スリの少年
早駆けと名乗った愚連隊の下っ端がわたしにかくまわれるにいたったきっかけは、警官の言動から予想しえた通りで新味はなかった。
それよりも戎という愚連隊はこのあたりを縄張りにしているのかどうか、それが気になると同時に不安をいだいた。
わたしはこのあたりの組織やら縄張りやらに詳しくない。ここにたどり着いたのは一か月ほど前だ。前にいた場所は場所代を払わないかどで、そこを縄張りとする組織に仕事場を荒らしまわされたあげく、追い払われてしまった。一緒に仕事をしていた子が何人も連れて行かれた。二度と同じ目に遭うまいと、パパは客以外とはかかわりを持たないように言ってきている。
このスリがもし自分の組織にわたしのことを報告すれば、また追い払われるかもしれない……。
だけどそんな不安は、たちまち生じた好奇心にあっさり打ち砕かれてしまう。
好奇心――愚連隊がどういう実態を持っているのかがひどく気になったのだ。連中がどういう性格の集団なのかは知っている。肩で風を切って悪さをするやんちゃな青少年の集まりだ。そういわれているけれど、本当にそうなのかが気にかかったのだ。少なくとも目の前にいるスリには、悪さをして得意そうにしているというよりも、やむにやまれぬ事情のためにスリをしているという雰囲気がうかがえる。本人はあくまで得意げであるが。
同年代と比べてもわたしは知識がある方だと思う。むろん学校に行ったことはない。あれやこれをパパに教えられたわけでもない。パパはわたしに最低限の文字と発音を一致させるよう仕込んだだけだ。
わたしの先生はもっぱら新聞だった。パパに仕込まれた最低限の文字から、謎を解くようにして紙面を読み解いて知識を得た。わからない言葉と発音は客に聞いて補った。元来知識と知恵は違うものだけれど、好奇心が学びの知恵を生み、紙面から知識を獲得させるにいたったのだと思う。知らないことを知るのは快感だった。路上に新聞を捨てていく人には感謝しなくてはならない。
幼いうちから知恵や知識をつけすぎると、賢しらで生意気な子供になってしまう。そんな見方をする大人もいる。しかし帝都は子供にもっと学ばせるべきだと思う。経験に照らして言えば、幼いうちから世事を知っておけば、いやでも現実が見えてしまう。そうなれば世間に過度な期待をいだかなくなるものだ。
だけどわたしも世間のおこぼれで生きる身。期待は持たずとも順応はしなければならない。
知識と花売りの距離についていえば、隔たっていればいるほどよい。こちらが聡く見えてしまうと、お客さんは気味悪がって離れていってしまう。なるべく無知――白痴ではいけない――を装わねばならない。困ったときにその原因に考えをめぐらしてはいけないし、嬉しいときや相手を頼るときには媚びるように笑わなければならない。表情の変化は知識を覆い隠す。そのときどきの単純な反応が喜ばれるのだ。たとえ本心からの反応でなくても。
喜ぶのはお客さんだけじゃない。パパも同じ。少しでもパパの知らないことを口にすれば、わたしは叱られてしまう。悲しいと言って謝るとパパは態度を変えてすぐに慰めてくれる。その間はわたしも叱られたことを忘れていられる。
反応して生きていくだけの一生ならば、知識は手放してしまってもいいのかもしれない。けれどわたしは眠ってしまったパパを見つめながら、パパがなぜ叱ったのかを考えてしまうのだった。
パパが怒るのはわたしが聡いからではない。いっときでもわたしを理解できなかったからだ。
だからパパが謝ったわたしを慰めてくれる理由もわかる。理解できないものを屈従させることで、それをすっかり征した気になって満足しているのだ。慰めはわたしのためというよりも、パパが自身の怒りを鎮めるためという側面が強い。これは、ひいて多くの男にも当てはまる性質なのかもしれない。
性質は爛漫に、知恵は散漫に。
それが花売りに求められているものだ。
ところで世間には、路傍の素朴な花売りが紳士に見いだされて教育を受け『させ』、晴れて上流の仲間入りを果た『させる』という話があるが、そんな現実は私が知る限りではどこにもない。あれらは俗気な女に失望した男のために用意された夢だ。夢は現実に立ち現れない。わたしもそんなものに期待して学んだわけではない。
知恵が求められる女がいるとすれば、それは路地裏の花売りではなく楼の女だろう。自立しつつある帝大生や女学生でもない。学ぶ女は賢しらで生意気だと言われている。
いろいろと話がずれた。
「生意気な女だ!」
そう、知識があると生意気。新聞を身にまとわずに目を通す生意気なわたしは、愚連隊という組織の実態がどんなものか気になったのだ。もちろんパパの言いつけどおり愚連隊とのつながりを持つ気はない。だけど、未知への貪欲さがわたしの中に好奇心を生みつけていく。わたしは逃れられない。
「減らず口!」
自分でもそう思う。だから、「ごめんね、早駆け」と折れて素直な面を出したように見せかけた。
「同じぐらいの年の人と話す機会がほとんどなかったから、つい嬉しくって余計なことを言ってしまったのかも」
これは本当だ。お客さんはくたびれた男ばかりだし、前の居場所を追われてからは親しくしている花売りもいない。愚連隊への好奇心の陰には少なからず彼への興味もあった。だけどそれもやっぱり単なる好奇心で、親しみたいからではない。
「俺のせいで品物がめちゃくちゃになっちまったな……」
早駆けが花を拾い集める。気持ちは嬉しいけれど、台無しになった花はもう使えない。
少しだけ負い目を感じてほしくて、わたしはまた笑顔を浮かべ、じっと早駆けを見つめる。思うところが伝わったのだろうか、彼は、「そうだ、忘れないうちに」と戦利品の財布から硬貨を抜いてくれた。
負い目と良心からお礼が出てくるのならば、笑顔など安いものだ。
早駆けが差し出したのは五円だった。
このスリはいったい何を考えてこんな額を渡すのか。一回四〇銭から八〇銭で売っている身には大きすぎる。スリを少しかくまっただけで五円なんて、もらうほうがおそれ多い。
わたしは手でバツを作る。せめて円銀にしてくれたら。
「そのまま受け取ってくれ。もらえるもんもらっといて損はないだろ?」
贈り物が過剰だと、かえって受け取る側が負担に感じてしまうのがわからないのだろうか。無造作に抜き取った動きそのままに、この少年はそこまで考えが及んでいないのだ。あるものはあるだけ持って行く。そんな考えの持ち主なのだろう。
――このとき早駆けの言葉通りに罪悪感を覚えず受け取っていれば、あとで苦しまず、思い煩いもしなかったのかもしれない。スリと花売りのまま別れて、それきりでいられたのかもしれない。否定のあとの後悔はいつも遅い。
「……じゃあこう考えてくれ、俺は自分の仕事でこの金を手に入れた。で、その金で俺はあんたから花を買う。つまりあんたも自分の仕事でこの五円を手に入れた。お礼を押しつけられたんじゃないし、共犯者になったわけでもない。これなら後腐れはないだろ?」
スリがこんな理屈をひねりだしてきたのでわたしはびっくりした。もしかすると地頭は悪くないのかもしれない。
そのときだったろう、わたしの好奇心の重点が、愚連隊から愚連隊の早駆けへと移ったのは。
彼はなぜ愚連隊に入ったのか。
いったいどんな人生をたどってきたのか。
だけど……、彼がわたしから花を買うというのならば、こちらも渡さないといけないものがある。代価を受け取るのだから、商品を渡さないと不公平ではないか。
売買が成立したら金額分は尽くせ。
わたしが守る原則に従い、早駆けへの興味や頭の良し悪しはいっとき脇に置いておく。
……少しだけ、彼の顔に惹かれていたのは認めてもいい。それもぼさぼさの髪と垢まみれの肌のせいで台無しだったけれど。
唇を額に当てて舌を這わすと、早駆けは真っ赤な顔をしてわたしを引き離した。
彼が花売りの仕事がなんなのかを知らないのがすぐにわかった。
路地裏で花を売る。それだけで生計を立てられるなんて、この子は本気で思っているのだろうか。愚連隊の下っ端にしたってあんまりにものを知らなさすぎる。
愚連隊に、いや、路地裏側に来て日が浅いのだろう。
初心といえば聞こえはいいが、そんなものここでは食い物にされるのがオチ。生きていく資格を持っていないようなものだ。そんな彼がなぜこっちに来たのか、ますます気になってしまうじゃないか。
「花売りの本当の意味、知りたい?」
押し倒して耳に吐息を吹きかけると、早駆けは身を震わせた。鳥肌が立つ肌を撫でていく。側頭から首筋、肩から手の指。次に服の上を胸から腹へ。
同年代の客は初めてだけど、うっとりした態度の男の子はとても可愛かった。わたしの鼓動も速くなる。
だけど、そこである疑問がよぎり手を止めた。
本当になにも知らないのだ、こいつは。
売買は成り立っている。
しかし自分が買った花の意味さえも知らないこいつに、そのまま続けてもよいものだろうか?
いつも摘まれる側のわたしが摘まむ側になった心地がして、わたし自身とうてい肯じられなかった。
「気が進まない人を相手にしちゃったら押し売りになるのかな。進んで買った相手に押し売りっていうのも、筋が通らない話だけど」
彼がその意を理解するまで商品の受け渡しを保留しておくと決める。
「それにあなたも、もう少し勉強が必要だね」
早駆けは神妙な顔つきでわたしを見ていた。意味を聞きたいのだが、わたしに聞いてもよいものかと迷っているのだろう。
「……で、五円はあれでしまいなんだな?」
彼は疑問をわたしにぶつけるのを止めたようだったけれど、言葉には物足りなさを覚えている気色がありありとにじんでいた。わたしはそれがおかしくって、くすくす笑ってしまっていた。
あれが五円分? ご冗談を。けれど、
「あなたが満足してるのならあれでおしまい。もし足りてないのなら――」身体はしっかり反応していたのだから、本能とやらは薄々わかっているのかもしれない。「ときどきでいいから、会いにきてくれると嬉しいかな。話し相手をしてくれるだけでいいから」
話し相手になってくれればいいというお客さんもいるにはいる。たいがいは追加で注文が入るのだけれども。
この子に関して言えば、仮にその意味がわからないまま別れる日が来るとしても、話し相手としての対価で五円を受け取ったとわたし自身を納得させられるだろう。
「そんなので良ければいくらでも」
早駆けの言葉がにわかに活気を帯びる。
「そんなの、じゃなくて、それがいいの。こんなところで花売りなんてしてるとさ、同年代の子と会う機会がほとんどないから」それは本当のこと。「あなたは愚連隊の友達といつも一緒にいられるかもしれないけど」
「友達なんかじゃねえよ……」
「ごめん、嫌なこと言ったみたいだね」
隊内であまり良い待遇を受けていないのだろう。下っ端と自称するのは自嘲ではなく本当のようだ。わたしはますます彼への興味を募らせる。
「いいよ、あんたは知らないことだしな。それより、あんた、なんつうのも具合が悪いな……、名前は?」
「そう、ね……、早駆けの好きにしていいよ」
含みを持たせるのはこういう商売に必須の技術だ。