れた眼鏡の奥にある瞳が、じわりと涙で滲んだ。

 悔しかった。

 本当に、とても悔しかった。

 決死の覚悟による特攻作戦とはいえ、仲間と共に沖縄まで行くと約束したのに、叶えられなかった。

 本当はもっと生きたかった。

 呉に居たときのように、我らの可愛い参謀長や親友の雪風、三笠や大和たち仲間と、これからもずっと平和な日常を過ごしたかった。

 でも、それはもう出来ない。

 自分は死ぬ、それだけがわかっていた。

 「すまない……磯風……私のせいで…あなたまで……」

 矢矧は誰ともなくそう言うと、燃え盛る炎の方から、ゆっくりと人影が現れた。

 それは、磯風だった。

 片足を引きずるように歩き、軍服は破けて血を染めた肌を露にし、磯風が歩いた跡に赤い血が滴っていた。

 「………」

 磯風は無言で血の海に溺れて倒れる矢矧のもとに歩み寄り、首を横に振った。

 「……ここは危ない…。早く……立ち去った…ほうが…いい……」

 「………」

 磯風は何か言いたげだったが、口を小さく開くだけで声は出なかった。

 普段から無口である自分を、磯風は初めて呪った。

 矢矧はわかっていると言う風に微笑んだ。

 磯風はそんな矢矧の表情を見て、目を伏せた。軍帽のつばが磯風の目を隠した。

 そして静かに、磯風は顔を上げると、その顔は侍の表情に変わり、直立不動となって敬礼した。

 その瞳は溢れようとする涙を堪える風だった。

 「……長官と…参謀長を……頼む…」

 「……はっ」

 磯風は敬礼したまま、震える声で応えた。

 『矢矧』は再び大爆発を起こした。既に矢矧の命は消える寸前だった。割れた眼鏡の奥にある瞳は生きた光を失いつつあり、磯風は完全にその光が消え去る前に、背を向けて、震える肩を抑えながら、矢矧のもとから立ち去った。

 残された矢矧の瞳から、磯風の背を見送ったのを最後に、光を暗闇に没した。

 真っ赤な炎が燃え盛り、黒煙をもうもうと立ち上らせる軽巡洋艦、『矢矧』の命は風前の灯だった。

 「もはやこれまでか……」

 『矢矧』に座乗していた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は軍帽を深く被り、無念と言わんばかりの表情で力なく呟いた。

 艦橋は艦体の大火災によって温度が上がり、艦橋にいる者たちの肌に浮かぶ玉の汗は暑さに蒸発していた。

 「……司令」

 『矢矧』艦長・原為一はらためいち大佐は、第一遊撃部隊・第二水雷戦隊司令の古村に真剣な面持ちを向けた。

 原の瞳を見詰め、原の意志を感じ取ったように、古村は原に向かって頷いた。

 古村の頷きを確認した原は、艦橋にいる全員に伝えた。

 「総員退去を命じる」

 原の言葉に、艦橋にいた全員がそれぞれ悲しみと悔しさに暮れた表情となった。

 『矢矧』に総員退去・離艦が命じられ、『矢矧』の乗組員たちは総員退去した。

 乗組員たちが総員『矢矧』から離れ、矢矧は一人、仰向けに倒れて、身体はピクリとも動かなかった。その瞳に、光はなかった。

 瞳に光を失った矢矧は暗闇の中で、神龍や雪風、三笠や、今まで一緒に過ごしてきた仲間たちを見た。仲間たちを見詰め、矢矧はクスリと、微笑んだ。

 基本的に無表情だった矢矧は、仲間と居るときはたまに柔らかい表情も出せた。そして彼女は、闇の中で仲間たちを見つけ、最後の柔らかい微笑みを見せたのだ。

 矢矧の柔らかい表情に浮かぶ微笑みも、闇の中へと消えていく。

 敵機の波状攻撃を受け、魚雷六〜七本、爆弾十数発を受けた耐久性は日本海軍が最後に生み出した軽巡洋艦として艦の優秀性を表したといえるだろう。『矢矧』は大爆発を起こして、暗海深くに沈没した。

 『矢矧』は戦没したが、乗員九四九人中、半数以上の五〇三人が救助され、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将と艦長原為一大佐も救助された。

 これは、駆逐艦艦長時代から合理的な精神で戦果を上げてきた人物だが無益な死というものが軍にとって、そしておそらく国の将来の為にも最も深刻な損失であると考えていた艦長の原為一大佐のおかげであった。

 出撃前の四月五日、指揮官会議から戻った原は副長と一人の甲板士官を呼んで、「水上部隊としてこのような任務を付与されるとはまったく想定していない。 必ず沈む覚悟で奉公しなければならない。 これから私が言うことを急速に準備せよ」と命令を言った。

その命令とは艦内にある応急用の角材を甲板にあげ、すぐほどけるように細いひもで結びつけておく、という内容だった。そして「乗員をできるだけ助けるのだ」と付け加えた。原は、艦が戦没しても乗員は出来るだけ助けるという方針を内緒に命令したのだ。

 海軍では負け戦を前提にした行動や発言は絶対に禁止なので、命令を受けた副長たちは驚いたが、原の命に従い、角材を人目につかないように後部甲板に置いた。

 その結果、生存者が意外に多かったのは、用意された角材のおかげであり、そして命令して用意された原のおかげであった。『矢矧』は沈没し、乗員九四九人中、半数以上の五〇三人が救助された。

 

 ―――日本海軍が最後に生み出した軽巡洋艦『矢矧』は、機動部隊壊滅のマリアナ沖海戦、連合艦隊壊滅のレイテ沖海戦を戦い抜いた歴戦の巡洋艦であったが、沖縄特攻にも付いていくも目標の沖縄に達することは出来ずに先に沈んだ僚艦と同様に第二水雷戦隊旗艦として立派に勇ましく戦い、東シナ海の暗海の底に没した。艦魂である彼女は基本的に無表情であったが、仲間といるときは柔らかい表情も出せる眼鏡が似合った普通の女の子だった。短い髪を無理矢理縛った丸いポニーテールが彼女のチャームポイント。呉に居たときはいつも雪風と共に行動することが多く、神龍を手伝い、仲間たちを支え、支えられてきた。神龍が時間を共に過ごした最も多い一人。彼女は最後の瞬間まで血に溺れながらも勇敢に戦い、そして侍として、大和撫子として散っていった。


 闇の中に沈んだ矢矧は、射しこむ希望のような光を見た。

 光の中に、手を伸ばす。

 その手を、誰かが掴んだ。

 それは、先に散った、笑顔で迎える浜風や朝霜。そしてそのずっと前にも失った姉妹と仲間たち。

 矢矧は彼女達に引かれるままに歩き出し、笑顔を向けた。

 もう、闇から光の中に消えていく矢矧の表情に、無表情というものは存在しなかった。

 


 鈍い爆発音が轟き、神龍は主砲の上から防空指揮所に急いで瞬間移動し、爆発音が聞こえた海を見た。

 そこには、大爆発を起こしながら海中に沈んでいく『矢矧』が見えた。

 「矢矧ぃぃぃぃぃぃぃぃぃッッ!!」

 神龍は爆発と共に身を海に投じていく『矢矧』に向かって、友の名を張り裂ける声で叫んだ。

 やがて『矢矧』は完全に沈没し、海面には浮かんだ角材に捕まる大勢の生存者たちと漏れ出た重油しか見えなくなっていた。

 神龍は目を大きく見開き、口を開けたまま、愕然とその光景を見詰めていた。

 「矢矧……」

 もう彼女は、最も一緒に時を過ごした友は、この世からいなくなっていた。


 第二次攻撃隊が撤退し、再び『大和』以下第一遊撃部隊につかの間の休憩が訪れた。

 しかし被害は甚大だった。

 『大和』は爆撃・雷撃を受け、副舵が故障、傾いた傾斜は回復するが右舷区画満水のため右舷機関室に注水し、多数の機関員が戦死した。『大和』中央部に中型爆弾三発が命中し、高角砲群が壊滅大火災発生に至った。巨艦も速度を落とし、傷だらけだった。

 航行不能になった『矢矧』を救助しようと横付け作業を行うために速度を落とした『磯風』を容赦なく悪魔の手が忍び寄り、そして『磯風』は至近弾を受けて機関室が浸水、航行不能となった。

 『大和』左舷側に位置していた『涼月』『霞』も大破し、『大和』の左舷側の対空能力は低下した。

 そして第二水雷戦隊旗艦だった『矢矧』も戦没した。

 唯一艦隊の中で無事なのは、『雪風』『冬月』『初霜』『神龍』だけだった。

 小規模に発生した火災を放水で消火作業をあたる兵員たちの背を通り過ぎ、三笠は黒く染めた頬を拭い、疲れきった足で彼女の元へと歩いていた。

 補充兵として飛び交う弾の下を走り回り、足は棒のように重かった。普段は主計科兵の烹炊班として戦闘訓練は受けていない三笠にとって、更に実戦というのは、正直辛かった。

 それでも三笠は戦っている。彼女を護ると決めたから。そして彼女も懸命に戦っている。

 主砲の上に登ると、そこにはぺたんと足を崩し、愕然とした表情で俯く神龍の姿が目に入った。

 その身体は、敵の攻撃を受けて負傷を見られるが、大した傷ではない。目立つのは左腕に巻かれた赤く滲んだ包帯くらいだった。

 「神龍……」

 三笠がそばに寄っても、神龍は顔を俯けたままだった。

 ついさっき、防空指揮所から戻ってきた神龍は、主砲の上でぺたんと座り込んだ。つかの間の休憩に、意識を消沈させてしまっている。

 「しっかりしろッ! 神龍!」

 三笠の呼びかけに、神龍はゆっくりと顔を上げ、三笠を見た。その表情は生気が抜けているようだった。

 「三笠二曹……」

 神龍はやっと三笠の存在に気付いたかのように、三笠を見詰め、そして顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、三笠の胸に飛び込んだ。

 「三笠二曹…! ……矢矧が……矢矧がぁ……うぇ…うえぇぇッ…」

 三笠の胸の中で、神龍は嗚咽を漏らし、三笠はそんなか弱い彼女をそっと抱き締めた。

 「…朝霜さんや……浜風まで死んで……そしてまた…今度は矢矧まで…ッ…うああ…」

 「神龍……」

 これまでに仲間を失い、耐えてきた神龍だったが、いつも一緒に過ごす時間が最も多かった一人の矢矧が死んだことは大きかった。ただ部下としてだけではない、友人とも思っていた矢矧の死によって遂に神龍は耐え切れなくなって泣き崩れた。三笠はそんな神龍をただ抱き締めていた。

 しかしそんな感傷に浸る余裕も、敵は残酷にも与えてくれなかった。

 すぐに一挙に大半を失った爆撃機を埋め合わせ、第三次攻撃隊が飛来した。雲の切れ間からぷつぷつと敵機の姿が現れ、それが無数に広がる。対空ラッパが鳴り響き、再び艦隊は慌しくなった。対空ラッパが鳴る中で、神龍は三笠の胸の中にいたまま、そっと三笠の背に手を回して抱き締めた。

 「神龍……そろそろ…」

 「えぐ…ッ……うぇぇぇ……」

 三笠の胸から顔を離さない神龍は声をあげて泣き続けた。三笠の腕を爪が食い込むほどの強さで力いっぱいに握り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる顔を三笠の胸に押し付ける。対空ラッパが聞こえていないのか、神龍の嗚咽は止まなかった。

 「いい加減にしろッ! 神龍ッ!!」

 神龍の肩がビクリと震え、ピタリと嗚咽が止まった。

 三笠は神龍の肩を掴み、自分の胸から離して、涙と鼻水を流す神龍の酷い顔を見た。

 「お前がここで泣いてどうする…ッ! 戦いはまだ続いているんだッ! 朝霜や浜風、矢矧は確かに死んだよ…ッ。でもさ……今、泣いたって死んだ奴は戻ってこないんだ……。戦いはまだ続いているんだ。 まだ死ぬやつが出るかもしれない……。…いや、これ以上誰かを死なせないためにも戦い続けるしかないんだッ! お前、護衛戦艦だろッ?!護りたいものを護るんだろッ!? そんな奴が……ここで泣くなッ!!」

 三笠は神龍の肩を掴んで揺さぶりながら激昂した。神龍は呆然と三笠を見詰め、三笠の瞳も堪えた涙でいっぱいだった。

 「三笠二曹……」

 神龍は三笠の瞳を見詰めてから、泣き続けた顔を伏せた。

 そして顔を上げ、涙で充血した目を拭った。そして手を胸に当てて深呼吸する。目を開いた神龍の表情は、さっきまで友の死に泣き崩れていた女の子ではない、勇ましい軍人になっていた。

 三笠は力強く頷いた。

 彼女も普通の女の子だが、戦うためには軍人にもならなければならない。

 神龍は、三笠から離れ、立ち上がった。三笠も神龍を見上げてから、立ち上がった。

 そして二人で、雲の切れ間から見える敵の大編隊を見詰めた。

 戦いはまだ終わっていない。

 まだまだ、戦いは終わらないのだ。


 一時撤退し、一挙に大半を失った数を埋めなおし、第三次攻撃隊が傷だらけの第一遊撃部隊に襲い掛かった。そしてまた再び、各艦は対空射撃に火を吹かせ、第三次攻撃隊はより一層の苛烈で執拗な攻撃を第一遊撃部隊へ加えた。

 三式弾などの対空攻撃で撃ち落される覚悟で、敵機は一斉に果敢に突っ込んできた。

 そして対空攻撃を潜り抜けてきた敵機が艦艇まで達すると、執拗な攻撃を仕掛けた。

 次々と魚雷や爆弾の命中を受け続けた旗艦『大和』だったが、流石に重防御を世界に誇る主要防御部は一発や二発の命中では大きな損害を受けるものでは無い。しかし短時間に左舷中央後部に相次いで命中した五本の魚雷は、ほぼ同一箇所へ集中して命中した事もあり、遂に強固な主要防御部内にまで損害を達しさせたばかりでなく、副舵までを操作不能に陥らせていた。

 爆弾三発が煙突両側の高角砲群へ次々と落下したこともあって、既に『大和』はその重防御を第三波の段階では崩れていたのだった。

 戦闘開始から一時間半が過ぎ、この頃には既に後部艦橋左側や艦中央部煙突両側の高角砲群への直撃弾を発生源とする艦中央構造物周辺の大火災に加え、被爆や被雷による浸水や破壊で艦橋と艦内各部との連絡が不通になり始めていた。そのために人の足で伝令が走り回ることになるが、十分に命令が疎通できるわけがなかった。艦橋からでは余りにも巨大すぎる『大和』の全体を網羅しての命中弾や至近弾の判別が難しくなっていた。鈍い爆発音や振動が起こっても、どこで何が起こっているのか、艦橋にいる者たちはわからなかった。

 「右舷魚雷接近ッ!」

 既に防空指揮所も敵機の機銃掃射を何度も浴びて、何人もの見張り員が血にまみれ、死亡していた。生き残った数人だけの見張り員が必死に状況を伝え、有賀も命令を下していた。

 「取り舵いっぱぁぁぁぁいッ!!」

 しかし『大和』も十分に操艦は出来ない状態に陥り、速度も低下していた。

 有賀の操艦も虚しく、右舷中央部に魚雷が一発、命中した。

 白い水柱が立ち上り、『大和』はそれでも前進を続けていた。

 更に後部に魚雷二発が命中した。

 その度に艦魂である大和は勇ましくポニーテールを揺らして獅子奮闘するも、攻撃を受けるたびにその身体の裂けた口から鮮血を迸り、苦悶に表情を歪ませていた。

 しかしそれでも大和は立ち続け、刀を振るい、迫り来る敵機を落とし続けた。

 「はぁッ!!」

 大和が白刃を一閃、虚空を切り裂いたわけではなかった。

 『大和』の必死の対空射撃が敵機の機体を貫き、敵機は火の十字架となって海に墜落した。

 しかしその力を振り絞ったかのように、大和は敵機を切り裂いた直後、ガクリと膝を付いた。

 荒い呼吸は、口の中に広がる鉄の味を吐き出す。

 肩が上下に動き、荒い呼吸をするばかりで、その瞳は闇に支配されようとしていた。

 『大和』に殺到する敵機の猛威は激しさを増すばかりで止まることを知らなかった。

 『大和』はもはや傷だらけで、満身創痍に戦っていた。巨大な黒煙がもうもうと『大和』の頭上を覆い、甲板は機銃掃射に倒れた兵員たちの血と肉片で真っ赤に染まり、無数の死体が転がっていた。高角砲も機銃座も死体と血で真っ赤に染まり、生きている者は少なかった。『大和』の対空能力は瀕死の状態だった。もはや抵抗する力も底を付き、今までの爆撃と雷撃によって操艦も出来ず、攻撃を避けることすら出来なかった。

 『大和』の周りに水柱が立ち上り、『大和』という艦自体も傾き始めていた。

 そんな『大和』に容赦なく猛威が振りかかる。回避行動も取れない『大和』後部に、魚雷二発が命中した。

 ズドドドォォォォォォンッッ!!!

 「―――――ッ」

 大和は声も出ず、血を吐きながら、そのまま身体が前に倒れこんだ。

 世界最大を誇る46センチ主砲の上で、血の海に溺れた歴戦の撫子たる大和は遂にその身を紅蓮に染めて己の自慢の主砲の上に抱くように倒れていた。

 『大和』後部に命中した魚雷二発によって、速度が十二ノットに低下。もはや鈍足の格好の獲物だった。更に左舷に向けて傾斜が六度傾いた。

 浸水により艦体は著しく傾斜し、加えて速力も大きく低下し、そして何よりも艦体が飲み込んだ莫大な量の海水により操艦までが難しくなっていた。

 「こちら機関室ッ! 復原不能ッ!!」

 「艦内に浸水ッ! 復原の見込みなしッ!」

 「第八機銃座、第十一機銃座、第十七高角砲も……全滅ッ! 全員戦死ッ!」

 傾き始めた艦橋の中、最悪の報告が続いた。

 それを聞き届けた伊藤はゆっくりと皆を見渡した。

 「……もはや潮時が来た。 全艦に作戦中止を伝えよ」

 「……はっ」

 作戦続行不可能と判断した第一遊撃部隊第二艦隊司令長官の伊藤整一中将は、遂に生き残りの第一遊撃部隊全艦へ作戦中止を旗流信号を使って命じた。

 注水による傾斜回復や弾火薬庫への緊急注水の遠隔操作が困難となった。

 そのため急速に増加しはじめた艦体の傾斜を食い止める術が無くなり、艦内は掴まる物が無いと立っているのも難しい状態となった。

 しかも、この命中魚雷による浸水のため後部注排水制御室に続いて操舵室までが全滅して操舵不能となり、『大和』は左へ、左へと旋回を続けるだけの状態に陥った。

 また、この頃までに後部艦橋と第二副砲塔を中心に発生する大火災により第三主砲塔の弾火薬庫が危険温度に達したとの連絡が艦橋へ伝えられた。

 いつ誘爆を起こしてもおかしくない状況でもあったのだ。

 このように続けざまに致命的な損害状況が相次いで発生したため、防御指揮所で指揮を取っていた副長の熊村は、防空指揮所で戦闘指揮を続ける有賀に損害回復復原不能のため総員退艦を進言した。有賀はそれを受け入れ総員退艦命令である総員最上甲板を発令した。

 「有賀艦長、総員退艦命令を出してくれ」

 「……わかっ……た…」

 帰ってきた有賀の返事は弱々しく、聞いているほうも、有賀が負傷していることは明白だった。森下は有賀の負傷……それも重傷を負ったのであろう弱々しい返事を聞いて、苦く下唇を噛んだ。

 『大和』の防空指揮所はもはや血に染まり、見張り員は全滅していた。見張り員たちの死体に囲まれ、敵機の機銃掃射を浴びた有賀も、命からがら、伝声管に向かって声を振り絞った。

 「……総員、離艦……。 直ちに…フネを……離れろ…ッ」

 撃たれて血に染めた腕の傷を抑える有賀の横で、まだ生きていた見張り員が震えながらもゆっくりと起き上がろうとしていた。見張りとしての責務を果たそうとしているのか、それとも命令通りに離艦しようとしているのか……どちらにせよ、彼はここから離れることは出来なかった。ゆっくりと血だらけの身体を起き上がらせた見張り員は直後に右から旋回してきた敵機の機銃掃射を容赦なく撃ち込まれ、遂に絶命し、機銃弾を撃ち込まれた身体は吹き飛んで防空指揮所から落下した。

 有賀はそんな光景も横目で流すことしか出来ず、苦悶に表情を歪め、ただ総員離艦という命令を繰り返すばかりだった。

 続いて有賀は『大和』を日本本土の方向である北へ向ける事を指示した。(艦を北へ向けると言う行為は死者を北枕で寝かせる事と同じ意味もあり、沈没を覚悟した処置であったとの説もある)

 『神龍』は傾きを止めない『大和』に殺到する敵機を叩き落そうとするが、自分の身に襲い掛かる敵機の相手をするばかりで、護衛に手が付けられなかった。先ほどの奇跡は一度だけで、ただ『大和』の変えられない運命を遅らせることしか役目は果たせなかった。

 傾きながらゆっくりと日本がいる北に艦首を向けつつある自艦に気付いて、大和は倒れたままピクリとも動かないまま、微かに口もとを緩ませた。

 「……日本、か…。 帰りたかった……な…」

 愛するべき祖国、日本。

 日の本を護る、護国戦艦。

 もっと大好きな日本で生きたかった。だけど自分を生んでくれた日本のために死ねるなら本望。

 世界一の戦艦として自分をこの世に産み落としてくれた日本を、心より感謝するしかない。

 大好きな日本を、自分たちが神風となって護ろうとした。

 自分たちはこれで本当に日本のために出来たのだろうか?

 自分の死が、敗北が、日本のためになることを祈って。

 大和は、静かに、その口を微かに動かした。

 その口から漏れて、紡がれるものは、歌だった。

 その歌詞は、国を想う素晴らしい国歌――――『君が代』。

 大和は傾き続ける自艦の上で、『君が代』を唄い続けた……。

 唸りをあげて傾き巨艦から、凛と通った美しいお姫様のような歌声が奏でられていた。



 透きとおるような美しい歌姫の奏でる国歌が通る中、一本の魚雷が『大和』に迫った。

 まるで総員退艦の時間さえ与えないかのように事実上、とどめの一撃となった十本目の魚雷が『大和』の左舷中央部へ命中した。この魚雷命中の浸水により傾斜は一気に増大した。

 とどめを刺したのは、第四波の空母『ヨークタウン』から発進した六機だった。

 もはや世界最大最強と謳われた不沈戦艦『大和』は、その身を東シナ海に没しようとしていた……。

 「そんな……ッ!」

 頬を黒く染め、長い黒髪も乱れた、獅子奮闘を続けていた神龍は、主砲の上から転覆しようと傾斜を傾き続ける『大和』に向かって目を大きく見開いた。

 同じく三笠も、弾薬を運ぶ足が止まり、呆然とすこしずつ傾いて海水に浸かっていく『大和』を見ていた。

 「『大和』が……ッ」

 『神龍』の艦橋からも、旗艦の沈み往く姿がはっきりと見て取れた。

 「『大和』! 傾きます!」

 誰かが叫ぶが、艦橋にいる草津をはじめとした一同は唖然とその光景を見詰めていた。

 護衛する対象の『大和』が、その巨艦を、炎と煙を吐きながら、傾いてその身を海水に浸からせている。

 あのまま傾き続ければ転覆するのは明確だった。しかしそんな『大和』に敵機は執拗な攻撃を続けた。

 なんと、傾いた甲板から海に滑り落ちていく兵員たちを、敵機が機銃掃射を浴びせているのだ。

 この敵機の行為によって、転覆まで執拗に続けられた攻撃により『大和』乗組員達は沈みゆく艦体から離脱するのが遅れ、極めて多くの戦死者を出す事となったとされている。

 海に漂流する兵員たちさえ、敵機は情けをかけない。容赦なく戦う力も微塵も残されていない海に浮かぶ兵員たちを執拗に撃ち続けた。

 人間とはずば抜けた視力を持つ神龍はその光景を見つけて、これまでに感じたことがない史上最大の怒りを感じさせ、握った拳が震え上がった。

 「酷い…ッ! 酷すぎる……ッ!」

 そんな神龍の耳に、接近する敵機の炸裂音が届いた。

 主砲の上に立つ神龍は、迫り来る一機の敵機を見つけ、睨んだ。

 その表情はただの女の子ではない、憎悪に満ちた一人の武人の顔だった。



 『ヤマト』が転覆して沈むのは時間の問題だ。ならば、後は『ヤマト』に続く大型艦である目の前の『モンスター』と呼ばれるバケモノを徹底的に攻撃するだけ。『ヤマト』のように執拗な攻撃を仕掛けて痛めつけてやる。

 『ホーネット』から飛び立った雷撃隊所属のTBFアヴェンジャー一機が『神龍』の艦首部分、主砲が目の前に見えるところを、飛行していた。

 搭乗するパイロット、ケイはその達者な腕前で対空射撃の嵐を潜り抜け、海面すれすれを飛行する。後部に座席する仲間が計測器で的確に計り、魚雷を投下した。機体から一本の魚雷が切り離され、魚雷は海中に潜ると白い雷跡を引いて真っ直ぐに目の前の大型艦の艦首に向かっていった。

 「その菊の紋章に穴を開けてやるッ!」

 後部に座席する仲間が魚雷を放った瞬間に言った言葉だったが、ケイは受け流した。迫り来る目の前の敵艦の艦首との衝突を避けるために機首を即座に上げた。

 白い雷跡を引き、その上を機首を上げたアヴェンジャーが炸裂音を響かせながら『神龍』の主砲の上を通り過ぎようとした。

 しかしその前を、ケイは主砲の上に立つ人影を見て、咄嗟に機銃トリガーに手をかけた。

 しかし、トリガーを押すことは出来なかった。

 ケイは驚愕に目を見開いた。

 なんと目の前の、敵艦の主砲の上に立っているのは、一人の少女だった。

 それは、ホーネットと同じ艦魂だと、ケイはすぐにわかった。

 東洋の有色人種の肌と、漆黒の瞳と長髪。そして着ている軍服も日本海軍特有の黒さ。

 しかしその雰囲気と存在感は、感嘆の声をあげたくなるような、美しいものだと感じた。

 「beautiful……」

 ぼそりと呟いた瞬間、ケイの額を一発の弾丸が貫いた。

 コクピットはケイの頭から開いた穴から噴出した血で赤く染まり、後部に座席していた仲間が悲鳴を上げた。

 ケイは自分の額を撃ち抜かれる瞬間、最期に、主砲の上に立った武人のような顔をした一人の少女が鋭い視線でこちらを射抜き、拳銃を向けていた光景を、見た―――。

 



 一機の雷撃機が煙を吐き、拳銃を構えた神龍の頭上をすれすれで通り過ぎていった。そしてそのまま神龍は背後で、敵機が海水に着水する音と衝撃を聞いた。しかし神龍は一度も背後を振り返らなかった。ただ冷徹に、拳銃を腰におさめた。

 パイロットは撃ち抜かれ、コントロールを失った敵機はそのまま海面に墜落した。

 神龍は乱れた髪が肌に付いた無表情を、ゆっくりと海水にその身を沈ませていく『大和』を見詰めた。



 その頃、『ヤマト』以下日本艦隊への攻撃開始から二時間近くが経った。レイモンドはただ黙って刻々と入る攻撃の成果、そして途中に入った一度だけの信じられない損害(爆撃機数十機全機撃墜)も、艦橋で聞くだけだった。

 レイモンドは、デービス参謀に言った。

 「デイヨーにすまないと言っておいてくれないか。 艦隊決戦はどうにも出来無そうだ」

 「……イエッサー」

 『ヤマト』以下日本艦隊をデイヨー艦隊と共に我が主砲で迎え撃ち、艦隊決戦を望もうとしたが、ミッチャーの機動部隊がいち早く『ヤマト』以下の艦隊を発見して攻撃を開始し、『ヤマト』も遂に同型艦の『ムサシ』の後を辿るように沈むようだった。

 艦隊決戦は出来ない。デイヨーや他の兵員たちも世界最大の主砲とやりあえることを歓喜と興奮に震えていたというのに、叶えられないようだった。

 そんなレイモンドの耳に、誰かの言葉を聞いた。

 「攻撃隊の艦載機は、海に投げ出された生存者たちを機銃掃射しているらしいぞ」

 「おお、それは良いことじゃないか」

 「やっちまえ、ジャップは皆殺しだ」

 「そうだ、日本人なんて一人残らず殺してしまえ」

 それらの会話を聞いて、レイモンドは込み上がる熱い感情に押され、立ち上がった。

 「なんということだッ! 馬鹿なことを……ッ!」

 レイモンドは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 これには艦橋にいた幕僚や参謀たちが驚きに目を見張り、傍にいた艦魂のニューメキシコも驚愕した。普段は温和なレイモンドが怒鳴る姿など、みんなが初めて見るものだった。

 「海に投げ出された生存者に機銃掃射などなんという非道ッ! それが海軍軍人のすることか? 合衆国海軍に汚点を残すつもりかッ! 即刻やめさせるようにミッチャーに伝えろ。 そして伝えよ。 恥を知れ、とな」

 それだけを言い放つと、レイモンドは鬼のように真っ赤な顔をして、その場を立ち去った。

 長官室に閉じこもったレイモンド。幕僚や参謀たちはぽかんと残され、ニューメキシコは慌てて彼の背を追いかけた。

 レイモンドは後悔した。

 こんなことになるのなら、ミッチャーなどにやらせずに艦隊戦を押し切れば良かった。機動部隊は勝利の名誉と誇りを汚したのだ。勝ち戦でこんな後悔は初めてだった。

 そんな彼の背を、ただニューメキシコは見詰めることしか出来なかった。

 しかしレイモンドの叶えられないと思っていた願いは、意外なことで実現することになるのを、まだレイモンドは知る由もなかった。




 艦体右舷の艦底までが水上に露出し、兵員たちが海に投げ出されていった。『大和』はその巨艦をほとんど海水に沈ませていた。

 『大和』の傾斜は二十度に達していた。真っ直ぐ立っていることも難しかった。

 空襲が始まって二時間。健在なのは、『初霜』『冬月』『雪風』『神龍』のみ。大型艦である『神龍』が健在なのは奇跡としか言い様がない。『涼月』『霞』『磯風』は沈んではいないものの大破又は航行不能。戦線を離脱しても良いくらいだった。

 傾いた艦橋の中、伊藤は椅子につかまって、森下に言った。

 「艦隊幕僚は『冬月』に移乗し、残存部隊の接収に努めろ。 そして、生存者の救助に全力をあげろ」

 「わかりました……」

 「もはや『大和』は沖縄にたどり着くことは出来なくなってしまった。 幕僚は横付けの駆逐艦に乗り、沖縄へ先行せよ」

 「長官は?」

 「自分は、『大和』に残る」

 伊藤はそう言って、微笑んだ。

 伊藤は幕僚たちと握手を交わし、森下は伊藤に敬礼をして見せてくれた。伊藤は敬礼する森下を見詰め、微笑みながら返礼した。幕僚たちも敬礼し、伊藤はその中を、斜めになった床を進んで、長官室に下りていった。

 長官室に入り、ドアを閉じると、つかの間の静寂が訪れた。可燃物は全て取り払っているので部屋はガランとしている。あれだけ立派だった長官室はひどく殺風景だった。床はひどく傾いており、立つことも出来ない。

 伊藤は目を瞑り、愛する妻と娘たちを想った。

 「(ちとせ……純子……淑子……貞子……)」

 妻と娘たちに、すまん、と謝って、伊藤は目を開いた。

 だが、妻と娘たちに、私の死によって悲しまないでほしい。

 これが、自分の人生なのだ。

 それをわかってほしい。

 心は決まっている。

 安らかな気分だった。

 伊藤はふと、殺風景な長官室に違和感を感じた。最初から違和感ばりばりと言えるのだが、伊藤は長官室を見渡した。そして壁に背を預けて腰を落としている変わり果てた姿の大和を見つけた。

 「大和……君もいたのか」

 伊藤は傾いた床の上を進んで、大和のそばまで歩み寄った。

 ズタズタに服を引き裂かれ、血で真っ赤に染めた大和はゆっくりと視線を伊藤のほうに向けると、微かに微笑んだ。

 「伊藤殿……」

 大和のそばまで行くと、伊藤も腰を下ろした。

 「何をしている……。 早く……立ち去れ…」

 伊藤は首を横に振った。

 「私も残るよ」

 「………」

 大和はジッと伊藤の瞳を見詰めてから、フッと笑みを浮かべた。

 「あなたは頑固だから言っても聞かないだろう……。 私の力で強制的にあなたを他の艦に移すことも可能といえば可能だが……すまん…その力さえ私には残っていないようだ…」

 「それでいいんだ。 私は司令長官として、艦と運命を共にする」

 「……そうか」

 傾いた床に腰を下ろした伊藤は大和と肩を並べた。

 「…大和、死ぬ前にちょっといいか」

 「…なんだ。 時間がない……。手短に頼むぞ…?」

 「歌、唄ってくれないか……」

 「なに…?」

 大和はピクリと反応し、力を失い、血に染めた顔を伊藤に向け、キッと鋭い瞳で伊藤を射抜いた。

 「お前……歌、好きだろ…。しかも中々の腕だ……聞いてみたい…」

 「……何故、あなたが知っている…。 私の歌は…妹しか知らなかったはずだが……」

 「すまんな…。たまたま、おまえの妹の命日に、おまえが一人で小さく唄っているところを…目撃したことがあってな……」

 「な……ッ!」

 大和は顔を赤くした。

 大和は歌が好きだった。しかしそれは艦魂たちの武人・司令長官としてのイメージとは違うような、本物の歌姫のような美しい大和の姿。大和は他の艦魂たちには秘密にしていたが、生きていた頃の妹の武蔵だけには自分の歌声を聞かせていた。実は妹にも秘密にしていたことなのだが、その妹にバレて、聞かせる羽目になったのだが。

 大和は亡き妹の武蔵のことを思い出した。

 戦艦『大和』の艦内の一室で、大和と武蔵の姉妹二人だけの披露会が行われていた。と、言っても大和一人が歌うだけである。

 顔をほのかに気恥ずかしそうに赤く染めた大和が、ポニーテールを雅に靡いて、その喉から美しい歌声を目の前で観賞するただ一人の妹の前で披露していた。

 大和が歌を歌い終えると、武蔵からの拍手があがった。

 「凄いよお姉ちゃん。 やっぱりお姉ちゃんの歌声はいつ聞いてもいいね〜」

 「はぁ……。 まったく、今日はここまでだ」

 「え〜? まだ聴〜き〜た〜い〜」

 口を尖らせてぶーぶー言う武蔵を、大和が溜息混じりに言う。

 「何曲目だ……勘弁してくれよ、我が妹よ…」

 「だって本当にお姉ちゃんの歌声って綺麗なんだもん。 宝塚に入ってもいいくらいだよ」

 武蔵の言葉に、大和は笑い捨てた。

 「私は戦う為に生まれた艦魂だぞ? 歌が上手くても何の役にも立たん」

 「そんなことないよ。 歌は戦争をなくすんだよ、うん」

 武蔵はニコニコと微笑み、何度も頷いた。大和は目を丸くしてから、フッと微笑んだ。

 「だからお姉ちゃんの歌は、みんなにも聞かせてあげたいよ。それもみんなだけじゃなくて、アメリカとか、敵にも聞かせたら、きっとみんなお姉ちゃんの歌声で仲良くなるよ♪」

 大和は苦笑し、武蔵の言葉に呆れるしかなかった。しかしそう言われてどこか嬉しさを感じている自分がいた。

 武蔵は子供のようなことを言う、可愛らしい妹だった。

 「せめてみんなにも聞かせてあげたらいいのに〜」

 「それだけは本当にやめてくれ…。 私のイメージが壊れかねる…」

 「そんなことないってば。みんな、きっと喜ぶよ」

 「いや、だから……」

 「恥ずかしいんなら、私からみんなに伝えておいてあげる!」

 「え……? ちょ…ッ!待…ッ!」

 スタートダッシュし、「みんな〜!」と大喜びに叫んで走り去っていく武蔵を、大和は慌てて追いかけた。はしゃぐ妹の背を追いかけ、大和は必死に追いかけるも、その口もとを緩ませるのだった。

 そんな妹も、自分より先にこの世を去った。

 妹が自分の歌声でなくせるといった戦争によって。

 しかし自分ももうすぐ妹の、武蔵のところに往ける。

 どうせ天国にいる妹のところに行ったら、また歌を歌って欲しいと言われるに違いない。

 なら、練習のつもりで、ここで歌ってもいいか……。

 「いいだろう…」

 大和の返事に、伊藤は微笑んだ。

 「そうか、ありがとう」

 伊藤の微笑みに大和はドキリと胸を高鳴らせるが、やがて頬に朱色を染めて微笑んだ。

 「しかし久しぶりだからな。上手く出来るかは知らんぞ?」

 「いいんだ。歌ってくれ」

 「…笑うなよ?」

 「笑わないさ」

 「…わかった。だが、もうちょっと待て」

 「?」

 大和はゆっくりと身体を動かした。本当ならもう身体を動かす力など残っていないはずだった。引き裂かれて真っ赤に染まった身体を、伊藤のほうに向けて、大和はゆっくりと、伊藤の頬にその柔らかい唇を当てた。

 伊藤の頬から唇を離した大和を、伊藤は驚いた風に目を見開き、大和は頬を火照りながら気恥ずかしそうにしていた。

 「……では、ゆくぞ?」

 大和は、口を開き、歌声を紡いだ。

 静寂の中で紡がれる歌声は、結晶のように透き通るように美しい。長官室の壁を通って艦全体にも届いているようだった。

 いや、沈もうとする戦艦『大和』全体に、大和の美しい歌声が奏でられていた。

 艦橋で覚悟を決めた幕僚と参謀たちも、歌姫の歌声を聞いた。

 「……大和が唄っている…」

 傾く床の上で物を掴みながら、森下は呟いた。

 投げ出されていく兵員たちも、つかの間に、どこからか届く歌声を聞いた。

 そして、遠く離れた『神龍』にいる三笠や、神龍にも届いた気がした。

 「この歌声……」

 三笠は耳に届く綺麗な歌声を確かに聴いた。

 「……大和さん?」

 神龍はつかの間の静寂に耳を澄まし、長い黒髪を靡かせながら歌声を聴いた。

 その歌声は、日本のものでもない、ドイツのものでもない、英語の歌詞だった。

 沈もうとする『大和』の上空を旋回する米艦載機のパイロットたちも、無線のノイズとは別の、ハッキリとした歌声を聴いた。

 「―――Song?」

 アレックスは、確かに聴きなれた、―――愛を歌った歌詞―――の、母国の歌を聴いた。

 それは、国歌でもなく軍歌でもない。

 愛を奏でた歌。

 その歌は世界的にも有名な、愛の歌。

 その歌は、聴くもの全ての心に溶け込むように浸透していった。

 それはまるで、心が温かく、洗われるような感覚。

 大和は揺さぶり始めたと同時に傾斜を拡大させた自艦を感じ取りながらも、美しい歌声を出すのはやめなかった。

 大和は、歴戦の戦姫ではない。戦い抜いた大和撫子ではない。

 一人の、愛を奏でる歌姫になっていた。

 伊藤は瞳を瞑り、その歌声をずっと聴いていた。

 そしておもむろに、拳銃を取り出した。

 大和は虚空を見詰めて歌い続ける。その横で伊藤は大和の歌声を聞きながら、銃口をこめかみに当てて、引き金を絞った。

 

 ――――美しい歌声が奏でる中、一発の銃声が木霊した――――


 それから、歌声は最後まで歌いきると、同時に『大和』は沈みゆく巨艦を大きく揺さぶり始め、転覆した。

 倒れた艦橋が海中に沈み、艦体は横転しながら海中に身を投じて、大爆発を起こした。

 戦闘開始から約二時間の苦闘の末に、遂に世界最大の不沈戦艦を謳った戦艦『大和』は浸水に耐えられなくなり左舷へ転覆し、その後に巨大な火柱を吹き上げると、どす黒いキノコ雲を天高く残して東シナ海の海底に没していった。

 海中の沈みゆく中、第二、第三主砲塔の弾火薬庫誘爆に加え、沈没時まで全力運転を続けていた機関部からの水蒸気爆発により艦体は第二主砲塔部から切断され、同時に艦橋部や主砲塔が艦体から離脱し、海底に四散した。戦艦『大和』は見事に散りゆく桜の如く三千名の将兵と共に散っていった。 

 そして、『大和』沈没の報を受けた連合艦隊司令部から残存の随伴艦隊に対して電令第六一六号が発令された。ここに、海上特攻作戦は完全に終了した。



 命令六一六号


 一.第一遊撃部隊ノ突入作戦ヲ中止ス


 二.第一遊撃部隊指揮官ハ漂流者ヲ救助シ佐世保ニ帰投スベシ




 世界最大最強の不沈戦艦『大和』は遂に戦没。司令長官である伊藤整一中将も艦と運命を共にした。

 奈良の旧名であると同時に、日の本を象徴とする呼称でもある響きは聞く者の心を、日本人の心を打った。

 海底深くに沈んだ日本の象徴といえる『大和』。護衛戦艦『神龍』を残し、その身を投じた。大艦巨砲主義を『神龍』に託して。

 大和は光が射す中、ポニーテールを揺らし、光の川の上を歩いていた。

 その隣には、優しく微笑む伊藤の姿もあった。

 ―――天国に行けば、また武蔵に聞かせてやらなければならなくなるなぁ……―――

 ―――いいじゃないか。何なら先に逝った仲間たちも呼んで、コンサートを開いてみたらどうだ―――

 ―――冗談ではないぞ…―――

 ―――その時はまた私も聞きたいな。楽しみだ―――

 大和は観念したように、溜息を吐いた。

 そして、二人は並んで、光の川を歩く。

 天高く、二人の偉大な司令長官は、昇っていった。

 


遂に矢矧、そして大和が戦没し、第一遊撃部隊による海上特攻作戦は連合艦隊司令部の命令によって完全に終了しました。しかし、ここからが本作の醍醐味といえる、神龍の孤独な戦いが始まります。これから始まる史実にない架空の戦闘、この戦いこそが、神龍の最後の戦いであり、本作の真の決戦です。

お気づきのかたもいるかと思いますが、今回の坊ノ岬沖海戦の内容は少々史実とは違った感じ(史実ならば矢矧が沈没直後に大和も沈みます)になっていました。これは神龍という架空戦艦が介入していることによって、戦記も史実とは異なった部分となっています。ご了承ください。

結局、史実より時間的に遅れただけで、戦没という決定的事項は変わることはありませんでした。

しかしこれから、神龍の真の戦いが、史実ではレイモンドも望んでいたが叶わなかった艦隊決戦として実現されます。どうぞ最後まで、神龍の本懐にお付き合いください。

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