なにもわかってない
もう一つの軛も振りほどかなければならない。物心ついたときから枷となっている、もっとも固い軛を。
「ねえパパ、他のお仕事がしたいんだけど」
「他の仕事だぁ?」
上機嫌で飲んでいたパパの眉間がみるみる吊り上がる。いまの切りだし方は失敗だった。
だけど退けない。たとえ切りだし方がよかったとしても、これから口にする内容はどんな状態からでもパパの怒りに触れるとわかっているから。
わかっていても、わたしは立ち向かわないといけない。早駆けと一緒にいられる明日をつかみたいというわがままのため。
「花売り以外でもね、生活していけるかな、って……」
「お前が口を出すことじゃない。それにいまより稼げる当てはあるのか?」
ひとまず小康状態で推移する会話にわたしはほっとする。だけどパパはいつ爆発するかわからない。虎口を行くようなひやひやした気持ちのまま、個人的に調べたあれこれの仕事をパパに提案してみる。
あれから花売りより稼ぎのいい仕事なんて見つかっていない。だけど飲んだくれのパパと花売りという生活の術しか知らない娘に、いまよりも稼げる手なんてあるわけがない。パパだってそれはわかっているだろうに、
「稼ぎが減ってるじゃねえか」
という予想できた不満を大声でよこすだけ。
パパは稼ぎを減らしたくないのだ。そんなことはずっと前からわかっているけれど、わたしはついこらえきれず口を開く。
「いつまでも流しで稼いでいたんじゃ、前みたいに危ない目に遭うかもしれない……」
以前は西部市の寄せ場近くで仕事をしていた。パパは元締めでいまより多くの花売りを擁していた。だけど派手に稼ぎを得ていたせいで、地元の地下組織に目を付けられてしまったのだ。わたしたち数人はあわよくばというところで逃げだせたけれど、稼ぎがよい花売りは向こうに捕まってしまった。彼女たちの行方は知らない。いまごろはどこかの郭か、川の底か土の中か。
一緒に逃げた花売りもパパについていけないと判断したのかそのあと姿を消した。出ていった花売りを恨む気はない。むしろ羨ましいと感じているぐらいだ。
あのときにわたしも姿をくらませていれば。そう後悔しても遅い。
この人がわたしのパパというつながりは、他の人が考えているよりも重いものだ。当時のわたしはその枷に足を取られていた。これも軛のひとつに違いなく、花売りと元締めという関係の軛よりも強固に絞まっている。
わたしが本当に外したいのは、花売りと元締めという軛だけではなく、きっとこっちなのだ。いまさらに気付く。
「あれは荒稼ぎをしすぎたからだ。いまは地道にやっているだろ」
「地道にやるなら、他のお仕事もあるよ」
「俺にいまより働けというのか!」
「だってそうしないと花売りをしたままだし……」
さらに大きくなったパパの声に身をすくめながらも抗議する。路地裏の花売りを、その路地を縄張りとする地下組織に無許可でやるなんて向こう見ずもいいところ。表通りで役所の認可を後ろ盾にはじめる仕事とはわけが違う。たとえ細々やっていたとしてもいつかは目を付けられてしまう。こちらも後ろ暗い仕事をしているから警察にも頼れない。となれば勝つのは力がある組織のほうだ。
そのときにはまた場所を変えればいい。パパはそう思っているのだろう。だけどそれは困る。早駆けとはきっと別の場所でも会おうと思えば会える――そのためにはわたしが無事に次の場所に行けたらという前提がある――けれど、それではわたしが花売りを続けているままになる。わたしはもう花売りをしたくない。
路地裏を抜け出したい。
変わりたい。
いまのわたしの思いだった。
「俺はてめぇに花を渡したり稼ぎをまとめたりもう十分に働いてるだろうが!」
「それならせめてここを縄張りにしてる人たちに許可を得ないと……」
パパに百歩譲るとしても許可は得ないといけない。
「安くもないみかじめ料を払って稼ぎを減らせってか? それとも他の仕事に就いて稼ぎを減らせってか? ばか野郎! それじゃあ商売の意味がねぇだろ!」
野太い声をあげてパパが腕をつかむ。
「やめて!」
変わりたいと願うこの気持ちを捻じ曲げようとしないで。叩き伏せようとしないで。
「ならてめぇがいらんことを言うのをやめろ! 他のことができるわけないだろ! ずっとずっと花売りしか知らないお前には!」
「一緒にやっていこうって言ってるの」
「だからこれ以上苦労しろってのか。お前は俺を楽にさせなきゃいけないんだよ! お前のせいで俺はな……」
家を出ていった母のことを言っているのだとわかった。わたしが生まれたのが原因だとは聞いているけれど、物心つく前に出て行ったのだから知らない他人だ。しかしそれが原因でこうなっているのなら、枷には違いない。
「わたしのせいにしないで! なんでわたしが――」
パパが手を振り上げるのが見えた。わたしは声を出すまいと口を強く閉じる。衝撃で唇を噛んで切らないために。痛いのはいやだ。しかしなによりも、変化を望む気持ちを剥奪されないためであった。
いつもの箇所を強くぶたれる。鼻筋と頬の間ぐらいだ。痛いのはいやだ。鼻筋が折れて商品価値を損ねないようにそこを狙っているのだ。それよりも前は顎を強く殴られて、気を失ってしまうこともあった。それに比べればずいぶんましになったものだ。
だけど痛い。もう涙は出ない。それでも痛いのはいやだ。代わりに鼻の内のいつもの傷痕が開いて、鼻血が噴き出る。
痛いのはいやだ。この痛みを避けられるのならば、路地裏を出たいという気持ちも早駆けへの想いも手放してしまいそうになるほどだ。わたしはいつもそうやって心を擲って身を守ろうとする。大事なものを犠牲にする。
痛いのはいやだ。またそうなってしまいそう。
わたしは弱い。
そのときだった――
「やめろ!」
甲高い叫びともにパパが横に倒れこむ。もう声だけで誰かわかってしまう。早駆けだ。
いつもなら路地裏で会っている時間だ。あっちに姿が見えなかったから、家までやって来たのだろう。彼にはいつもわたしの見せたくないところを見られてしまう。
「行こう!」
手を強く引っ張られる。
わたしは歯を食いしばったまま、身を大きくわななかせていた。痛いのはいやだと、身体が震えを抑えきれない。きっとそれが誤解のもと。首を振っているように見えたのだ。彼の顔に驚きと戸惑いがぱっと羽を広げた。
パパが早駆けを殴り、倒れたその体に酒瓶を二度、三度と叩きつけて追撃する。
「てめぇ、人ん家に入ってきて何様のつもりだ?」
言いながら大きく瓶を振りかぶる。
「やめてパパ!」
早駆けとの間に割って入る。
「やめてよっ! パパの大事な商品なんでしょわたし!」
「その顔を俺に向けるな!」
そう言われて、わたしはパパに花売りの笑みを浮かべているのを知った。
媚びるとき、許しを請うとき、場を鎮めたいとき、わたしはパパ相手にもこの顔を浮かべてしまう。この顔を最初に見せた相手に。当時はこれでお前も一人前だと褒められたものだけれど、いまは逆効果でしかない。それなのにわたしは本心ではない笑顔を向けてしまう。それより他に手段を知らなかったから。
悔しかった。
「とっととその汚いのを追い出せ! 知らん間に色気づきやがって!」
「あんな仕事だれだって色気づくわよ! だいたいあんただってその色気に――」
慰められているくせに、とみなまでは言えなかった。このことをパパは、『汚いの』にさえ聞かれたくないのだろう。お腹に拳骨が入り、漏れる空気と垂れる唾液が言葉を押しのける。
「じゃ、じゃあ……ちょっと出てってよ」
嘔吐きとともに喘いで絞りだす。拭いされぬ笑顔はしみついたままだ。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。寒気がする。
吐き気と気持ち悪さは痛みのためじゃない。そのとき痛みはほとんど感じていなかった。路地裏を出たいという気持ちは、辛うじて痛みから守られたのだ。