痛みよ消えて
このごろ早駆けが少し朗らかになった。険が取れて表情も少し柔らかになった。本人は自分の変化に気づいていないようだったけれど。
それをもたらしたのがわたしならば、どれだけよかったか。
あいにくわたしはうぬぼれ屋ではない。もっと別の要因があるのはわかっている。
原因は彼が最近ついているという、スリではない別の仕事だ。彼はそれがなにかを明らかにしたがらない。けれどその調子からみるところ後ろ暗い仕事でないのはわかる。スリと違ってぎすぎすしなくてもいい別の仕事なのだ。それが彼に余裕をもたらしているのは明白だった。
ところでわたしはといえば、花売りの仕事をしながら早駆けに会うのが日増しに辛くなっていた。明るくなっていく彼が妬ましかったり疎ましかったりするのではない。
花売りの本当の意味するところを彼に知られたら……、その恐れが徐々に大きくなっていくのだ。
もし知られたらこの関係が終わってしまうのではないか。大人がそうであるように、汚らしいものを見る目つきをわたしに向けるのではないか。
そんな想像が脳裡をよぎるたび、わたしはつねらるたような痛みを覚える。体中につけられた仕事の名残りが、執拗に肌をつねる指になってしまったようだった。
「あんたは変わりないな」
「わたしはなにも変わっていないからね」
本当にその通りだ。変わりたいと思っているのに、早駆けと出会ったときからなにも変わっていない。
早く変わらないといけない。いつもまでも花売りのままでは、早駆けとの関係も変わらないままだ。花売りの意味に彼が気づいたときに、すべてが終わってしまう。
そんなときだ、あの出来事が起こったのは。
その日の客はあまりいいものではなかった。なにかとしつこく値切ろうとしたり、高い商品をお試しでと言って安くすませようとしたりする人。たまに奮発するときもあるけれど、ほとんどは少額であれもこれもと求めてくるけちな男。わたしに言わせれば、こういうところでぱっと使えない性格だから、余計に色々なものをため込んでしまうのだ。
しかしこちらも客商売。相手が手にした花に応じた最低限の仕事は果たさなければならない。身に沁みついた流儀が――この場合はくだらない誇りといってもいいかもしれない――わたしに手抜きを許させなかった。それについても嫌悪を覚えるのだが、そこはまた別の話。
ともかくしつこい相手だった。
「もう少しだけ」
と料金分がすんでも粘る。こういうときにひねり出される男の甘い声ほど気持ちの悪いものはない。耳にするだけで背筋が寒くなってしまう。
だめですよとはっきり断ってもなおしつこく、「いいだろ」と言いすがる。惚れただの好きだのあれこれ言い募って口づけをねだってくる。
たとえ一円未満の路傍の花売りといえども、唇は安売りしないといわれている。少し前のわたしならそれに同意はしなかった。仕事なのだから割り切るべきだと考えていたからだ。しかし当時とはすっかり心境が違ってしまい、大きな抵抗を覚えるようになっていた。
いまさらと笑われるかもしれないが、唇は大切なもののためだけに取っておきたい気になっていたのだ。この胸に浮かぶのはあいつのことばかり。
こんな男と唇を重ねては、自分の大事なものをおまけのように軽く扱ったことになってしまう。わたしは何度も首を横に振って拒む。
「いいだろハナコ」
男が強引にこちらの頬を挟んで顔を寄せてくる。ふさいだ手を押しのけられる。己の非力さが恨めしい。
「だめ」
せめてもの抵抗。唇をきつく閉じる。男は、「いい」と強引にその上から押し当ててくる。生ぬるいものが這う感触。気持ちが悪い。
そのときだ、「あ」と誰かが小さく声をあげたのは。
路地に入りこんできた無関係の人だろうか。それとも相手を希望する新しい客候補だろうか。横目で見ようとすると、男が慌てて顔を離す。他人に見られてはまずいと判断したのだろう、わたしから距離を取ろうとしていきなり腕を突き出した。
押されたわたしは路地の壁面に背中を強く打ちつける。男は目を逸らしてそわそわした態度を取りはじめた。その程度の肝っ玉ならば最初から強引に迫らなければいいのに。
声がしたほうを見るとあいつが――早駆けが膝をついて立っていた。
見られていたのだ。男が強引に唇を寄せていたのを、よりによって早駆けに……。
「なんだあれは、驚かせやがって」
男が腹立たしげに言う。路地に這入りこんだのが汚い身なりの子供だとわかったからだろう。過度に世間体を気にする男は、誰も見ていないところでは浮浪児や路地裏の子供には強気になる。
もし男が早駆けに怒りをぶつけたら、わたしはどんな態度をとればいいだろう。なにもせず曖昧な態度で見ているだけ? 彼をかばってお客さんの機嫌を損ねる? 個人としての判断と花売りとしての判断が相反してしまう。場を収めるにはどうすれば――
わたしはいつもの笑みを浮かべていた。またお願いしますね、と誘いまで添えて。
そのときには、わたしの言動を見た早駆けがどう思うかまで気を回している余裕はなかった。場を丸く収めようという見地から、この花売りの体と口がそう仕向けさせたのだ。
男はわたしの言葉など聞かなかったとでもいうように舌打ちして歩きだして、出がけに彼を蹴っていった。わたしがしたことは意味がなかった。
すぐに早駆けのもとへ駆け寄る。路面についた手の甲に手を重ねるが、彼は振り払うようにして手を引っこめた。
「見られちゃったね」
いまので彼は花売りの仕事内容をうかがい知っただろう。
「なんだよ、あれ」
わたしは疑問に答えず、場所を変えようと提案した。話すにしてもこんな場所で、見られた現場で打ち明けるのはいやだ。幸いパパは他の家に行っていて翌朝まで帰らない日だった。
早駆けの手を取ったけれど、またすぐに振り払われる。きっとわたしを嫌悪している。大人の男が向ける目でわたしを見ているかもしれない。ほんの数十分前まであの男が触れていた箇所が、ひねられたように痛みだす。おそろしくて、道中わたしは一度も早駆けを振り返れなかった。
居間に向かい合って座ったまま、わたしも早駆けもしばらく無言でいる。
なにからどう切り出していいのかわからない。早駆けもきっと同じだろう。
ときどき外を通りかかる人の足音が妙に大きく感じられる。隣近所とはここに移り住んだ当初から没交渉なので、中をのぞかれるおそれはない。わたしが花売りをしていることもおそらく知らないだろう。近所にそうだと知られてしまえば、前にいた場所のようになにかとやりづらくなる。また引っ越さなければならなくなる。
そうなれば早駆けとは会えなくなってしまう。
……そう、それがいまのわたしの行動の指針だ。
会えなくなるのはいやだった。
「あれは、花を買った人への商品だから」
そう切り出したのは、花売りの説明をなんとかぼかそうという考えからだ。
「商品って、花が商品じゃないのかよ」
「花は見本だよ」
「それ、前も言ってたな」
「本当の商品はあっちなの」
彼と離れるような原因にならないために、なるべく不明瞭にしてみる。我ながら卑しくいやらしい判断だ。
「あっちだって? あんなふうに顔を寄せるのが商品なのか? 見られちゃったっていうのはなんだ、見せたくなかったってことかよ」
「そうだよ」
ここは素直に答える。ごまかしはしても嘘はつきたくない。帝都にはそういう人が大勢いるそうだ。利口ぶる気はないが、わたしも間違いなくその一人に数えられるだろう。
「早駆けには見られたくなかった。わたしが何をしているかなんて」
あるいは、ここが潮時なのかもしれない。そうも思えた。
彼がまだ花売りの意味に気づかないうちに関係を断ち切ってしまえば、幻滅もされないだろう。
汚い身体できれいな彼に迫った者が見たいっときの夢だと、わたしも忘れようと努める。悔いが残るのは目に見えているが、失望され距離を置かれるよりはましな別れかもしれない。
――いや、決断しかねる。
そんな決然とした態度をとれるほどわたしは勇ましくない。