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想いに偽りなく

「俺だってあんなの見たくなかったよ。あんたが……、さ」

 あんなの。そう言われて身体がぴくりと小さく跳ねる。

「花が見本だっていうけど、あんなふうに口を寄せるのが商品なのか」

 取り引きとしてはその通りだ。でも心から想って口を寄せているわけではない。そんな説明をして通じるだろうか。きっと早駆けならば、いやなのになんでしているんだよ、と怒るだろう。それもその通りなのだ。だけど、花売りはいやでもしなければならないことのほうが多い。それはきっと愚連隊のスリだって同じ。

 いろいろな考えと反論が思い浮かんでしまう。だけどいまここで水かけをしてどうなるというのか。結局わたしはあらゆるものを呑みこんで、「うん」と渋々うなずくことしかできなかった。

「あんときの注文ってのは……」

 早駆けがぽつりと漏らす。最初に会ったときの未遂を指しているのだとすぐにわかった。

「あれは早駆けがその意味を知ってると思ってたから」

 そう答えると早駆けは首を横に振ってうつむく。

 そのときわたしは、彼の中でむくむくと湧き起こる情欲を確かに嗅いだ。彼がその意味もわからずに翻弄されているのさえ、手に取るようにわかった。花売りの仕事を知らない彼だから、その情欲が行き着く行為の意味もまだ知らないに違いない。それが初めて会った日に、わたしが迫った行為の延長にあるということももちろん。

 しかし彼も男だ。いずれ本能でたどりつくだろう。

「じゃあ、さ――」

 もしかしたらいまがそうなのかもしれない。

「誰にでもへつらうような顔も商品なんだな」

 と早駆けが身を乗り出すようにして顔を突きだす。

「うん」

 だからこそあなたには見られたくなかった。身を汚す花を。だけどいまとなってはもう……。

 最初にあの顔を向けたのはわたしだ。彼が情欲に身を任せるのならば、わたしもともに身を任せてしまおう。それはきっと、わたしが最初の日に早駆けに植えた種が芽生えたものだから。

「だけどそうじゃない顔も……あった」

 早駆けはまた腰を落ち着ける。彼の中で炎がすっと消えていくのがわかった。気が早いわりになにかと逡巡して一歩を踏み出せない、いつもの好ましい少年に戻っている。少なくとも、そこに男の影はない。

「やっぱり早駆けは優しいね」

 我知らずわたしは笑っていた。彼が彼のままでいてくれたという安堵の笑みだ。おそらくは彼が求めている笑みでもある。

「花売りをしているとね、まず覚えるのがあの笑い方なの」

 わたしはすぐさま次の一歩を踏みだす。言い訳と釈明の歩みを。

「あんなふうに笑っているとね、お客さんはそれを『愛嬌がある』って喜んでくれるの」

 愛嬌があるという褒め言葉の裏には、花売りは頭が弱いほうが扱いやすくていいという見下しが含まれている。

 わたしはお金のためにいつもにこにこしているし、少し頭が弱いふりをして、お金に見捨てられないように振る舞う。客は(さと)い花売りを気味悪がる。不気味なものを見る目を向けてくる。路地裏の花売りを買うような客は裕福ではないし社会的地位も低い。そんな彼らが欲するのは日々ためこむ鬱憤(うっぷん)のはけ口だ。自分よりも立場が低い相手が欲しい。言いなりのお人形さんはまさに最適。賢いお人形なんて気持ちが悪いだけ。

「あんな顔をしている間のわたしは喜んでなんかいない。そこは勘違いしてほしくない」

 改めて考えると吐き気がする。

「喜んでいない笑顔は、もう早駆けには見せたくない……かな」

 早駆けの目を見つめながら、わたしは望んでいないのだと言外に伝える。

「笑顔のことはわかった。じゃあさ、口を寄せるってのはどうなんだ。やっぱり好きでしてるんじゃないのか?」

「さっきも言ったけど、あれは商品だから」

 そう答えるのが精一杯だった。わたしだって本当は、大切な人のためにとっておきたい。売買とは関係なくそうなりたい。だけどわたしが花売りである以上は不可能な相談だ。

 ……結局、わたしが花売りを辞めなければいつかこの関係が破綻(はたん)するという事実に行き当たる。

 生きていくには花売りでもいい。

 でも花売り以外の方法もある。

 ううん、花売り以外がいい。

 それにはこの身を(いまし)める(くびき)を外さなければならない。

 そのうちのひとつは早駆けの手でかけられたものだ。

「ハナコって聞こえたけど、名前を教えるのも商品なのか?」

 そこも聞かれていたのか。わたしは苦笑する。わたしの名を知りたがっている早駆けだからこそ、それが本当の名かどうか気にかかっているのだろう。ハナコが本当の名ならば、それを教えるのも花売りとしての行為の一環なのどうか、と。一環ではあるが、それは商品というより便宜的なものだ。

「あの人たちの中にそれぞれの理想化されたわたしがいるんだと思う。名前はその表象のひとつ。お客さんが喜ぶように振る舞い、理想の名前を与えられるのは、商品としてのわたしの在り方なんだろうね」

「客が好き勝手に呼んでるってことか?」

「ま、そういうこと」

 だからわたしはサトコでもあるしタカコでもある。ただ花売りとだけ呼ばれもする。通り名にしても、もう少し雅やかなものをつけてほしいくらいだけど。

「わたしからもひとつ」早駆けにかけられた軛を外すべく切りだす。「いまね、五円分が尽きたかもしれない」

「そっか……、俺も五円であんたを買ったんだったな」

 見る間に落胆する早駆けを前にして、わたしはすまない気持ちになる。こんなふうにころころ変わる彼が見たくて、意地悪な切りだし方をしてしまった。

「そう、最初はね。……だけど早駆けはさ、なにもなくても、会いに来てくれる?」

「どういうことだ?」

「あの五円がなくなっても、あんな仕事をしているとわかったあとでも、早駆けはこれまでみたく会いに来てくれるのかな、って」

「会いに行くよ」

 喜びを隠しきれず即答する早駆けに胸が温かくなる。他のものはなにもかも打ち捨ててしまいたいと思わせるほどの早駆けの笑顔。こういう年相応の子供らしいところ――わたしからは()れてなくなってしまった部分――が大好きなのだ。

「これからもそういう時間を過ごしていきたいね」

 五円のやり取りを含んだうえで早駆けと過ごす時間からは、どうしても商売の延長という感がぬぐえなかった。だからいまその軛を解いたのだ。そうして過ごす早駆けとの楽しい時間は、きっとこれまでよりもはるかに良いものになるに違いない。

 これからは路地裏の花売りと戎の早駆けとの商売関係ではなく、わたしと早駆けとの私的な関係になるのだ。それがなによりもうれしい。

「俺もだよ。毎日でも会いたいぐらいだ。会えない日はなんか胸がもやもやしてどうしようもないぐらいでさ、なんなんだろうな、あの息苦しい感じは」

 その息苦しさはきっとわたしと同じものだろう。確信があった。彼はまだそれを自覚していないのだ。

「少し目をつむって早駆け」

 ふと悪戯心を起こしたわたしは、素直な早駆けの額に口を寄せてすぐに離す。

「……ちょ、な――」

「それの反対、かな」

 口づけの横文字を知っているだろうか。わからないと意味は通じない。いまはそれでもいい。二人の将来で、いつかはっきり伝えることだから。


 だけどそのときのわたしは、目先の悪戯心とは別に、花売りの意味についてうやむやのうちにすんだことにもほっとしていた。

 もしかしたら早駆けもそのごまかしには気づいているのかもしれない、という恐れはない。知っていれば彼は失望と怒りを重ね、わたしにぶつけてくれているだろう。そうしていないということは――ほとほとずるい女だ。

 ふと起こった悪戯心さえも、花売りの意味から目を逸らさせるための行為だったのではないか。自分でもそう考えてしまいそうになるが、それは断じて違う。

 理屈や言葉よりも、行為に本当の意味が顕れる。早駆けにそう言ったのはわたしだ。

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