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なんて弱い

 パパが瓶を叩きつけて出ていき、ひとまず懸念が去ってほっとする。

 暴威が止んで早駆けと顔を見合わせたけれど、互いにすぐに背けてしまった。

 しばらく無言が続く。なんと言い出せばいいのかがわからない。

 それはきっと早駆けも同じだろう。むしろあんな状況を見てしまっては、早駆けのほうから切りだすのは色々とはばかられるだろう。ここはわたしからいかなければならない。

 ふぅ、と呼吸を整えてようやく口を開く。

「またいやなところを見られたね」

「その、ごめん。なんかいっつも間が悪いみたいだ」

「早駆けが悪いんじゃないよ」

 酒瓶をぶつけられた肩は大丈夫だろうか。早駆けの鎖骨から肩へ向けて、人差し指をゆっくりとなぞらせる。肩の付け根に触れると早駆けがうめいた。二三度ほど角度を変えて同じところをなでてみる。骨ばった固い感触が指先を押し返す。おそらく大丈夫だろう。

「折れてないみたい」

「あんたも診れるんだな」

「必要なものがないから、いやでも身に付いてしまう」

「……そうだな」

 自分の肩も同じように触診していく。なんともないようだ。お腹はどうか。痛みはかなり引いているけれど、結構な強さで殴られたから、(あざ)になっているだろう。痣といえば、頬と鼻筋にはいつもの痕ができているに違いない。こちらは診なくてもわかる。

 早駆けがわたしの頬のあたりをじっと見ている。鼻血のあとが気になるのだろうか。とっくに乾いていると思うけれど……いや、早駆けが見ているのは鼻血のあとじゃない。顔の痣だ。そういえば前にその原因をごまかした覚えがある。だけどいまの出来事を目の当たりにして、原因に思い至っただろう。

「なんで親からあんな目に――」

「あんなのが親だなんて」

 我ながらパパと呼んでいるのもおかしいぐらいだ。昔からそう呼ぶようしつけられている。

 しつけ。強制の言いかえ。なんて体のいい言葉。もっとも呼び方を変えたところで、それが現実に反映されるわけでもない。だから呼び方には頓着していない。いやなのはあの態度だ。

「いつもあんなふうにさ、力づくで従わせようとして――」

 暴力を振るわれるといつも従順になってしまう。痛いのはいやだと投げ出してしまう。そうして状況に取り残される。その中で、

「ただ耐えるだけ。耐えた先になにがあるってんだろう」

「なにがあるんだろうな」

 早駆けが弱く同調するので、わたしははっきり、「なにもないよ」と言い返す。

「なにもないのに、耐えた先になにかがある、明日にはいいことがあるかもしれないなんて期待だけで生きているの。そう思わないとやっていけないから。期待を捨てきれていないんだね、きっと」

 ぶたれることに慣れている。痛いのはいやだと背を向けることに慣れている。なにかを変えようという意志をいともたやすく潰されてしまうことに慣らされている。身は心もそんな状態に飼い慣らされている。

 だけどそれを全面的に認めて諦めを背負うのは屈辱的だ。だから期待を捨てきっていないということにして、当面はこのままで我慢しようと溜飲をさげて保留している。そういうふうに装っている。

 何も変わらないと頭の片隅では理解しているけれど、それだけでは結局なにもかもを受け入れて諦めているのと大差はない。

 諦めていないふりをして、いつか変われるといまを生きている、淡い希望をずるずるいだいたままの負け犬。

 わかっている。

 だけど、なんだ、これは。

 こうして並べ立ててみると、いかにも惨めな身上じゃないか。屈辱と憎悪がこみあげてきて絡みあう。実際に渦中にあるときはそうとも感じていないのが、ますます我が心身が飼いならされている状況を示しているようだった。

 いつもならばこんなことは考えもしなかっただろう。パパに何度もぶたれて、痛いのを避けようと屈辱も憎悪も埋没させていつもに回帰していたに違いない。

 向こうを見たまま姿勢よく座っている早駆けを見つめる。彼が飛びこんできてこなければ、わたしは自分の想いまでも『いつものように』捨て去るところだった。

 ああ、愚かな女。

 背後から早駆けを抱きしめる。腕の中の彼はとても温かい。震えているわたしの身体を溶かしていくようだ。

「笑っているとね、自分の中にある恐いっていう感情も弱くなっていくの。自分は笑えているじゃない。なにも恐いものなんてないんだ、って――」

「あんたが笑ってるときは、恐いものがないときじゃなくて、恐いっていうのをごまかしているときだ……」

「早駆けはやっぱり賢いよね」

 そんな彼にわたしが行えることなどさしてない。

 ひるがえってわたしはしてほしいことばかりだ。

 慰めてほしい。

 抱きしめ返してほしい。

 恐いものなんてないぞ、と無責任でもいいから励ましてほしい。

「だけど」そんなわがままはとても口にできないのもわかっている。わたしに出来ることといえば、情けない自分の姿をさらけだすぐらいだ。それを見てどう行動するかは早駆けが決めればいい。

「さっき早駆けが手を引いてくれたときにだって、一緒に出て行けたのにね」

 わたしは打算的だ。彼の意思に任せようとしておきながら、一緒に連れ出してと、ちらちら露骨な期待を投げかけている。床に倒れこんで手を取り、強く示す。

「ごめんね、早駆け。本当はあのとき、すごい嬉しかったの。それなのにわたしは――」

 拳におそれおののき、怯えてすくみ、震えて立ち上がれなかったこの身の重さと頭の鈍さを憎んでも憎みきれない。

「あんたは、あれだな。この家というか――」

 早駆けがなにか言いにくそうにする。わたしが恐れているものを示そうとして、だけどそれを直截に示していいのか迷っているのだろう。

「わたしは――」大丈夫だよ、あなたの前でならわたしははっきり言える。

「パパが恐いよ」

「恐いものを認められるなら大丈夫だよ。虚勢を張りだしたらしまいだ」

 早駆けが請け負うように言った。彼はわたしの吐露がうらやましいのだろう。でも、

「認めていても、抵抗できないなら意味はない。たぶんそれだけじゃだめなんだよ。耐えてるだけじゃ。きっといつか押し負かされてしまう」

「抵抗、できないのか? ただ育ててくれただけの人を捨ててさ」

「花は自分で咲く場所を選べないんだよ」

 だからすがっている。あなたの傷だらけの手で、わたしを違う場所に植え替えてと。自分で動けるほどわたしは強くないから、この身をもっと強く引っ張って、ここから引き抜いてほしい。身を縛る根もろとも引きちぎって。

 早駆けは苦渋の面持ちで耳を傾けている。行動をためらっているのがわかった。飛びこんできてこの手を引いたとき、わたしが立ち上がらなかったことが、彼に恐れを植え付けてしまったのだ。それはもちろん彼のせいではない。震えていただけのわたしが原因だ。

 ……最適な行動の時機は逸してしまっていた。

 いまからでも遅くはない。そう考えられるのならば、そもそもこんな事態に陥ってはいない。

 考えすぎてしまうのがわたしと早駆けの悪癖だ。路地裏にはもっともふさわしくない人種。といって金持ちにもなれない。わたしたちのような考えすぎる連中は果断に富まない。遅疑(ちぎ)しているうちに好機を見落とす。それが原因で会社では好機を逸してしまうし、路地裏では命を落としてしまう。そんな愚かしい連中。

 自身そういう型だというのは熟知している。逸した機をいつまでも引きずっていても仕方がない。

 彼に身体を押し当てて、その手を強く握る。そばにいてくれるなら、いくらでも勇気が湧いてくる。

 わたしは自分がそもそもなぜあんな目に遭っていたのかの説明をはじめる。

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